広島 在外被爆者支えて半世紀 いま子どもたちに渡すバトン
- 2023年02月06日
9歳のときに被爆し、海外に住む被爆者の支援に取り組んできた豊永恵三郎さんです。がんを患いながらも、「みなさんに平和のバトンを渡したい」と、全国の子どもたちに向けた証言活動を続けています。
きのこ雲を見上げ、自宅へ引き返そうとするも…
豊永恵三郎さん、86歳です(取材当時)。1945年8月、9歳だった豊永さんは、母親と弟の3人で今の広島市東区で暮らしていました。原爆が投下されたのは、自宅から離れた病院に一人で向かっている途中でのことでした。
豊永恵三郎さん
爆風がワッときて、目の前の砂とかほこりがワーッと。きのこ雲がものすごい勢いで上がるのを私は見ていました。
豊永さんは急いで帰ろうと、数時間後に動きだした列車に乗り込みましたが、混乱した状況のなか、その日のうちにたどり着くことが出来ず、祖父母の家に避難しました。翌日、祖父とともに家族をさがしに出かけますが、自宅近くの二葉山で避難していた母と弟をようやく見つけることができたのは原爆投下から2日後のことでした。
変わり果てた母の姿
この時の豊永さんの体験をもとに、母親との再会の場面を描いた絵があります。
豊永恵三郎さん
弟が「(母は)これだ」というので私ものぞき込んでみたら、母の顔はやけどで真っ黒け。倍ぐらいに腫れ上がっていて、着ているものは上も下も焼けてボロボロだったから、もしも弟がそばにいなかったらそれが母親であることがわからなかったかもしれない。
大やけどを負った母だけでなく、けがのなかった弟も被爆の影響でみるみる衰弱していきましたが、幸い、親族の懸命な介抱により、二人とも一命を取りとめました。
海外に住む被爆者を支援
豊永さんは大学を卒業後、高校の国語の教員になりました。そして終戦から27年がたった1972年、海外にいる在外被爆者の援護を求める活動を始めました。
原爆が投下されたとき、広島には朝鮮半島から渡ってきた人や留学生などがいました。「在外被爆者」とは、そうした人の中で戦後それぞれの国に帰国した人たちや、日本人も含め海外の国々に移り住んだ被爆者のことです。
豊永さんがこの活動を始めるきっかけとなったのは、教員研修で訪れた韓国で、現地に住む被爆者と直接会って話をしたことでした。「同じように被爆したにもかかわらず、戦後海外に住んでいることで何の援護も受けられない」という訴えを聞いて、怒りを覚えたといいます。
豊永恵三郎さん
外国人も植民地政策の中でしかたなしに日本に来たり、強制連行されたりして広島や長崎で被爆したわけでしょう。その人たちが戦後、祖国に帰るのは当たり前じゃないですか。なぜ外国にいるということだけで援護措置がないのか。これは誰が考えてもおかしいと思うんじゃないか、と私は感じました。
1974年、国は「海外に住む被爆者には被爆者援護の法律は適用されない」という通達を出しました。豊永さんは、海外在住であっても被爆者として正当な援護を受けられるよう、支援団体を創設します。そして韓国だけでなく、ブラジルやアメリカで暮らす被爆者に対しても支援を広げていきました。豊永さんたちの活動のかいもあって、在外被爆者の援護は少しずつ少しずつ認められていきました。
被爆体験 伝え続けた40年
原爆が奪った被爆者の人生に、長年向き合い続けてきた豊永さん。今度は未来の平和のため、子どもたちにみずからの被爆体験を伝え始めます。はじめて証言したのは1983年。依頼を受けて、県外から訪れた修学旅行生に向けて話をしました。
豊永恵三郎さん
生徒たちは足を投げ出したり、寝てたりしていて「これは話を聞いてくれるんかな」と、非常に不安だった。でも話し始めてしばらくしたらね、「私の話を聞いているんだな」ということはわかったんですよ。「話さなくちゃいけない」、そういう気持ちになりました。
以来40年間、修学旅行生に向けて被爆体験を話してきました。
未来につなぐ、平和のバトン
豊永さんは86歳になったいまも、がんを患いながら、主に小学生に向けた証言活動を続けています。この日も大阪から訪れた生徒たちに被爆体験を話していました。
証言の最後に、豊永さんが必ず子どもたちに贈るメッセージがあります。
豊永恵三郎さん
平和というのは黙っていたら来ない。みんなで力あわせて作っていくのが平和だと私は思う。でも私たちはいつまでも生きていないよね。誰が日本の平和を守りつくっていくのか。私たちに代わってみなさんでしょう?平和のバトンをみなさんに一本ずつ渡したいと思います。ぜひ、このバトンを受け取ってください。
生徒たちは、真剣なまなざしで豊永さんの言葉を聞いていました。
証言を聞いた生徒たち
「“平和のバトンつないでいって”と言ってたけど、これからそういう行動ができるように戦争の事とかを考えて行動したい」
「広島の原爆の中で生きてきた人も年でおらんくなってしまうから、自分たちが伝えないといけないと思った」
78年前の悲惨な出来事が、二度と繰り返されないよう、豊永さんはこれからも未来を作っていく子どもたちに自身の体験を伝え続けたいといいます。
豊永恵三郎さん
私たちがどういう体験をしてきたかということをまず子どもたちに伝えたい。そして、「これからはあなたたちが平和の担い手になるんだよ」と。日本の平和はどうすれば作っていくことができるのか、核兵器はどうすればなくなるのか。いろんなことを自分で考えて自分なりの行動を続けて欲しい。それを一生続けてもらえたらと思う。