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ヤングケアラー これまでの報道に寄せられたご意見(3)

  • 2022年7月4日

「長女を家政婦・母親代わりは間違っている」

神奈川県 50代 女性 (2022年2月27日)わたしもヤングケアラーでした。同じようにヤングケアラーだった人の話を聞くと、本当につらかったと思うし。

(家族の介護のために犠牲にしたこと、人生への影響は)
子ども時代と10代の全てを奪われてしまった気がします。大人になったらいくらでも好きなことができるから、今は家事をしろ、というのが父や親戚の常とう句でした。弟たちは家事を一切手伝わず、父も家にほとんど帰ってこず(ほかの女性と暮らしていたため)、家族を信頼できなくなったし、人を信頼できなくなりました。

私はヤングケアラーだったことで、人への信頼感を持てなくなり、特に家族や親族とは会うのも思い出すのも嫌になりました。私を家事の犠牲にすることでさまざまな責任から逃れようとした家族のことは今でも敵だと思っています。家族は敵、親しい人間こそ気をつけなければという感覚は、自分の基本的な価値観になってしまいました。40年前は母親に何かあったら長女が家事をするのが当たり前とされていました。私は自分の経験から、長女を家政婦・母親代わりにするのは間違っていると思います。母親がいない家庭の家事をすべて長女が担っている設定は、アニメやドラマ、漫画でよくありますが、これを当たり前だと思う人が、不幸な子どもを再生産していくんだな、と思って胸が苦しくなります。両親のどちらかが闘病・あるいは亡くなってしまうことは決して珍しいことはありません。そういう時、家族の誰もができることで協力しなければならないことを伝えていってほしいと思い、意見を書かせていただきました。

「ヤングケアラーという名称なくなってほしい」

神奈川県 30代 女性 (2022年1月25日)私も幼い頃から精神疾患の親のケアをしていました。「ヤングケアラー」というある種職業名のような名前がついて、その子どもが「自分のアイデンティティー=ヤングケアラー」、「自分は親のケアをすることが使命だ」と思ってしまうことに懸念があります。子ども時代に親や周囲に甘えられないことは人格形成に影響が出ると思います。支援制度が進み、子どもがケアしなくてよくなり、子どものメンタルケアを早めにやってほしいです。アダルトチルドレンではダメでしょうか?ヤングケアラーという名称自体が無くなってほしいです。

「医療者側も連携していけたら」

群馬県 30代 女性 (2022年1月24日)私は病気を持つ親や祖父母が通院する病院の看護師です。病院では治療中の親や祖父母が看護の対象ですが、家族状況を把握すると、お子さんや孫がヤングケアラーになるのではないかと心配なケースがあります。しかし、あくまで病院では患者本人が看護の対象のため、家族問題に関わってよいのかと悩みます。ヤングケアラーの可能性を察知しながらも、専門部署につなげることが難しいと感じています。ヤングケアラーに関わる学校教員だけでなく、介護・看護を必要とする親に関わる医療者側もこのような問題に対して連携していけたらいいと思いました。病院の医療者として、どのようにつなげていくのがよいのか知りたいと思いました。

「人生を前向きに歩み始めている人もいると伝えたい」

神奈川県 20代 女性 (2022年1月24日)私が中学3年生、14歳のときに母がくも膜下出血で倒れ、そこから母は寝たきりの生活となりました。母は声かけに対し反応はしますが、会話することは一切できず、時折表情に変化があるのみです。学校帰りに毎日毎日病院へ行き、休みの日も病院へ行き、高校受験を控えながらも第一に考えていたのは母と家族のこれからでした。高校に進学し、15歳からは在宅介護を始めました。食事はできず中心静脈栄養、排泄はぼうこう留置カテーテル管理・おむつ交換、寝返りもできないため介助し、1日2回は全介助で車椅子に乗せていました。熱や血圧、呼吸状態なども1日数回測定し、状態が安定しない際には付ききりで介護を行いました。夜間も急変しないか気が気ではなく、介護生活に慣れてからも不安な夜を何度も何度も過ごしてきました。私以外に1歳年下の弟が1人、父親、母方の祖父母との介護生活を行っており、日中はなんとか学校に通うことができましたが、家に帰れば介護が待っており、自由はありません。その生活は私が26歳になるまで12年間続け、母が亡くなったことで終了しました。

