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朝ドラ「らんまん」主人公と親交 岩手の偉人 鳥羽源藏とは

  • 2023年03月31日

4月3日スタートのNHK連続テレビ小説「らんまん」。
主演は俳優の神木隆之介さんで、1500以上もの植物に名前をつけた植物学者・牧野富太郎をモデルにしたオリジナルストーリーです。
去年、これが発表された時、岩手県陸前高田市の漁協に勤める人から、私(記者)のもとに電話がかかってきました。

「ニュース見たよ。次の朝ドラ、高知の牧野富太郎だってね」
「そ、そうですね」
「なら、こっちのトバゲンゾウを取材しなきゃ」
「ト、トバ?ゲ、ゲ、ゲンゾーですか?」
「鳥羽源藏ね。生物や自然科学の研究者なんだけど、とにかく調べれば、すごさがわかるから。よろしくね(ガチャ)」
「え、あ、ちょっと…」

半信半疑、おそるおそる取材を始めると…。たちまちその魅力にとりつかれてしまいました。
“岩手博物界の太陽”とも呼ばれた人物の実像に迫りました。
(盛岡放送局記者 髙橋広行/カメラマン 中本祐太)

2023年3月31日「おばんですいわて」で放送 
※放送動画はこの記事の最後にあります

●鳥羽源藏ってだれ?

まず向かったのは、陸前高田市の市立博物館です。

12年前の東日本大震災で全壊しましたが、かさ上げされた中心部に再建され、2022年11月に一般公開されました。週末は県内外から多くの人から訪れる、新たなにぎわいの拠点になっています。

真新しい館内を奥へ進むと、、、ありました。
「知の巨人 鳥羽源藏」というコーナーが。

鳥羽源藏 1872年~1946年

まずは、この展示や博物館に残された資料を読み解くことにしました。

鳥羽は1872年(明治5年)に岩手県小友村(いまの陸前高田市)に農家の長男として生まれます。広い農地を持ち、当時としては裕福な家で育ちました。

幼少期、病弱だった体を鍛えるために、教員でもあった叔母のすすめで海辺や野山を歩き回ったことで、自然や動植物への関心を高めたと伝えられています。

いまのような義務教育がない時代の話です。学校へ通ったのは16歳ごろまでで、途切れ途切れ。その後は、地元の小学校で教員をしながら、好きな研究を“趣味で”続けました。

●趣味でここまで? 宮沢賢治とも交流

展示を見て驚いたのは、研究分野の広さと関わった人たちの多さです。

鳥羽は、24歳のときに自宅近くにあった貝塚・遺跡の出土品などについて初めて学会に報告。これをきっかけに、専門家による三陸沿岸の貝塚研究が進み、後に縄文時代の人骨の発見につながります。

そして、岩手中をめぐりながら、26歳から昆虫学、29歳から植物学、34歳から地衣類学(菌)と、数年おきに次々に研究分野を広げていきました。

写真提供:松村松年(北海道大学大学文書館)
三好学(恵那市教育委員会)
岩川友太郎(お茶の水女子大学)
平瀬信太郎(西宮市貝類館)
早坂一郎(東北大学理学部)

鳥羽の優れた点は、どの分野においても、第一人者に師事したことです。数多くの標本をつくっては師に送り、助言を受け続けていました。

また、日本人として初めて昆虫学を解説する本を出版したり、“縄文時代には温暖な時期があった”と、いまの学説につながる論文を発表するなど成果を積み上げていきました。36歳から3年間は、台湾総督府の研究員に抜擢。現地で蚕の研究にもあたりました。

交流は、あの宮沢賢治にも広がっていました。

宮沢賢治

宮沢賢治が花巻市で発見したクルミの化石の鑑定を、鳥羽に依頼したことがきっかけでした。
お互いをどのように思っていたのか、記録は見つかっていませんが、賢治の作品『猫の事務所』には、鳥羽をモデルにしたとしか思えない「トバスキー」「ゲンゾスキー」が登場します。

「トバスキー酋長、徳望あり。眼光炯々たるも物を言ふこと少しく遅し、ゲンゾスキー財産家、物を言ふこと少しく遅けれども眼光炯々たり」(『猫の事務所』より)

