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愛媛と高知を結ぶ予土線 半世紀を超えてつなぐ思い

  • 2024年04月04日

黒煙を吐き、勇ましく走る蒸気機関車が里山を駆け抜けていく。NHKに残された映像にあった、JR予土線の前身、国鉄宇和島線の往年の姿だ。
その予土線はことし、全線開通から50年を迎えたが、利用者の減少に悩まされ路線の維持が課題となっている。それでも地元の高校生は「大切な青春の1ページが詰まっている」と存続への願いを託す。半世紀を超えて人々の思いをつなぐローカル鉄道を取材した。

(NHK松山放送局 宇和島支局 山下文子)

“車窓が一番美しい路線”

JR予土線は、愛媛県宇和島市と高知県四万十町を結ぶ76.3キロのローカル線で、田園風景と四万十川の清流が車窓に広がり、人々の暮らしと自然の両方を味わうことができる。沿線の人口減少に伴い乗車人数は著しく少なくなっているものの、観光路線としても十分魅力的な路線ではないかと、私は乗車するたびにその車窓にときめいている。

車両からの風景は全国に比類なきものとして評価されている。昭和59年に国鉄で初めてとなるトロッコ列車が誕生した。これは北海道で利用していた貨車を改造したもので、当時「清流しまんと号」と名付けられたように、左右にカーブを描いて流れる四万十川を貫くように敷かれた線路の上をびゅんびゅんと風を切って走る。地元の人たちは「日本で車窓が一番美しい路線だ」と胸を張るが、なるほど右に左に広がる絶景の中、窓ガラスのない車両に乗り込むと乗客は全身で風を受けて大自然と一体になれるアトラクションのような感覚で楽しめるのだ。この列車は今も塗装を変え、「しまんトロッコ」として現役である。

全線開通直後から危機も

今から110年前の大正3年、私鉄の「宇和島鉄道」によって宇和島―近永間で開業した。その後、国有化され「宇和島線」となり、高知県側では窪川駅や江川崎駅が順次開業していった。そして路線の開業から60年後の時を経て昭和49年3月1日、ついに江川崎駅と若井駅がつながり、四国を循環できる鉄道網が完成。北宇和島駅から若井駅までを「予土線」と改称したのである。四国の山間地域の活性化につながることへの期待が寄せられていた。

全線開通時(昭和49年)の予土線

しかし、当時から沿線地域は都市部と比べて人は少なく赤字が続いていた。全線開通からわずか6年後の昭和55年には早くも危機がやってくる。国鉄の経営再建促進という名目のもとに、せっかく結ばれた路線が廃止対象となったのだ。沿線自治体は必死に存続への運動を繰り広げた。そうした努力の結果もあって存続し現在に至るのだ。

路線の歴史を知る人は

予土線を身近な存在として人生を歩んできたという人に会いに、沿線の近永駅を訪ねた。近永駅は、無人化する予土線の駅の中でも「きっぷうりば」に人がいる貴重な駅である。ここでは、全国でも珍しい昔ながらの手書きのきっぷが販売されている。窓口をのぞくと「きっぷですか?」と優しく声をかけてくれた。横畠利一さん(73歳)だ。

(横畠さん)
「父が国鉄の職員でしたので、その背中を追うように私も国鉄へ入りました。当時は蒸気機関車で、蒸気機関車を動かすのは機関士さんだったんですが、これが花形でね、かっこよかった。憧れの存在でした。予土線で走っていた機関車は宇和島の車両基地に帰っていくのですが、そこに大きな風呂場があったんですね。夕方、父とそこへ行くと煙まみれの機関士さんも汗を流していて、ああ、明日もまたここから機関車が出て行くのかと思ったものです」

NHKに残された当時の映像からは、その様子をうかがうことができる。

NHKに残る蒸気機関車だったころの予土線

横畠さんは、40年以上にわたって国鉄やJRで、車両の整備や事務職、駅長も務めた。自宅が沿線の伊予宮野下駅に近いことから、小学生の頃は駅のホームで蒸気機関車をモデルに写生をした記憶があるという。退職後も、こうしてJRから委託を受けた町に雇われる形で、きっぷの販売をしながら予土線のそばで暮らしている。

(横畠さん)
「感謝の気持ちも込めながらここでお客さんと接しながら仕事をさせてもらっています。時代の流れといいますか、私が若い頃はぎゅうぎゅうで人が乗っていましたけど、今は人が少なくなってさみしい感じもします」