(家族の介護のために犠牲にしたこと、人生への影響は)
私にとっては人生の中での大事な高校進学・大学進学に1番影響がありました。現在は看護師の資格を取得し従事していますが、別に志していた夢は高校進学の段階から諦めていました。金銭的にも余裕はなく、自身の夢を打ち明けることは、自己中心的な考えだと非難されると思い、できませんでした。全ての物事において優先順位は母が1番であり、自分が犠牲になることは当然だと言い聞かせてきたことで、自己肯定感も自己愛も持てなくなっていました。弟は元々母親っ子であり、その母親が寝たきりとなり心のうちは一切話さず殻に閉じこもった状態となりました。その後学業はおろそかとなり進学は困難となったことで、高校卒業と同時に働くこととなりました。私からは弟もまた、抱いていた夢や希望は失われてしまったのだと感じました。私が21歳のときに弟は家出をし、そのまま母が亡くなるまで一度も帰ってくることはありませんでした。もっと早く助けてあげられたら、弟の人生を変えてあげられたかもしれないと私は悔いています。父親は介護とともに私と弟がまだ学生であったため、働き詰めでうつとなり、仕事に行けなくなる期間は何度もありました。家族全員が自分を犠牲にし続けた結果、心身共に疲弊し、深い心の傷を抱えたまま今も生きています。

学校の先生や地域の方々は「大丈夫?」と心配をしてくれはしましたが、具体的な手助けは一切なく、私たち家族にとって何の救いにもなりませんでした。市役所に在宅介護に必要な様々な手続きへ行っても、難しい内容をかみ砕いて説明してくださる方はほとんどおらず、相手にされない状況に泣いて帰ってきたこともあります。何より、たくさんの同級生が夢を叶えるために進学をしたり、家族・友人と楽しい思い出を作る中、自分は自分のために使える時間はなく、希望を抱くことすら許されないような環境にいることが苦しくて悲しくて仕方がなかったです。母とともに自分も死のうという考えも何度も頭によぎりましたが、目の前にいる寝たきりになっても頑張って生き続けてくれている母を見るとそんなことはできず、そんな考えをもった自分自身を責めては泣くことしかできませんでした。最近はヤングケアラーという言葉が広まり、自治体や支援団体等も発足されているようですが、実際ヤングケアラーとして日々苦しい環境で生きる子どもたちの心の傷は深く、本当の意味でその子どもたちを救うのはとても難しいことだと思います。自分の人生なのに常に優先順位の1番は自分ではない他の家族であり、犠牲になることが当たり前で生きていることは、その子の心も人格も全てを狂わせることになります。ただ同情することは何の救いにもなりません。教育機関でのヤングケアラーへのサポートシステムを確立することや、一部ではなく日本全国全ての自治体が支援制度を確立し、1人でも多くの子どもたちが生きる希望・夢を持てるようにしてほしいです。私は大きな役には立てませんが、看護師として在宅で介護を担う方々への支援を行い、自身の経験を活かしていきたいと思います。今絶望の最中いる子へは、ヤングケアラーを終え、新たな人生を前向きに歩み始めている人もいると伝えたいです。

「私たち家族は頑張りすぎたと後悔」

山形県 50代 女性 (2022年1月24日)私は50代の会社員です。私の娘たちは長年ヤングケアラーとして、我が家の介護に携わっています。私の娘が2歳と7か月のときに、しゅうとめがくも膜下出血により要介護3となりました。主介護者は私でしたが、介護と育児の両立は本当に大変で、介護を優先することが多かった。寂しい思いをさせたと思います。しゅうとの介護も始まり、介護負担が大きくなると娘たちの助けがなければ生活が成り立たなくなってしまいました。お手伝いの範ちゅうを超えていることはわかっていましたが、主介護者である私も手一杯だったのです。

