被爆者の高齢化が進み、記憶の継承がますます大きな課題となるなか、「被爆者たちの声」と題して、被爆者のインタビューをお伝えします。
三次市に住む半田孝江さん(97)は、19歳の時、看護師として働いていた広島第二陸軍病院本院で被爆しました。爆心地から約1キロ。生死の境をさまよう大けがを負い、被爆の影響への不安を抱えてきた半田さんにいま思うことを聞きました。
高知市の植野克彦さんは、みずからも大やけどを負い、父、姉、兄を亡くしました。ロシアによるウクライナへの軍事侵攻からまもなく1年となるなか、伝えたい思いを聞きました。
高等女学校の生徒だった15歳の時に被爆した切明千枝子さんは、次々と亡くなった下級生たちを思いながら悲惨な体験を語り継ぐ活動を続けています。
7歳の時に入市被爆した友近純子さん。目に見えない放射線の影響で、大切な人を相次いで亡くしました。次の世代に伝えたいこととは。
長年、海外に住む在外被爆者の支援に取り組むとともに、全国から広島を訪れる修学旅行生に自身の被爆体験を語り続けてきました。
5歳の時に被爆した星野哲司さん。被爆したことを積極的に語らなかった時期もありましたが、82歳になった今も、被爆の記憶を伝えようと精力的に活動を続けています。
鳥取県原爆被害者の会の会長を務める梶川道子さん(93)。90歳を過ぎて、これまで公にしてこなかった入市被爆の体験を語り始めました。
核兵器のない世界に向けて精力的に活動する佐久間邦彦さん。本格的に活動を始めたのはいまから15年ほど前。そこに至るまでにはう余曲折がありました。
爆心地から1.2キロの場所で被爆した尾崎稔さん。90歳になった今も、原爆で失った家族、仲間、ふるさとの絵を描き、原爆資料館に寄贈し続けています。
20年近く国内外に平和を訴え続けている箕牧智之さん。被爆77年となることし、改めて核兵器廃絶に向けた決意を聞きました。
近藤康子さん(80)。以前は被爆体験を心の隅にしまい、思い出すことを避けていたといいます。いまは、残された自分の役割を果たしたいと積極的に語っています。
岡田恵美子さん(享年84)。国内外で被爆体験を証言し、核兵器の廃絶を訴え続けてきました。2021年4月に亡くなる直前まで平和を実現するための活動をしていた岡田さんが残したメッセージに迫ります。
加藤文子さん(91)。高齢となり、証言活動を行うことがだんだん難しくなってきました。いま、あることをきっかけに残された力を振り絞り、再び活動を始めようとしています。
井東茂夫さん(90)の2つ年上の姉・ユキさんは、原爆によって命を奪われました。当時17歳。爆心地から2キロあまりの自宅にいたとき爆風で鏡が割れ、その破片が胸に刺さりました。そのとき、ユキさんが抱いていた赤い布を大切に守ってきた井東さん。遺品となった赤い布が、未来を奪われたユキさんの無念さを訴えています。
増野幸子さん(90)は、原爆が投下された時、15歳。広島電鉄の運転士として働いていました。ある被爆者の孫の女性が、増野さんの体験をもとに電子漫画を描き、インターネット上で無料で公開されています。増野さんに、いま伝えたいことを聞きました。
仙台市に住む木村さん(83)。 原爆の熱線を浴び苦しんで亡くなった祖父の絵を広島市の高校生に描いてもらうことにしました。 若い世代と一緒になって被爆の記憶を伝えようとしています。
藤岡辰彦さん(87)。爆心地からおよそ80キロ離れた庄原市でも学校が臨時の病院になり大勢の被爆者が運ばれてきました。決して忘れられないという当時の光景や若い世代に伝えたいことについて聞きました。
岡純児さん(74)は原爆が投下された時、母親のお腹の中で被爆した「胎内被爆者」です。 「最も若い被爆者」と言われる胎内被爆者の中には体の不調を訴える人も少なくありません。 入退院を繰り返す岡さんにこれまでの苦悩と発効が迫る核兵器禁止条約への期待について聞きました。
広島大学名誉教授の北川建次さん(85)。 まちづくりの研究者として、戦後、広島の復興に携わってきました。 大学を退職したあとは、自らの被爆体験を語ってきましたが、高齢のため、その活動をやめる決断をしました。 その胸のうちに迫りました。
3歳で被爆した松本滋恵さん(78)。 定年後、大学で原爆文学を学び自らの被爆の記憶を多くの被爆者の体験と結びつけ語り継ぐ活動をしています。
広島で被爆し、その後ブラジルに移住した森田隆さん(96)。 長年、海外の被爆者への支援を訴えてきました。 核兵器禁止条約の発効が迫る中、伝えたいことを聞きました。
広島で被爆し、その後松山市で菓子メーカーをおこした亀井好一さん(83)。 若くして亡くなった兄の無念を語り継いでいます。
三原市の被爆者団体の会長を務め、海外でも証言を行ってきた中村澄子さん(86)。 核兵器禁止条約発効への道筋が見える中、伝えたいことを聞きました。
解散した被爆者団体の会員だった伏原美子さん(91)。 心のよりどころを失い活動が難しくなる中、伝えたいことを聞きました。
犠牲になった若者たちの姿を絵に描き伝えてきた河野キヨ美さん(89)。 被爆当時の自分と同じ年代の若者に伝えたいことを聞きました。
岡山県笠岡市の土屋圭示さん(92)。 目の当たりにした“惨状”を絵に残し証言を続けてきました。 次の世代に伝えたいことを聞きました。
原爆ドームのすぐ隣に住んでいた田邊雅章さん(82)。 被爆前後の爆心地を知る被爆者として、伝えたいことを聞きました。
山口県周南市の折出眞喜男さん(88)。 原爆が投下される様子を目撃しました。 いまも鮮明に記憶するその一部始終と未来へのメッセージを聞きました。
被爆建物の保存など、平和運動に最前線で携わり続けています。
被爆直後に鳥取に移り住んだ浦田昌則さん(88)。
偏見や差別、そして孤独に苦しんできました。
いま、若い世代に自らの経験を語り継いでいます。
長年、被爆体験を伝える活動を続け、来年に延期された東京オリンピックの聖火ランナーに選ばれている梶矢さん。いま伝えたいことを聞きました。
お好み焼きのソースを生産しているメーカーの会長で、食の面から広島の復興を支えてきた佐々木さん。いま伝えたいメッセージを聞きました。
被爆者で元廿日市市長の山下さん。被爆経験を持つ数少ない市長として国内外で原爆の惨状を語り、核兵器廃絶と平和の実現を訴えてきました。その山下さんに、いま伝えたいことを聞きました。
原爆で家族6人を亡くし孤児となり、自身も被爆した川本さん。出会う人に折り鶴を手渡しながら、被爆後の広島で孤児たちがどう生きてきたのかを証言し続けてきました。その思いを聞きました。
在日韓国人2世の李鐘根さん。80歳を超えてから語り始めた被爆体験、そして核兵器廃絶への思いを聞きました。
原爆で両親を亡くし、国内外を飛び回り、その壮絶な被爆体験の証言を続けてた笠岡さん。被爆75年の節目に何を伝えようとしているか、被爆後の半生とともに尋ねました。
爆心地からおよそ780メートルの至近距離で被爆した兒玉さん。長年、原爆の放射線による後遺症と戦いながら証言活動を続けてきた覚悟に迫ります。
長年、核兵器廃絶運動の先頭に立ってきた坪井さん。75年の節目をどう迎えようとしているか聞きました。