他にも『ポラーノの広場』では、主人公レオーノ・キューストが「海藻を押葉にしたり、岩石の標本をとったり、古い洞穴や模型的な地形を写真やスケッチにとったり」する場面があったり、毒蛾が発生するくだりがあります。
鳥羽は当時の地元紙に、盛岡で毒蛾が発生したことについて報告していて、賢治が参考にしたのではないかとみられています。

50歳から亡くなる1年前の73歳までは、岩手県師範学校(いまの岩手大学教育学部)で教鞭をとり、多くの教員の育成に関わりました。また岩手県の調査委員として、県内の史跡・名勝・天然記念物の指定にも貢献しました。指定を決める東京からやってきた大学教授に、その知識を総動員して現地を案内。指定に至ったのは、実に40に上ります。これによって地元の高田松原、盛岡市の石割桜、一関市の猊鼻渓などが、県内外に知られるようになったのです。

●朝ドラ主人公も頼りに

鳥羽の師の1人には、「日本植物学の父」と呼ばれる牧野富太郎(1862年~1957年)もいました。
牧野は1500以上の植物に名を与え、独学で植物分類学を修めた人物。4月から放送されるNHK連続テレビ小説「らんまん」は、この牧野がモデルとなっています。

牧野富太郎(写真提供:高知県立牧野植物園)
「らんまん」より
牧野をモデルとした槙野万太郎を演じる神木隆之介さん

実は、この牧野の研究を鳥羽が下支えしていたのです。
博物館には、牧野から鳥羽にあてた手紙22通が残されていて、特別に見せてもらうことに。

「コハマギク等のよい標本を贈ってくれて感謝している」
「サワラの枝を回してくださり、ありがとう」

鳥羽からたびたび標本を送られ、牧野は徐々に信頼を寄せていきました。

牧野は鳥羽よりも10歳年上ですが、宛名を見ると当初の「鳥羽様」から、やがて尊敬を意味する「鳥羽賢台」「鳥羽貴台」に変わっていきます。牧野が逆に鳥羽へ質問することも多くなっていきました。

そして。

(牧野から鳥羽へ 1931年(昭和6年)9月付)
「これまでの功績に対し、何かあなたの名前で命名したいと、かねがね思っておりました」
「二つのササの新種が私の手もとに届いており、それを近日発表したい」

後にこのササは、Sasa tobaeana Makino et Uchida, 1936として新種として発表されました。

私が心を打たれたのは、1933年(昭和8年)の手紙です。
牧野は、あるとき「古書の会」で鳥羽が書いた本(27歳の時に著した『昆虫標本製作法』と思われる)を見つけます。本が非常に貴重だった時代です。借金をしながら苦労をして図鑑・雑誌の編纂や出版を続けた牧野は、思うところがあったのでしょう。「(鳥羽の本は)出版したのがだいぶ古いので、あるいはお手許にないかもしれんと思い」と、わざわざ買って鳥羽に贈っていました。鳥羽への「恩返し」だったかもしれません。

中には、2人の仲の良さをうかがわせる、こんなくだりも見つかりました。

(牧野から鳥羽へ 1927年(昭和2年)11月付)
「急に北海道へ行く用事ができたので、あす出発します」
「帰りに(鳥羽の住む)盛岡で下車したいと思っています」
「急用であり、妻が大学病院へ入院しておりますので、ほとんど無銭旅行です。それゆえ、宿屋へは泊まれないので、もしおかまいなければ、一晩、あなたの家に泊めてくだされますまいか」

※手紙は陸前高田市立博物館の協力のもと現代語訳しています 括弧内は記者が補足しました

●予期せぬ再評価

一連の功績から「岩手博物界の太陽」とまで称された鳥羽源藏。地元でこそ知られた人ですが、長年にわたって研究者の間でも、その名を知る人は少ないのが実情でした。

陸前高田市立博物館 主任学芸員 熊谷賢さん
「本職は教員という『在野の研究者』であったことに加えて、功績があまりに広い分野に及んでいるので、全体像がつかみづらい。つまり、何をやった人なのか、という問いに端的に答えられないんです。私たちも語り切れていないところがあり、もどかしく感じていました」