(家族の介護のために犠牲にしたこと、人生への影響は)
娘たちの健康を犠牲にしてしまったと後悔しています。娘たちどちらも、自律神経の不調で、体調不良が続いています。ストレスが原因なことは明確です。長女は、規律性調整障害で通学が難しくなり、高校を中途退学しました。娘たちが、しゅうと・しゅうとめの施設介護に移行後体調不良となったのは、緊張の糸が切れたのかなと感じています。しゅうとと、しゅうとめには申し訳ないですが、もっと早く施設介護に移行すべきだった。私たち家族は頑張りすぎたと後悔しています。

親の介護を担っているヤングケアラーの存在が知られるようになっていますが、老人介護が家庭の中心となっている家庭の中にも、ヤングケアラーは存在します。日本の家族制度が家庭の介護負担を大きくしていると感じます。介護を家族で担うには大きすぎる問題と感じます。

「結婚生活、築いた家族が崩壊」

茨城県 40代 女性 (2022年1月24日)町内に住むママ友たちとひとり親家庭さんへ食料支援からヤングケアラーを見つけています。私たち活動するメンバーは家族の借金、介護、DV、子どもたちのうつ、引きこもりなどを抱えながらも同じ町に住む子どもたちや、精神障害を抱えたママたちに食料、無料学習、子ども食堂のお弁当、飲食店のお弁当など、また、毎週土曜日ここに来れば食料はある場所を解放しながら無償で活動しています。私自身様々なあらゆる家族問題を抱えて来ました。子どもたちと一緒に母の自宅看とりを支えました。毎日警察が来るほど、祖父は暴言、暴力の環境の中、小学6年生の双子は私が仕事に行っている間は私の母の介護、ひいおじいちゃんが母に暴力しないように近くにいてくれていました。母が亡くなったあとに、ひいおじいちゃんに蹴られていたことも知りました。また、長年、旦那さんからはお給料をあまりもらっていなく夫婦仲は悪かったです。娘たちの「ひいおじいちゃんの暴力は我慢できる。でも、パパとママの口げんかは我慢できない」この言葉で離婚しました。そして娘たちが18歳のときに父が自転車で転び、四肢麻痺になりました。父の介護も娘たちにお願いすることもあります。負担かけてしまっています。また、私自身も幼い子どもを連れながら祖母の病院入院するたびに面倒を見てきました。母の自宅看とり介護、祖母の入院と同時進行でした。そして2人を半年間に見送りました。

(家族の介護のために犠牲にしたこと、人生への影響は)
自分の結婚生活、築いた家族を崩壊にしました。子どもたちに人生の希望、諦める生活にしてしまいました。

「学校や行政はもう一歩踏み込んで」

愛知県 40代 女性 (2022年1月24日)今思えばヤングケアラーでした。小学生のとき父親が視覚障害者となり、母は慣れないパートに行くので家族6人の家で食事の担当をしていました。そのうち祖父母の介護、母のガンなどどんどん家族がそれぞれに余裕がなくなっていきました。思春期に親や大人に相談できない、頼れない環境で育ったことでいまだに心が不安定になったり、人を信用できない、子育てに自信がない自分がいます。

(家族の介護のために犠牲にしたこと、人生への影響は)
性格もあるかもしれませんが、人間不信です。親って大人って助けてくれないんだ、気づいてくれないんだ、自分でやっていかないといけないんだと性格がひねくれました。中学生の子どもたちには自分の子どもの頃の話はしてません。子どもたちには自分のような経験はしてほしくないので、自分自身が心身ともに健康でコミュニケーションをなるべく取るように努力していますが、一方で身の回りのことがあまりできない子どもたちを見ると「こんなこともできないの!」と厳しく叱ってしまうこともあります。

自分がヤングケアラーであるとは思ってはいないと思います。生活が大変なのに大変だという自覚がないので相談できないのだと思います。学校や行政はもう一歩踏み込んで気づいてほしいと思います。

「もっとヘルパーの現状知って」

愛知県 40代 女性 (2022年1月24日)ヤングケアラーの対策で派遣されるヘルパーです。私たちは老人、障害支援で仕事をしてきました。いきなり子育て支援をしてくれと市から言われて正直戸惑っています。子育てのカリキュラムは受けていません。お子さんの事故等のことを考えると正直訪問は怖いです。さらにヘルパーの人員不足もあり、ヤングケアラー支援すると、介護、障害支援がままならない状況になってしまいます。行政の方たちはもっとヘルパーの現状を知って下さい。私たちは何でもできるわけではありません。訪問介護は本当に人がいないんです。70代の方が仕事をしています。

