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令和の被爆者証言シリーズ 田崎禎子さん

歌に込めた平和と家族への思い
  • 2022年11月09日

毎年、平和祈念式典で平和への思いを歌ってきた合唱団「ひまわり」のリーダー、田崎禎子さん。田崎さんが歌い続ける理由には、平和と家族に対する思いがありました。
 

長崎放送局 記者 池田麻由美

4歳の被爆体験

2022年の平和祈念式典

「これから先も平和であってほしいというその気持ちだけ。
歌声が届きますように。その思い、一心でした。」

2022年の長崎の原爆の日。
こう語ったのは、合唱団「ひまわり」のリーダーを務める田崎禎子さんです。

田崎さんは4歳のとき、爆心地から4.5キロの当時の長崎市愛宕で被爆しました。
その日、田崎さんは牧場で姉と2人で遊んでいたといいます。

田崎さんが被爆した牧場が当時あった場所

原爆投下の直前、飛行機が飛ぶ音を聞いたという田崎さん。
建物の中に避難するよう大人に手招きされ、姉と2人で走って逃げたのを覚えています。

建物に一歩入った途端にピカっとして、すごい音でした。
建物のガラスがたくさん割れた音がしました。一瞬のことでした。

田崎さんは無傷でしたが、叔母といとこが亡くなりました。
その夜、田崎さんは防空壕に避難し、原爆投下直後の長崎を見ることはありませんでした。
知っているのは、被爆から数年後に母親から聞かされた「あの日、浦上は火の海だった」ということだけでした。
そのあとも、田崎さんは原爆について詳しく聞かされることがないまま成長していきました。
 

戦後の暮らしを支えた歌

田崎さんは歌があふれる家庭で、歌が大好きな女の子に育ちました。
母親のイ子さんが、歌が好きでよく口ずさんでいたからです。
戦後、苦しい生活の中で、歌が田崎さん一家の心のよりどころだったといいます。

田崎さんと母親のイ子さん

母が常に歌っていたから同じように歌うというか。
毎日歌がない日はないほど歌っていましたね。
母は生活が大変な時でも歌をよく口ずさんでいましたので、多分自分の気持ちを和らげる手段だったのかなと思いますね。

23歳になった田崎さんは就職を機に15年間長崎を離れます。
そして、歌を歌うことも平和について考えることも次第になくなっていったといいます。

長崎にずっと若い頃いれば考え方とかも多少あったんでしょうけど、何も知らないでいました。ただ黙祷だけはしていましたね。11時2分は絶対忘れられないっていう思いがありましたので。

歌との再会
 

その後、田崎さんは結婚を機に長崎に戻りました。
それから30年後、転機となったのが、被爆者の合唱団「ひまわり」がメンバーを募集していると知ったことだったといいます。
思い出したのは、原爆で亡くなった親戚のことでした。

平和祈念式典の祈念像のところで歌うという募集でしたので、そこで歌うということは亡くなった叔母といとこの供養になる、とまず考えたんですよね。それでぜひ参加したいと思って。

田崎さんが参加を決めた背景には歌が大好きだった母親の存在があったといいます。

お母さんは、歌を通してということと、平和式典っていうところで、
すごくいいことができるねって言ってくれましたね。

心境の変化

「ひまわり」で、田崎さんは様々な経験をしてきた被爆者と出会います。
そこでの活動によって、平和について考えることが身近になったといいます。

私は、原爆というのは頭ではわかっていたんですけど、悲惨な状況も全く見ないで、ただ母から「浦上は火の海だった」としか聞いていませんので。
でも、ひまわりのメンバーから、いろいろな環境の下でこれまで頑張って生きてきたっていう話を聞いて、「そんなにひどい状況だったのね」「皆さん原爆の影響で本当にそれぞれの苦労があったのね」って思いましたね。
そんな皆さんと同じ時代を生きてきたというところですごく親近感がありました。
それに、それまではあまり平和に関して考えてもいませんでしたが、ひまわりで皆さんのお話を聞いて、平和がどれだけ大切なことか、より感じるようになりました。歌を通して平和を訴えられるというところで、ひまわりに出会って、私の人生はすごく変わりましたね。

戦死した父への思い

もうひとつ、「ひまわり」のメンバーとして活動をすることで大きな変化がありました。

田崎さんの父親、仁さん

それは、原爆投下の数か月前、フィリピンで戦死した父親の仁さんについてです。
いつも家族のために家をきれいにしていた、掃除好きの優しい父親だったと聞いています。母親が戦後に再婚したことで父親のことを話しずらい期間が長く続いたといいます。

「年月が経って記憶が埋もれてしまう前に、父親のことを話したい。」
ひまわりの活動を通じて平和について考えるようになったことが、心にしまっていた父親への思いを話すきっかけになったのです。

話さないでいると亡くなった父が本当に浮かばれないと思ったんですよ。
なんだか存在を無視しているような感じで。生きた証を私の口から公にしたいという気持ちが本当に強くなりましたね。

今後の活動と歌への思い

「ひまわり」の練習風景

田崎さんが「ひまわり」のメンバーとして活動を始めて14年となったことし。
「ひまわり」は大きな変化を迎えました。

これまで「ひまわり」のメンバーは被爆者のみでしたが、高齢化が進んだため被爆者以外もメンバーに加えて再出発したのです。

田崎さんは、被爆者の思いを次世代に継承するため、若い世代と共に平和への願いを歌に乗せて伝え続けます。
 

歌うこと。それが生きがいですね。
これから先生まれてくる子供たちにとっても、平和は一番大切なことだと、私たちも身にしみてますので、その気持ちを引き継いでいってほしいと思いますね。将来のために。

取材後記

特集を放送した後、私が田崎さんにお礼の電話をすると、田崎さんは「お母さんとお父さんを一緒に見ることができてうれしい。親孝行になりました」と話していました。
これまでもNHKでは田崎さんについて取材・放送をしてきましたが田崎さんのお父さんへの思いをお聞きできたのは初めてで、田崎さんが長らく抱えてきた思いに触れることが出来ました。
さまざまな理由でこれまで語られなかった体験が埋もれてしまう前に、被爆者の体験や思いを受け止められるように、私たち若い世代こそが学んで、考えを深めていかなければならないと感じました。

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