鉄道ホビートレインも誕生

ただ、沿線の人口減少はさらに進み、路線を取り巻く環境は厳しさを増している。100円の収入を得るためにおよそ1700円がかかりJR四国の中では最も採算が悪い路線とされている。

沿線のにぎわいづくりにさまざまな取り組みも続けられている。2014年に全線開業40周年を記念して誕生したのは、初代新幹線0系を模した「鉄道ホビートレイン」だ。キハ32という車両を改造して作られた団子鼻が特徴の車両は、たちまち話題となり、全国から鉄道ファンや家族連れが訪れ、乗車率が120パーセントを超える日が続いたこともある。

車内には、本物の0系車両で使われた座席が配置されていたり、東海道新幹線の駅名を書いた料金表や0系と同じ警笛も使用している。未だにかわいらしいそのデザインに会いにくる観光客は少なくない。

“どの鉄道にも負けない”

また、愛媛県と高知県や沿線の自治体は「予土線利用促進対策協議会」を設立し、企画列車やイベントを打ち出している。
その魅力を発信しようと製作したものの一つが「よどせんとりてつマップ」。予土線の撮影スポットを地図にまとめ全国の「撮り鉄」たちを呼び込むのが狙いだ。

監修したのは、鉄道カメラマンの坪内政美さん(48歳)。

(坪内さん)
「高校生のときから通い続けて撮影していますから、かれこれ30年以上になりますね。予土線は、日本の鉄道の原風景を今も残しています。あの頃に初めて見た景色と変わらない鉄道風景がここにはあります」

全国各地の鉄道を写真に収めてきた坪内さんは、予土線にはどの鉄道にも負けない車窓があると断言する。

(坪内さん)
「雄大な四万十川があって、四季折々の里山の風景があって、桜や新緑、雪景色も日本のどこの路線にも負けない魅力があります。ぜひここまで来てその風景を見て、空気感を感じてほしいとその気持ちでマップを作りました」

予土線は“幸せ時間”

利用する若い世代も愛があふれている。

松丸駅から宇和島駅まで毎日通学している井上弘一朗さん(17歳)は、「宿題をしたり、友達と過ごしたり、通学がめちゃ楽しいです。こうやって対面で話すのもバスじゃできないし、ちょっとだけ幸せ時間というか」と話す。

井上さんは、友人たちとプロジェクトを立ち上げて音楽祭を企画したり予土線をテーマにした動画を制作したりと沿線地域を盛り上げようと精力的に活動している。

予土線が全線開通50周年を迎えたことし3月1日。松丸駅前で行われた記念式典で高校生代表としてマイクを握った。

(井上さん)
「1日2時間も予土線に乗るので、大切な青春の1ページが予土線の2時間の中に詰まっている。私たちの後輩にもそんなふうに予土線の中でしか味わえない青春を楽しんでほしい」

乗客が減り、路線の維持が課題となる中、50周年を祝うイベントでは大勢の人が訪れ、駅前はにぎわっていた。

その光景を目にした井上さんは、自分たちにももっとできることがあるんじゃないか、将来帰ってきたときに予土線に乗って思い出にひたれるようにしたいと強く願ったという。

鉄路に思いをはせて

鬼北町に実家のある私(記者)も高校時代の3年間を予土線で通学した。当時は、朝7時台と夜7時台は通学する私たちの人数に合わせて、その時間帯だけは3両編成となっていて、ロングシートだけでなくボックスシートがあり、毎日わいわいと同級生らとごちゃ混ぜになり、それはそれはにぎやかな時間であった。

ちょっと気になる先輩を見かけてときめいたり、部活疲れでできなかった宿題を慌ててやったり、時には居眠りをして知らない駅までたどり着いたり、いわゆる青春そのものであったことは間違いない。

ふだんは車を運転する今でも、ときどき家族と一緒に小さな旅気分で予土線に乗って出かけることがある。トロッコ列車も、『予土線の新幹線』こと鉄道ホビートレインも、乗ってみればちょっとだけ日常から離れた特別な時間だ。
かつての乗客人数に戻ることはないかもしれないけれど、半世紀余りつないできた鉄路に思いをはせながら、列車に揺られるのもいいではないか。

  • 山下文子

    山下文子

    2012年から宇和島支局を拠点として地域取材に奔走する日々。 鉄道のみならず、車やバイク、昭和生まれの乗り物に夢中。 実は覆面レスラーをこよなく愛す。

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