「一人じゃないから頑張ろうと」

長野県 20代 女性 (2022年1月24日)中学2年の時に母が癌になりました。1年生ごろから祖母が認知症になり、母が祖母を介護していましたが、癌になり入院してしまったので、家事と介護をやっていました。部活にも入っていたのですが、朝は祖父母を起こし、ご飯を食べていただいてから学校に行っていました。その時は、お父さんも仕事をしていたので頼りたかったけど、本当につらい時は頼りましたが、他は私が頑張らないと!と思い無我夢中でやっていました。泣いたこともありました。でも、つらいのは私だけじゃないからがんばっていました。

(家族の介護のために犠牲にしたこと、人生への影響は)
勉強です。
私は介護を行ってよかったと思っています。中学生の時の介護はつらかったですが、つらい中にも、家族や近所の人が助けてくれました。一人じゃないから頑張ろうといつも思っていました。そして介護をして介護に携わる人になろうと思い、今は介護士として働けています。中学生の時は、知らなかった技術を知り、祖父母にできなかった介護を提供できていると思います。

「あなたがあなたを認めてあげて」

北海道 40代 女性 (2022年1月24日)10代の後半から、難病を患った母の介護をしました。一人っ子だった私以外に母の面倒、家事をするものはおらず。周りの友人はキラキラした学生時代の真っただ中、自分の境遇を本当に呪いましたし、悩みが深すぎて相談もできませんでした。自分の人生はどこに行ってしまうのか。いつまでこれが続くのか。お先真っ暗の青春時代でした…。母が亡くなって20年近くたった今、自分も子どもを持ち育てていますが、自分の健康維持にはとても気を配っています。

(家族の介護のために犠牲にしたこと、人生への影響は)
青春時代がなかった。自分の人生をどうしたいか、友人、仕事、結婚など色々な夢を諦めてきました。今も自分の人生をどうしたいのか、迷子になりがちです。

ヤングケアラーのみなさま、今介護の中にいる方々、八方塞がりで目の前が真っ暗だと思います。死んでしまいたいと私も考えたことあります。でもね大丈夫ですよ、介護はエンドレスではないです。これから起こる人生の山、色々とあると思いますが、青春時代の介護のつらさに比べたら全然大したことないと思えます。知らないうちに人の痛みに寄り添える人になって大きな愛で生きていけるようになります。その愛をどうか自分自身にも向けてあげてほしい。よくやっているよ、えらいよ、頑張りすぎなくていいからね、鏡の中の自分に目を見て言ってあげてください。誰に褒められなくても(親の面倒見るのは当たり前、と見られがちだから)あなたがあなたを認めてあげてほしいと心から思います。明けない夜はないですよ。どうかどうか、頑張りすぎないでくださいね。

「どうしたらよかったんだろうと後悔」

千葉県 20代 女性 (2022年1月24日)私の姉と弟は未成年で祖父母の介護のため、祖父母宅に寝泊まりしていました。母も頼るところがなく姉と弟に頼りっきりになっていました。姉、弟も介護の経験がないためストレスが大きかったなと今は思います。母も頼むしかなく自分も仕事の合間に介護をしてという生活に、身も心もボロボロだったと思います。現在は私が成人して代わって介護をしています。自分がやらないと、と考えてしまう気持ちがよく分かります。ヘルパーさんとリハビリも利用しているのですが、時間は限られているので難しいです。

(家族の介護のために犠牲にしたこと、人生への影響は)
姉と弟は精神疾患になってしまいました。どうしたらよかったんだろうと後悔ばかりです。

「青春の思い出ない」

大阪府 40代 女性 (2022年1月24日)兄弟が多く、父母は家業で忙しく、母が家事嫌いだったこともあり、長子の私が弟妹の世話をしたり、家事をしていました。

(家族の介護のために犠牲にしたこと、人生への影響は)
そのため部活も受験勉強もしていません。社会人になってから大学に行きました。青春の思い出などなく、二度と人の世話をしたくないという思いから子どもを持ちませんでした。

