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長崎あん時ものがたり ~諫早 眼鏡橋~

  • 2023年11月14日

これまでNHKに保存されてきた映像を紹介する「長崎あん時ものがたり」。
”眼鏡橋”といえば長崎市の観光名所を思い浮かべる人が多いかもしれませんが、諫早市にも街の
シンボルとなっている眼鏡橋があります。長さはおよそ50メートルと長崎市の眼鏡橋のおよそ2倍。
180年以上前に造られ、諫早大水害を経てなお当時の姿を残す諫早市の眼鏡橋の“あん時”を
振り返ります。

NHK長崎放送局 津川 太介

諫早市民の憩いの場

 

諫早公園の眼鏡橋

諫早公園内の池にかかる石造りの眼鏡橋。
石橋としては日本で初めて国の重要文化財に指定されました。
橋をわたって散策したり景色を眺めたりと、現在も市民の憩いの場として親しまれています。


水害でも流されない橋

本明川にかかっていた眼鏡橋 写真提供:諫早市

長崎市の眼鏡橋をモデルに1839年に完成したこの橋。当時は本明川にかかっていました。
水害でも流されない頑丈な橋を目指し、石材に鉄の棒を打ち込んで接合するなど、当時の最新技術で
造られました。


1957年 諫早大水害

しかし、想定を超えた悲劇が橋を襲います。1957年の諫早大水害です。

1日で588ミリの雨を記録し、本明川などが氾濫したほか土砂くずれも相次ぎ、
死者・行方不明者は630人に上りました。
眼鏡橋は水の衝撃には耐えたものの、流木をせき止めて被害を拡大させたとの指摘がなされました。


橋を後世に残したい

水害後の復興策では解体する案も浮上しました。
しかし、文化的価値の高い橋を何とか残したいと、当時の市長が国に働きかけました。
その後、国の重要文化財に指定されたことで、諫早公園への移築保存が決定しました。

諫早公園での復旧作業

移築復元は、使われていた石をほぼそのまま使い、昔の工法で元の寸法通り仕上げるという
難事業でした。

工事が始まってから2年半後の1961年、ついに移設が完了し、渡り初め式が行われました。
多くの市民が訪れ、橋の完成に沸きました。

渡り初め式

シンボルとしての眼鏡橋

眼鏡橋に特別な思いをもった人がいます。
 

70年以上この近くで暮らす古賀文朗さん(83)です。
古賀さんは、眼鏡橋が諫早のシンボルとして胸を張ることのできる自慢の橋だったと振り返ります。

古賀さん
「川にかかっていた橋は美しかった。これだけの大きな橋は、その当時そう簡単に
 作れなかった。諫早が単に長崎の郊外ではなくて、独立した町だと示しているのが   
 この眼鏡橋なんだよと」

古賀さんは17歳のころ諫早大水害で被災しました。
当時は水害を拡大させる一因ともされた眼鏡橋を恨んだこともあったといいます。

しかし、移築された後も昔の姿をとどめる橋を目にしたとき、災害の記憶を残す意味に
気づかされました。

古賀さん
「当時は人が死んで“恨みの橋”だったが橋は何も悪くないということに気づいた。
 流れない橋を造るのもいいけれど、いかに水を逃がすかなどの知恵も備えて
 おかないと被害が出るということを眼鏡橋は証明してくれた」

古賀さんは現在、防災を啓発するNPOのメンバーとして企業や学校をまわり、教訓を伝えていす。

古賀さん
「諫早と言ったら眼鏡橋というふうにわれわれは思っている。
 悲劇は伴っているけれどその時代の思いひっくるめてこれは大事なものだろうと。  
 歴史を学ぶもの、教えるものとして存続してほしい」

取材後記

諫早公園に優美にどっしりと重厚にたたずむ眼鏡橋。

壊れない橋として当時の英知を結集して造られたものの、それが結果的に悲劇を生んでしまった歴史は、今なお自然や災害と向き合い続けている現代と重なるものがあるように見えました。過去の歴史を古賀さんから伺っていく中で、まさに「無言の教師」であると感じました。

ご紹介した眼鏡橋から道路を挟んだ場所には「ミニ眼鏡橋」と呼ばれるもうひとつの眼鏡橋があります。本明川にかかっていた眼鏡橋の姿で移築復元するために造られた精巧な模型で、作業の際に役立てられました。「橋を残したい」という当時の人たちの思いを強く感じました。

  • 津川 太介

    長崎放送局

    津川 太介


    ニュース映像制作担当。2006年入局。
    2023年8月より長崎放送局勤務。
    長崎県内にある橋を車で渡って旅をすることを画策中です。

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