しかし、鳥羽は、予期せぬ形で再評価されることになります。

12年前の2011年3月11日。
博物館、海と貝のミュージアム、市立図書館など4つの文化施設が津波に飲まれ、学芸員や職員19人が犠牲になりました。そして、56万点もの文化財も水没しました。

被災後の陸前高田市立博物館

被災した文化財は、流失した10万点を除いて、多くの人の手で救出されることになります。

岩手県立博物館の主任専門学芸員、鈴木まほろさんもその1人です。

岩手県立博物館 鈴木まほろさん

震災から1か月後、2週間近くかけて泥だらけになりながら、博物館内に入り込んだがれきを運び出していた時でした。

岩手県立博物館 主任専門学芸員 鈴木まほろさん
「ようやくたどりついた収蔵庫からは、100年前の押し葉標本ばかり出てきました。それも予想を超えた量です。中には、ずっと見たいと思っていた標本もありました。学芸員という職業に就いているからということではなくて『これは本当に救わないといけない』『とても大事なものだ』と心から思いました」

そこにあったのは、主に明治から昭和初期にかけての1万点以上の植物標本。
そうです。博物館には、鳥羽が生涯にわたって自ら作成したり、集めたりした標本が保管されていたのです。

鳥羽が収集した植物標本

修復と保全を進めるため、これらの標本は全国の博物館や研究者のもとに送られることに。
他にはない岩手の高山植物の数々。さらに、新種発見のもとになったり、岩手では消滅した種の標本も含まれていたことが判明し、研究者たちを驚かせました。

岩手県立博物館 主任専門学芸員 鈴木まほろさん
「当時は写真もなければ、記録もほとんどない。そうした中で、源藏さんが残した標本は、岩手や気仙地方の自然・生物相がどういったものだったのか、どんな風景だったのかを知る重要な手がかりであり、唯一の証拠とも言えます。ただ、残念ながら地方の小さな博物館に、都市部の大きな博物館や研究機関の分類学者が行くことはまずなく、知る人ぞ知るものでした。それが被災したことで、専門家の目に触れることになった。専門家たちも手元に来て、初めて本当に価値があることを実感された」

鈴木さんは、鳥羽の果たした役割について、こうも指摘しています。

「明治維新以降、日本の研究者たちは欧米の学問にならって競い合うように次々と新種を発表し、論文を書いていきました。日本で毎月のように、何百という新種が発表されるのは、明治から昭和初期の、この時代に限られています。この時に積み上げられた膨大なデータベースが、いまの研究の土台にもなっています。この“分類学の黄金期”を支えた1人が鳥羽源藏さんだったということなんです。それを地元の人たちが理解し、標本とともに受け継いで守ってきたという歴史も重要な点です」

●分野を超えて 世代を超えて

取材を進めていくと、分野の異なる、現代の研究者も鳥羽に触発されていました。

国立歴史民俗博物館の教授、三上喜孝さんです。

国立歴史民俗博物館 三上喜孝さん

震災当時所属していた山形大学が、水没した資料の保全を引き受けることになり、源蔵を知ることになりました。その生き様に感銘を受け、2013年には源蔵をテーマにした講演会を企画したそうです。

国立歴史民俗博物館教授 三上喜孝さん 
「源藏さんが集めた資料の豊富さに、まず驚きましたね。私たち専門家は、自分の専門領域からなかなか外に出られない。しがらみにとらわれる。それ以外の価値に気づけないところがある。しかし、鳥羽源蔵さんは、その分野の壁を、いとも簡単に、軽々と飛び越えていく」

三上さんの専門は古代史ですが、その後、取り組んだのは、太平洋戦争中に日本人兵士や市民が残した日記の研究です。鳥羽のことを知らなければ、近現代史に手を出すことはなかったといいます。

「自分が面白いと思ったものを、専門というしばりから解放されて、興味のおもむくままに研究していく。それが、かえって研究や学問の裾野を広げることになるのではないか。それが源蔵さんから私が教わったことです」

鳥羽の魅力は、世代も超えています。

浅川崇典さんです。

浅川崇典さん

東京・八王子の出身ですが、生き物好きが高じて、陸前高田の隣にある大船渡市にキャンパスがあった北里大学に進学。その縁で震災翌年の21歳のとき、文化財再生の現場を見ることになりました。