子どもは子どもらしい生き方ができないと、その後に後悔の人生が待っています。

「そのとき大変なだけではない」

神奈川県 40代 女性 (2022年1月24日)私は親が認知症とかではないのです、盲人のため、幼少期の頃からずっとお手伝いをしていました。お年寄りのお手伝いなどより体力的には楽なのかもしれませんが、精神的には親の存在をしなければいけなかったため、今思うとかなりつらかったと思います。実際私は、小中高とほとんど話さない人でした。その後、社会人になってからも何か私はおかしいと思い、たくさんの心理系の本などを読んで少しずつ改善してきて、今に至ります。本当は楽しかったはずの青春時代があったのかと思うと、とても悔しいです。ただただ黙っていたため、学校の先生でさえ、モナリザ、と言うあだ名をつけ私を呼びました。このようにヤングケアラーはその時大変なだけではなく、幼少期や子ども時代に環境によってできてしまう性格で、人生を生きなければいけないというのがとてもつらいなと思っています。この事実を皆さんに知っていただきたいです。

(家族の介護のために犠牲にしたこと、人生への影響は)
自分という存在がだんだん出てきたのは40歳を超えてからです。おそらくそれまでは自分を生きていなかったのだと思います。

「訪問先がヤングケアラー家庭」

東京都 30代 女性 (2022年1月23日)現在、訪問介護の先がヤングケアラーのご家庭です。シングルマザー(知的障害と精神疾患)のケアをしているのが17歳の娘さんです。その娘さんも現在、ケア疲れからうつ症状が出てしまい、不登校になって家に閉じこもっています。娘さんの影響なのか、その下の息子さん(15歳)も学校に行かず、小学生のお子さんは行ける時と行けない時があるみたいです。週1度の訪問で毎回、玄関に入るとゴミ屋敷で、こんなになるまでどうして行政も近所も身内も放置にしていたのかと思ってしまいます。寝る場所すらゴミまみれです。

ヘルパー事務所が何か所か変わったのですが、私が登録している事務所が入るまでは行政も生活保護世帯ぐらいにしか把握していなかったそうです。今は児童福祉課の方も入って今後の対応を考えているそうですが、少し遅いかなと思います。

「自己評価が低くなってしまう」

埼玉県 50代 女性 (2022年1月20日)私自身も今思えばヤングケアラーでした。我が子も手がかからなくなり、50歳になります。今、自分の大変だったことを思い返して、支援する側になりたいと強く思っています。しかしながら、どこに連絡すればいいかわからずにいました。ヘルパーの資格がいるのかも知りたいです。

(家族の介護のために犠牲にしたこと、人生への影響は)
精神科に通う母でした。自分の自己評価がなんとなく低くなってしまいます。人になかなか相談できないのがつらい。話したあとの相手の返答に傷つくこともありましたし、話したあと、後悔することもありました。

「助けてほしいなんて思ったことない」

栃木県 40代 女性 (2022年1月20日)先ほどの放送を拝見してすぐに検索してみました。私は子どもに世話をさせていた側なので、ヤングケアラーではないのですが、本当に苦しんでいる子どもたちを助けてあげたいです。私は24年前に結婚してすぐ出産、離婚をしたので、ずっと産後うつのまま、知らないで苦しんできました。その後、うつ病で寝たきりになり、パニック障害を併発し、子どもが泣いていたのを思い出すと苦しくなります。

今も投薬はあり、最近では仕事もできなくなってきました。助けてほしい、と言ってくださいと、放送で拝見して涙が止まりませんでした。助けてほしい、なんて思ったこともなく、自分でなんとかしなくちゃ、としか考えていません。きっと世の中にはたくさんそんな人がいるのでしょうね。放送してくださり、ありがとうございます。

