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おもしろい盛岡城 “石垣だけ”なのに ① 歴史編

豊臣秀吉との関係から詳しすぎる殿様まで
  • 2023年07月25日

4年前、盛岡局に赴任して以来、ずっと目にしている「石垣だけ」の盛岡城跡。

城内の春の桜や秋の紅葉は確かにきれいですが、天守のない城なんてつまらない・・・そう思っていました。

でも「いま7億円をかけて石垣を直している」と聞き、どれほどの歴史や価値があるのか、気になって調べてみることに。

こんなに味わい深いとは思いませんでした。あの豊臣秀吉との関係から現場監督顔負けの殿様まで、石垣の歴史を丸かじり。
「“石垣だけ”なのにおもしろい盛岡城 その1 歴史編」です。

(盛岡放送局 記者 髙橋広行/ディレクター 大北啓史)

その2 現代修復編」はこちら

壮大な石垣

盛岡市中心部にある盛岡城跡。

天守など城内の建造物は、明治維新の後、老朽化を理由に民間に払い下げられて、取り壊されてしまいましたが、壮大な石垣が残っています。

二ノ丸石垣

二ノ丸西側の高さは最大14m。マンションで言えば5階相当の高さで、迫力があります。

城全体に石垣が用いられた「総石垣の城」は、東北地方では、盛岡城のほかに福島県の会津若松城、白河小峰城だけです。石垣の城が東北に少ないのは、残されていないのではなく、もともと存在していないからだといいます。

では、なぜ盛岡の地に立派な石垣の城が築かれたのでしょうか。

盛岡城跡公園の一角にある「もりおか歴史文化館」を訪ね、学芸員の熊谷博史さんに話を聞きました。

もりおか歴史文化館 熊谷博史 学芸員

理由は大きく分けて、4つ考えられるといいます。

①城下町づくりに最適
②"南へのにらみ”を効かせたい
③石が足元にあった
④詳しすぎた殿様のおかげ

理由①城下町づくりに最適

熊谷さんは、まず江戸時代の文書を示してくれました。

江戸中期に盛岡藩士が書いた『祐清私記』。

この文書には盛岡城の築城をめぐる記述があり、ある名前がたびたび登場します。豊臣秀吉の重臣で、五奉行の1人でもある、浅野長政です。

秀吉が天下統一を果たした翌年の1591年、浅野は初代盛岡藩主・南部信直(1546~1599)に、次のように伝えたと書かれています。

当時、信直は、いまの青森県にある三戸城を居城としていました。

「いまの居城(三戸城)は、古くから伝わる地で守りも堅いが、四方を高い山に囲まれ、田畑のない土地だ。豊かな地とは言えない。願わくば、このところ(盛岡)をとりたてて、居城としたらどうか」「前には田畑があり、後ろには大河を抱いている。山、川、行路どれもちょうどよく、誠に珍しい地形だ」
『祐清私記 盛岡築城之事』より
※もりおか歴史文化館の協力により現代語に意訳 括弧内は筆者が補足

もりおか歴史文化館 熊谷博史 学芸員
「当時、城造りは、城下町づくりとセットでした。戦に備えて家臣を住まわせ、暮らしていけるように、国を富ませる意味でも、職人や商人を住まわせて町をつくる。それには平地が多いエリアがいい。田んぼも多く、経済的な基盤である米もつくれる。北上川、中津川、雫石川と川が合流する場所で、物資の輸送にも大変便利な場所。交通の要衝としても優れているから、この場所に新たな城をつくったらどうか、と読めると思います」

江戸中期に描かれた城下図  

理由②"南へのにらみ”を効かせたい

2つ目の理由は、軍事面です。
当時、戦国の世を切り抜けるため、南部信直は、秀吉に臣従を誓ったことで、領地を安どされていました。

さらに、南の「稗貫・和賀郡」の支配も認められます。

1591年ごろの大名領

一方で、伊達領も拡大。お互いの領地が広く接することになりました。"独眼竜”で知られる伊達正宗は、表向きは秀吉に従いながらも、領地拡大の手を止めなかった人物です。

"南へのにらみ”を効かせるためには、三戸城ではあまりに遠すぎたことも、浅野長政の助言につながったと考えられています。

理由③石が足元にあった

そして、秀吉の許可を受け、築城にあたって選ばれたのが、当時の最先端で、防御力が高く、権威を象徴するような高低差のある「石垣の城」でした。

では、肝心の石はどこから運んできたのでしょうか?

