能登半島地震 高知のアナウンサーとカメラマンが見た被災地
- 2024年01月17日
元日の夕方に発生した能登半島地震。高知局からも被災地に取材応援で向かいました。カメラマンとアナウンサー、それぞれが見た発災直後の被災地を報告します。
(NHK高知放送局 カメラマン 大和田純平 アナウンサー 千野秀和)
手探りで取材現場へ
カメラマンの大和田です。1月4日、私は石川県輪島市の被災現場に向かいました。被災地では多くの家屋が倒壊し、深刻な被害が出ていることがすでに報じられていました。
地震の発災直後の現場に入るのは、私がカメラマンになってから初めての経験です。その全容が十分に分かっていないこと、また悲惨な現場に遭遇したとき、自分はしっかり取材できるのだろうか、取材して良いのだろうかという不安とともに現場に向かいました。
目的地は輪島市の門前町。輪島市や珠洲市に向かう車の渋滞に巻き込まれないよう、午前4時に出発しました。
まだ暗い中を進んでいると、地面のアスファルトに亀裂やひび割れが現れ始めます。
数センチの段差でも車のタイヤがパンクする可能性があり、目をこらして道路の亀裂を探しながら、見つけるたびにスピードを落として慎重に進みました。
志賀町に到達するころにはスマホの電波も悪くなり、共有され始めた道路状況を調べることもできなくなりました。一本道を進んでいると、崩落現場に突然遭遇することもありました。
そのような場所に出くわすたびに、来た道を戻って通行できる別の道を探しました。
内陸の道の多くは、道路の亀裂、崩落、土砂崩れなどで通行することができませんでした。そもそも情報が集まっておらず、さらに電波が通じない中で目的地に向かって進むのは、まるで暗闇の中を手探りで進むようでした。
家族団らんを襲った地震
午前7時半ごろ、目的地の輪島市門前町に到着しました。屋根の瓦が地面に散乱し、多くの家は傾いたり倒壊していました。
現場ではすでに消防隊員などが活動していました。倒壊し潰れた1階部分に取り残された女性の救助活動です。
そのそばで見守っている人がいました。
その家に住んでいた夫婦の神崎智子さんと浩二さんです。救助されているのは、智子さんの母親の美智子さんでした。
神崎さんは帰省していた2人の娘も合わせて、家族5人が倒壊した家屋の下敷きとなりました。
智子さんと浩二さんは近所の人の助けもあって下敷きとなった家屋から逃げ出すことができましたが、2人の娘は亡くなりました。
そして救助が始まっておよそ3時間半後、美智子さんは意識がない状態で救助されました。
年末年始に数十年ぶりに家族がそろい水入らずの時間を過ごしていたところを地震が襲ったのです。
(詳しくはこちらから読むことができます)
被災地の映像が伝えること
私が現場を見て思ったのは「こんな悲惨な現場があっていいのか」ということです。
智子さんと浩二さんはとても大変な状況にもかかわらず、その場で取材やインタビューに応じてくれました。この災害で何十人、何百人が亡くなっています。それぞれに温かな日常があったのだと思います。
「○人が亡くなった」という数字の字面だけの情報だけでなく、映像とともに伝えることで被災地の現状が人の“心”に伝わるものだと思います。
今も見るのがつらい現場が多くあります。しかし今だからこそ記録しなければなりません。取材に協力してくださった人たちへの感謝を忘れず、記録し続けることが報道カメラマンとしての役割であり使命だと思います。
今回取材した現場の映像が10年、20年と残り、震災を経験していない世代にも伝わっていくことで未来の命を守ることにつながってほしいと強く願っています。
未来の高知の姿
被災地の現状を見て、高知県が南海トラフ巨大地震で被災したときも同じような状況になるのではないかと思わされました。
南海トラフ巨大地震ではさらに大きな津波が起きると予測されています。山あいの道路は土砂崩れなどで分断され、海側の道路も津波の影響で通行が難しくなります。今回の地震のように孤立する地域が多発し、救助が遅れる可能性があります。そのような場合も想定して各地域の備蓄の内容や量を今一度確認すべきだと思いました。
また私たちNHKも、そのような状況の中でどのように情報収集をし、それを発信し続けるのか。今回の災害から学び、対策を考える必要があります。
現場で見た暮らしへの影響
アナウンサーの千野です。NHKに入局して最初に勤務したのが金沢放送局だったこともあり、1月3日から8日にかけて被災地の取材応援で石川県に入りました。
4日に断水や停電で生活困難となった七尾市、5日に建物の倒壊や大火災があった輪島市、6日は渋滞が続く穴水町からその状況を生中継で伝えました。
直接被災地を見て改めて気づかされた、大地震がもたらす暮らしやモノへの影響についてお伝えします。
断水 停電 建物倒壊 被災地の実態と教訓