「いまだに自己評価が非常に低い」

東京都 50代 女性 (2021年12月30日)自分は14~15歳くらいから20歳で家を出るまで、双極性障害の母親に代わって家事一般を担っていました。母親は私が14歳くらいのころから、父の浮気がきっかけで双極性障害を発症し、家事を顧みなくなりました。父は1週間に1回くらいしか帰宅しないようになり、すぐに全く帰ってこなくなりました。2歳上の姉と3歳下の弟がいますが、姉は体が弱いといって何もせず(掃除をするとほこりを吸ってぜんそくになる、洗濯をすると洗剤でかぶれて湿疹になるなど)、弟も料理や洗濯は女の仕事だといって私に覆いかぶさるばかりでした。母親は私に1日1000円渡して、それで夕食の支度をせよと言うのですが、米や醤油などが切れても気付かないのでいつもお金は足りませんでした。姉や弟は祖父母からかなりの小遣いをもらっていたようですが、祖父母は私には無関心だったので、そういった援助はしてもらえませんでした。母、姉、弟は、私を女中扱いして、いいようにこき使い搾取していたと思います。それにはっきり気がついたのは家を出てからでした。

(家族の介護のために犠牲にしたこと、人生への影響は)
自分ががんばってきちんとしないとこの家は崩壊すると思って、弟の親代わりにもならないといけないと思い、毎日一生懸命家を整えようとしていました。ですが、やればやるほど他の家族にはバカにされ、「女中向きにできている」などといわれ、姉にはひんぱんに鍋のふたなどで殴られていました。「何を着ても貧乏くさく見える」「趣味が悪い」「センスがない」「田舎くさい」「何をさせてもきちんとできない」とののしられる毎日でした。それで、いまだに自己評価が非常に低いです。人に褒めていただいても、信じることができません。裏ではきっとあざ笑っているのだろうと思ってしまいます。
いわゆる「女子御三家」と言われる進学校に行っていました。本当はもっときちんと勉強して、薬学部か医学部へ進学したかったのですが、時間も足りずどういう塾へ通ったらいいかもわからず、つぶしのききそうな教育学部の美術科へ進学しました。母親の変なプライドも一応国立の教育学部ということで満足させられたし、学科も実技も中途半端でも試験に通ることがわかっていたからです。でも、弟が大学に進学しないという意思をはっきりさせた途端、祖父から「金銭を援助するから医学部を再受験しろ」と言われ、「金を出すからにはありがたく思って真面目に勉強しろ」と言われたので、さすがに人をバカにしていると思って断りました。(祖父は医者で、叔父も医者でした。祖父母は叔父の子どもを嫌っていたので、私をターゲットにしようとしたのだと思います)

「社会よりも家庭の方が優しくなかった」

北海道 30代 女性 (2021年12月29日)両親が共働きで小学校4年生の頃から7つ下の妹の保育園のお迎えをしていた。週に3~4回。土曜日は保育園も早く終わるから友達と遊べない。妹のことはかわいかったけど、学校が終わったら妹のお迎えに行き、家に着いたら父親が帰ってくるまでに部屋を片付けて掃除機かけてお米を研いで炊いて母親が帰ってくる前にはお味噌汁を作り、洗濯物を畳んで、テーブルの上にはみんなの箸と食器が並んでないと怒られた。ご飯が終わったら食器を片付けて洗う。お迎えのない日は19時くらいまで家に帰らなかった。もちろん怒られた。お米の水の量を間違えても怒られた。食器を落として割っても怒られた。落としたかったんでも割りたかったんでもないのに。目を離してお味噌汁を沸騰させても怒られた。友達みたいにピアノやバレエを習ってみたかった。お金が無いと言われ簡単に諦めた。2つ下の弟は3年生の頃にアイスホッケーを始めた。泣き虫だった弟が男の子らしくなり両親は喜んで道具を用意した。ホッケーの送り迎えのために母は自動車の免許を取りに通い、車は2台になった。親に悪気はなかったんだろうとは思うし、私の気持ちが想像できなかったんだろうけど、ひどいなぁと思う。

(家族の介護のために犠牲にしたこと、人生への影響は)
なんでも簡単に諦めるし、手に入るものしか欲しいと思わなくなった。人に何かを望むこともしないし、大抵のことはそんなもんだと思えるようになった。やれと言われる前に相手の望むことを先回ってやるようになった。でも社会に出ると人は思ったよりも優しくて寛大で思いやりのある人も沢山いて、家庭の中で得られなかった上の人から義務を負わされることなく面倒を見てもらえる安心感と自由さを味わえた。当たり前にやらされてきたことや、やらないと怒られる感覚で仕事をしていると褒められた。私の思う致命的なミスは、大抵が日常当たり前に起きることのようで、ひどい怒られ方や責められかたをすることは一度もなかった。社会よりも家庭の方が私には優しくなかったので、結果人より楽に社会の中で生きているかも知れない。相手の思うことが大体わかって、ある程度相手の望むようにできるので人から疎まれることはほぼない。(妬まれることはたまにある。)ただ、いまだに自分が本当は何を望んでるのかはわからないでいる。本当は多分、人と関わらずに1人でいたい気がする。