もりおか歴史文化館 熊谷博史 学芸員
「実は、盛岡城が築かれた丘陵地の下には、太古の昔に形成された大量の花こう岩が眠っています。『祐清私記』には、城をつくろうとしたら岩が露出したので、掘り起こそうとしたが、いくら掘っても全然終わらなかったという記録も出てきます。本来、石垣をつくろうとしたら、大きな船やたくさんの人を使って石を運び込んでこないといけない訳ですが、盛岡の場合はその必要がなかったんです。石の調達と運搬が容易だったことで、石垣の城を選びやすかったと言えます」

石垣づくりにおいては、石の掘り出しや加工よりも、運搬にはるかに多くの人手がかかっていたという専門家の指摘もあります。

巨石は、いまも城跡周辺のあちこちに見られます。

烏帽子岩

こちらは、城内の櫻山神社にまつられている「烏帽子岩」です。築城にあたって地面から掘り起こされたと伝わり、高さ6m以上、周囲は20mもあります。また近くの盛岡地方裁判所前にも、周囲20mを超える花こう岩を真っ二つに割って生える「石割桜」があります。

石垣の城となりえた理由の1つが「足元に石があったから」でした。

理由④詳しすぎる殿様がいた

熊谷さんは「とっておきの資料がある」と収蔵庫から、ある書状を大切そうに持ってきました。

「毛馬内三左衛門宛 南部利直書状」もりおか歴史文化館所蔵

送り主は、信直の息子で、2代藩主・南部利直(1576~1632)です。

盛岡城の城造りは、利直の手によって進められたのですが、現場の家臣に、殿様とは思えないような指示を出していました。

それがこちらです。

「根石(石垣の一番下の石)のきわに、水がたまるように少し高く土を置くのだ。根石のきわに水がたまれば、下の土がやわらかくなって(石が地面に)押し込まれる。これは大事なことだ」
「土手をなおすところには、土の悪いところに黒土を混ぜるのだ。黒土がとれるところは、足澤屋敷の裏に多い」「また掃部助(家臣の通称)の裏にも台所の方にある」
『毛馬内直次宛南部利直書状』より
※もりおか歴史文化館の協力により現代語に意訳 括弧内は筆者が補足

どうすれば、石垣がより安定するのか。崩れにくい土は、どんな種類で、どこにあるのか。

思わずふき出してしまうほど具体的で、詳しすぎます。

もりおか歴史文化館 熊谷博史 学芸員
「最初に読んだ時、本当にこれ殿様かと思いました。殿様って、もっと偉そうに、ふんぞり返って、造れとだけ言って、完成したところに入っていくくらいだろうと思っていました。ところがです。この手紙を読むと、超厳しい現場監督でもあり、超優秀な技術者でもあります。どんな殿様でも、ここまでの書状が書けたとは思えません。特に石垣に関する指示が多く、盛岡城の石垣がこのような形になったのは、利直さんだったからこそではないかと」

熊谷さんによると、利直は、10歳ごろから城を見て回るのが好きで、夏には土で、冬には雪で、城に見立てた山をつくり、どこから敵が攻めてくるかを考えて遊んでいた、見込んだ老人(当時の知識人)たちがさらに知恵を授けた、というエピソードも残っていました。

北上川の洪水や改修工事などもあり、完成までには40年以上の歳月が費やされた盛岡城ですが、利直のただならぬ情熱と知識も、「石垣の城」を大きく牽引したと言えそうです。

熊谷さんは「浅野長政、ひいては秀吉の意向が大きな後押しとなったとは思いますが、南部家としても、命令でいやいや建てたということではなくて、新しい時代の拠点をつくろうと極めて前向きに築城を進めたと考えていいでしょう」と話していました。

こうした歴史をたどった石垣は、いま300年ぶりという修復工事が進められています。取材で見えてきたのは、江戸時代さながらの苦労でした。

「“石垣だけ”なのにおもしろい盛岡城 その2 現代修復編」はこちら

【取材協力】
もりおか歴史文化館
岩手県立博物館
神山仁さん(日本城郭史学会会員) 

  • 髙橋 広行

    盛岡放送局 記者

    髙橋 広行

    埼玉県川越市出身。2006年入局。広島局、社会部、成田支局を経て、2019年から盛岡局。8歳と6歳の父親。
    盛岡局最後のリポートが、目の前の盛岡城になりました。8月から大阪局・関西空港支局です。

  • 大北 啓史

    盛岡放送局 ディレクター

    大北 啓史

    東京都出身。2020年入局。盛岡局が初任地で4年目。城の奥深さにひかれ一人全国城巡りツアーを企画中。

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