4日、断水と停電に見舞われた七尾市へ。普段1時間ほどで着くところ、高速道路や国道の路面が崩落するなどしていたため3時間近くかけて町の中心部に到着。「市内の鮮魚店で井戸水を解放しているらしい」という情報を頼りに、その店舗へ。
実際、店主の善意で井戸水が開放されていて「ご自由にどうぞ」という張り紙が。朝7時、まだ暗い中でもペットボトルなどを抱えた人が絶えず訪れました。近所の女性は「トイレ1回流すだけで、12リットルも使うの。本当に大変」と話し、2リットルのペットボトルを1つずつ満たし、重たそうに運んでいました。
七尾市役所によると、井戸水(地下水)は手洗いや食器、衣服の洗浄など生活用水としてぜひ活用して欲しいが、煮沸しても飲み水として利用可能かはわからないので、決して口にしないこと、とのことでした。
井戸水で災害時に多くの人が衛生状態を保つことができる。一つの教訓でした。
※新たに井戸を設置する際は、自治体に問い合わせの上、その指示に従ってください
もう一つ、七尾市では気になる話を聞きました。
1日の地震以降繰り返す余震で、建物の倒壊がさらに進みました。ちょうど中継を出していた目の前の建物(上の画像)について近所の方に聞いたところ、壁が崩れると同時にぼやが発生したそうです。建物自体が倒壊する危険と合わせて、地震発生後に中に入ったり近づいたりすることは避けるべきだと感じました。
5日。かつて中継や取材で足しげく通った輪島市へ。私が知る景色は、焼けただれ、崩れ落ちた屋根や看板の下に、わずかにのぞいていました。
ここでは、倒壊した家屋から住民を救助する消防や警察、自衛隊による活動の様子を伝えました。無事だった近隣の友人が見守る中、住民が発見、救出されるとほっとした空気が流れます。しかしその後、警察により死亡が確認され、次の中継で伝えることになりました。人の命がすぐそばで失われる現場であることを突きつけられます。
こんな厳しい中でも、教訓があります。近所の人たちの協力で、助かる命があるかもしれないということ。
救出活動中の消防隊が、見守る友人に
「お宅に上がられたことがあったら、見取り図を作りたいので間取りを教えて」、「ふだんよく過ごしている場所はわかりますか」と、少しでも早く居場所を特定しようと協力をお願いしました。
友人たちは「よくここでみんなでおしゃべりしていたの」、「きのう飼っていた犬がこのあたりに立ってほえていた」など知るかぎりの情報を伝え、隊員が手描きの見取り図を作っていました。さらに、「新しい毛布があれば貸してください」という消防隊の要請を受け、友人たちが自宅からきれいな毛布を数枚運んできました。日頃の近所づきあいが、いざという時の救助活動の支えにもなると感じました。
6日、穴水町では、ガソリンスタンドの状況、町内で進む電気の復旧について取材しました。
道路の崩落で激しい渋滞が起きたものの、金沢市に石油の備蓄拠点があり、石川県内ではガソリンや灯油の供給は6日時点で意外と順調でした。発災当初こそ全面的にガソリン不足となり、孤立集落などでは今も十分な燃料がない状態は続いていますが、能登半島の主要な場所には燃料自体届いていたのです。
しかし、被災者がそれを十分活用できたわけではありません。停電が影響しました。ガソリンスタンドで給油するには、機械を使ってスタンドのタンクからガソリンなどをくみ上げる必要があります。その機械が停電で動かなかったり、スタンドを照らす明かりもつかず、営業ができなかったのです。
町のスタンドで聞くと「何時から何時まで営業している、と発信すると、急な停電で営業が止まるため混乱しかねない」とのことでした。ほかのスタンドにも聞くと
「地域のほとんどの人が家を出て避難所に。昼は避難所、夜は車中泊と言う人が多いので、1台につき10リットル給油して、一晩しのげるようにしています」
「当初は緊急車両を優先的に給油していたが、(地震発生から5日後)今は一般車にも十分燃料を提供できる。家財道具を積み込んで何十キロも走ってきた方もいるので、1台でも多くの車に給油してあげたい」
と、厳しい寒さの中で車中泊を強いられるみなさんのため、少しでも燃料を提供したいと心を配っていました。
身の回りを点検 次に生かして
能登半島地震では、石川県だけで200人を超える方が亡くなり、多くの人が避難生活を余儀なくされています。高知に暮らす私たちができるのは、そうしたみなさんから学び、少しでも次の災害への備えにつなげることだと思います。「備える」だけでなく、いざその時自分がどんな状況に置かれるのか、想像を巡らせ、危険をもたらしかねない要因を見つけてみてください。
何気ない井戸水、一枚の毛布、限られた資源を分け合ったり互いの日常を語り合ったりできるご近所づきあい・・・。小さなことが一つでも多くの命を救うと、改めて感じました。