「親のせいにも環境のせいにもしたくない」

岡山県 30代 女性 (2021年12月23日)私の家族は6人いました。祖父は寝たきり(小学2年の時に亡くなる)、父はアルコール依存症で私の幼少時代は働いていましたが、あまりお金を家には入れてくれない人。父は生まれつき片目がありませんでした。母は知的、精神障害をもっています。今でも私のサポートが必要です。私には弟がいますが、母の愛情を受けることが少なく荒れた時期がありました。今は結婚し、婿養子として家を出ています。そして父の母である祖母は働いて、私と弟を育ててくれました。しかし清掃の仕事のため、給料は少なく私はいつも家のお手伝いばかりしていました。それが当たり前でした。ある日、祖母はみかん箱を沢山購入し、私を連れて売りに回りました。なぜ私が行くかというと子どもがいれば必ずだいたいは皆、購入してくれるからです。それも知りながら複雑な気持ちで回っていたのを覚えています。お金がなく、祖母の知り合いの庭の草取りをしたり部屋の掃除をしたり、水やりをしたり、お金になることはたくさん小さい頃からしました。小学5年の時に祖母のすすめで、知人が経営している仕出し屋さんで1時間500円で朝の4時~たびたびではありませんが働くようになりました。そしてなんとか高校生になり、だけど、祖母からはお金がないから辞めなさいと言われ必死で辞めたくなくて、一番忙しくしていた頃は、、、朝刊配達→朝練→授業→生徒会活動→部活→アルバイト→家で内職。本当にキツかったし、父のアルコール依存症のせいで精神的にこちらまでおかしくなりそうだった。話せば長くなるのでこのあたりで、、、終わりにさせていただきます。

(家族の介護のために犠牲にしたこと、人生への影響は)
友達と遊ぶ時間が少なくなった。行きたい学校へいけなかった。家族で旅行したことがない。好きなことをまともに出来ない。なので、悔やむことばかりで、私自身が精神的に不安定になってなかなか上手くいかない人生に。
でも、親のせいにも環境のせいにもしたくないので、今を精一杯生きています。ヤングケアラーが少しでもなくなれば、、そんな社会になればと願うばかりです。

「店の手伝いをすること自体は悪ではない」

東京都 30代 女性 (2021年12月3日)以前はもっと自営業者の家は多く、放課後や夏休みにはその家の子どもが、店の手伝いをして、お客が「偉いわね」と言って行く。そういう光景がよくありました。今だったらこれも「家の犠牲となるヤングケアラー」なのでしょうか?もちろん、学校に行かせずに店に従事させたりしたら、それは違法です。だけど、店の手伝いをすること自体は悪ではありません。両親の働く姿を見て、「両親はこうして自分を養ってくれているんだ」と知る、店の仕事を通して、世の中について仕事について知る。それの何が悪いの?最近は、自営業の家は減り、父親が何の仕事しているかも知らない子もいる。親の苦労を見る機会のない子どもは、平気で「お父さん邪魔」などと言ったりする。子どもに店の手伝いをさせることが犠牲かどうかは程度の問題でないでしょうか?「お店の手伝いはするけど、勉強する時間と週に1度ぐらいは友達と過ごす時間をください」と、そこの家で各自交渉すればいいだけの話だ。外野がヤングケアラーだと言って、介入するまでもない。

「幸せになる方法は必ずある」

埼玉県 40代 女性 (2021年11月27日)父親が幼い頃に亡くなり、母と弟妹3人の家庭で育ちました。母は、難病で全身の筋力が低下する病に倒れました。弟は非行を繰り返し、家にはお金を入れず家族の面倒は見ず自分のことばかり。現在は絶縁状態です。妹と2人で母の世話をしました。精神的に追い込まれることもあり、温かい家庭に憧れました。現在、私は医療関係の仕事をしています。結婚して3人の子宝にも恵まれました。妹も結婚をしました。結婚することで母と距離ができ、ちょうどよい関係にあります。今は幸せです。