浅川崇典さん 
「地元の人たちが、自分たちも被災して苦しい思いをしているにもかかわらず、ふるさとに誇りを持って、ふるさとの証を残そうとしている姿に非常に感銘を受けました。こんなふうに、ふるさとに誇りを持っている人たちと働きたいと思いました。そこで、みなさんが口をそろえて言うのが『すごい先生がいたんだよ』ということ。原点というか源流にいるのが、鳥羽源藏先生なんだということがわかっていったんです」

その後、浅川さんは2015年に陸前高田市役所に就職。翌年からは希望がかない、学芸員として博物館の再建も担当することになりました。

オープンしたいまは、鳥羽の功績を伝える側に回っています。

源蔵が解明したヒメギフチョウについて語る浅川学芸員

浅川さんは、陸前高田が持つ自然の豊かさも、鳥羽を生み出した背景にあるとして、ともに伝えていきたいと考えています。

陸前高田市立博物館 学芸員 浅川崇典さん 
「陸前高田の自然は、私にとっては天国で、魅力的でしかありません。海、山、川が狭い範囲にあり、多くの遺跡も残っている。海は暖流と寒流が混じり、陸でも北限と南限の動植物がどちらも見られる。東京にいたら図鑑でしか見られないような生物にあふれています。この土地が、源藏先生のアクションにつながったのではないかと思っています」
「もっともっと源藏先生のことを知りたいし、ここで生きることを決めた以上、近づけるものなら近づいていきたい」

●取材後記

鳥羽の授業は、ユーモアにあふれ、日本画や水墨画まで学んでいたことから黒板に書くスケッチも巧み。学生や子どもたちに大好評だったという証言が残されています。

鳥羽のチョウのスケッチ 『昆蟲世界』第11巻第113号より

1996年に発刊された『岩手博物界の太陽 鳥羽源藏先生を偲んで』には、多くの教え子たちが手記を寄せていました。

そこに私が大好きなエピソードがあります。
講義の一環で外に出た折、鳥羽は「この辺の植物を採ってこい。私の知らないものがあれば、それは新種だ」と学生たちを植物採取へ向かわせます。ところが、そう簡単に新種が見つかるはずはありません。数人の学生が、何種類かの茎と葉をうまくつなぎ合わせて、鳥羽に見せたそうです。鳥羽は虫メガネで、じっとそれを見つめて、さて何と言ったと思いますか?

「これはイタズラ科に所属する、俗称ニセモノという新品種だ」

こう言ってニヤっと笑い、その場を去っていったそうです。

他にも、植物の受粉やサケの受精をめぐって、とてもここでは書けないようなわい談も連発し、学生たちを笑いの渦に包んでいたんだとか。

その様子も知りたいと、今回の取材では、存命なら100歳前後となる鳥羽の教え子がいないか探しましたが、残念ながらすでに亡くなられている人が多く、見つけることはできませんでした。

ただ、いずれも80歳を超えた、岩手県内に住む鳥羽の孫である3人にはお会いすることができました。覚えていたことは限られていましたが、鳥羽の貴重な写真を提供していただいたほか、岩手県師範学校の給料をほとんど家にいれず、研究に費やしたというエピソードが聞けました。また、ノートの表紙にさっと鮮やかな鳥の絵を描いてくれたこと、近所の子どもたちと自宅の縁側に腰掛けて民話を聞かせてくれたこと、当時としては珍しいバナナを買ってきてくれたことなど、孫思いの姿も知ることができました。

陸前高田市立博物館の熊谷主任学芸員は、和歌山県出身の南方熊楠の名をあげて「源藏の研究が進めば『西の熊楠 東の源蔵』と言われる時代がやってくる」と期待していました。

知の巨人を知るべく、ぜひみなさんも、再建された博物館に足を運んでみてください。朝ドラ「らんまん」のチェックもお忘れなく。

●放送した動画はこちら

※動画の掲載は放送から約2か月間です

  • 髙橋 広行

    盛岡放送局 記者

    髙橋 広行

    埼玉県川越市出身。2006年入局。広島局、社会部、成田支局を経て、2019年から盛岡局。8歳と5歳の暴れん坊(甘えん坊)将軍の父親。
    さて、源藏(役)は朝ドラに登場するか。乞うご期待。

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