(家族の介護のために犠牲にしたこと、人生への影響は)
精神的に不安定になりました。休日も家族のことが気になり、楽しむことができませんでした。自分の時間があったとしても、楽しんではいけないような気持ちで、自分は犠牲者だと思うようになりました。母が病気であるために、自分は幸せにはなれないかもしれないと思うことがありました。現在も母親の病のことはあまり話したくなく、人と距離を置くことが多いです。
ヤングケアラーの方へ。
つらい思いを背負い続けるのではなく、家族の病とよい距離を保ち、自分のための人生を歩み、幸せになる方法は必ずあるということを知ってほしいです。

「思いやってくれる大人の存在が必要」

山梨県 60代 女性 (2021年11月26日)私も中1のときに母が病気で倒れ、以来小学生の弟と家事を分担してきました。ですから、中高だけでなく小学生もサポートの範ちゅうに入れた方がよいのではないでしょうか。私も誰にも相談しませんでした。誰かに相談するという発想がなかったからです。また、周りの大人も、特に手助けをしてくれるということはありませんでした。家庭によってそれぞれ状況は違うでしょうが、地域や学校によって対応が異なるのはよくないと思います。将来的には、専門家のいる窓口に一本化された方がよいのではないでしょうか。

(家族の介護のために犠牲にしたこと、人生への影響は)
母は長年治らない病気と闘っていましたが、その間、世話をするのはたまたま家に残った家族という暗黙の了解があったように思います。家族で何かを話し合うということはなく、言葉は悪いですが、互いに押し付け合う形になっていたと思います。結局、母が亡くなったあとは、世話をする人間は不要になりました。負担がなくなると同時に家に居場所をなくしてしまう人たちのことも、配慮する必要があるのではないでしょうか。
なによりもつらいと思ったのは、周りの大人の身勝手さを早い時期から知ってしまったということです。気の利かない世話係としか見られていないヤングケアラーには、思いやってくれる大人の存在が必要だと感じています。同時に、世話される親やその他の大人の親族に対する適切なアドバイスも必要だと思います。

「当時は美談 世代意識に溝」

茨城県 40代 男性 (2021年11月26日)今から30年ほど前、私が中学生の時に同級生の女の子が遠方に住む祖父母の介護のために、高校進学と同時に親元を離れ、1人で祖父母のいる他府県に引っ越ししたのを思い出しました。家庭の事情はよくわかりませんが、その当時、校内では美談になっていたことを覚えています。また、卑近な例ですが、今は亡き私の祖父(大正生まれ)は、今思えばヤングケアラーだったと思います。親に代わって、小学生の時から家事をこなしつつ学校(当時の師範学校、今の国立大学教育学部)を卒業したことを(祖父の娘である)母から聞いています。30年ほど前までの価値観では、美談であり家族内で介護するのは当然のことだという雰囲気でした。しかし、今は気持ちの持ちようで困難を乗り越えることがいいことだ、という50代から上の世代と心構えだけではどうにもならない現実と向き合っている40代以下の世代との意識に溝があるように思われます。妥協点はないものでしょうか。

「泣きたいときは泣いていい」

東京都 50代 女性 (2021年11月20日)私も14才から49才まで両親をみとりました。皆が思うこと、人と違う人生を歩むことを悩んで大人にも友人にも隠し通したこと。文章にしたら本が書ける気持ちだと思います。泣きたいときは泣いていいと思います。ヤングケアラーは我慢に我慢を重ねてしまう。当時アイドルさえわからず取り残された気持ちは今でも忘れていません。学校にも成績も落ちたし、自己否定が多かったかしら?頑張ってほしくない。つらいときは泣いてほしいです。

(家族の介護のために犠牲にしたこと、人生への影響は)
進学、結婚、就職
やっとテレビで放送されるようになってよかったです。私の14才の時は介護保険がなかったから、学校とバイト。就職してからは仕事とバイトでした。

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