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ヤングケアラー これまでの報道に寄せられたご意見(2)

  • 2022年1月17日

「家族ごと支援するシステムの構築を」

東京都 20代 女性 (2021年11月19日)母は私が10歳の時にガンが発覚、父は発達障害グレー、私も発達障害とセクシャルマイノリティーでした。両親が料理人だったので食事は出ましたが、母の通院に付き添い、その後母は自らの治療費と私の学費のために出稼ぎ。父子2人暮らしで父は料理以外の家事ができず、洗濯、掃除、日用品の買い物は私がやっていて、それが普通だと思っていました。部活は幽霊部員。学生時代に誰かに相談したことは一度もありません。ヤングケアラーという言葉は大学を出てから知りました。塾には行けず勉強は宿題で精一杯、大学に行けたことが奇跡です。その後父が脳卒中になり、後遺症で判断力が低下しているので、今度は食事作りも含めて家事や行政手続きの9割を私がしています。母は今度は母自身の親の介護のために家を空けています。20代の子育て以外のケアもヤングケアラーとして見てほしいです。自殺や親殺しを考えたことも一度や二度ではありません。

(家族の介護のために犠牲にしたこと、人生への影響は)
発達障害もありますが、友人と学外で遊ぶことは数えられるぐらいしかありませんでした。田舎だったので、親や私がずれているという情報が回るのが早く、常に何かしらのいじめを受けていて、不登校にもなりました。大人になってから発達障害を疑って受診した医師からは、発達障害、セクシャルマイノリティー、ヤングケアラー、学校でのいじめなどによるうつ状態や睡眠障害、買い物依存を指摘されました。現在も治療を続けています。障害認定がありますが治療費はばかになりません。若い時間を犠牲にしたという感覚があります。ケアと障害のためにフルタイムでは働けず、自分の将来への不安もあります。大きい夢はありますが、環境が整わないと…

支援が明らかに不足しています。ヤングケアラー当事者が定型発達でも大変なところ、私たちのように発達障害の子どもが発達障害(または疑い)の親のケア、という例も少なくないと思います。家庭に介入することは難しいことですが、取り返しのつかないこと(自殺や殺人事件等)になる前に何とか当事者家族を見つけ、家族ごと支援するシステムの構築は待ったなしです。

「この問題を継続して取り扱って」

神奈川県 60代 女性 (2021年11月19日)私自身、6歳の時に重度脳性小児麻痺の弟が産まれてから中学生になっても在宅で両親と共に面談を見ていたので番組(※首都圏情報ネタドリ!)を見てとても共感しました。周りの人からはお兄ちゃんは「偉いね」とか「優しいね」とか言われていましたが、何が偉いのか優しいのか全く分からず、誰にも相談することなく育ちました。両親が弟を国立の病院に入れてからは少しだけ解放されましたが、弟を在宅で面倒を見ることを選択していたら…どうなっていたんだろうと思います。ヤングケアラーを支援する取り組みを作り、それを当たり前の社会にしていくことが必要です。

(家族の介護のために犠牲にしたこと、人生への影響は)
介護・犠牲という言葉は、障害を持つ家族にはありません。しかしながら、自分の人生への影響は少なからずありましたし、今も将来もあります。このような質問するのは、違和感を持ちます。

ネタドリでヤングケアラーのことを取り上げて、問題提起していただくことは意義があることと思いますが、たった2家族のケースを27分間の放映でおしまいとすることでは何の進展も図れません。報道というのは、伝えるだけでなく道を切り拓くことがあって報道だと思います。是非この問題を継続して取り扱っていただきたくお願いします。

「気軽に相談や話をできる場を提供してあげて」

東京都 30代 女性 (2021年11月19日)本格的な介護はまだ経験したことはありませんが、祖母が認知症で、母の金銭的な援助を高校生の頃からしていました。親だから家族だから私がやるのが当たり前、自分がやるしかないと自分を犠牲にした人生を送ってきましたが、子供や孫が苦しみ、不幸になることを母も祖母も望んではいないと思うので、行政の力を借りてある程度の線引きをするようになってからは自分の人生を少し優先できるようになり、おかげで以前よりも母にも祖母にも優しくできるようになりました。ヤングケアラーの方にはもっと気軽に相談や話をできる場を提供してあげてほしいと思います。

「大人になってから苦しむ私たちはどうすれば」

東京都 50代 女性 (2021年11月19日)私はヤングケアラーでした。自覚は無く、真夜中までアルコール依存症の父の相手をし、勉強し、妹の面倒もみていました。共依存の母は家族のために働いていたので、誰に話しても「当たり前」と捉えられ、イジメにあっても話せませんでした。ヤングケアラーは18歳未満と、NHKで話しておられましたが、ヤングケアラーだったゆえに、大人になってからサバイバーとして苦しむ私たちはどうしたらいいか悩みます。

(家族の介護のために犠牲にしたこと、人生への影響は)
人生は家族のためにありました。成績を取らなければ、父親のいう「子ども」の姿でいなければ、捨てられる・殴られると思っていました。私が生きていないと、死んだら妹や母がやられると信じていました。望まぬ進学、進路、就職後は病欠から退職。今はPTSDと闘病中です。

私にも子どもがいます。裁判離婚したので、2人暮し。子どもは17です。ケアマネージャーさんたちが私にもいますが、子どもは私が離婚する直前から不登校です。来年から、「子ども」ではなくなります。子どもを助けてほしいです。

「人との交流を何度も諦めた」

東京都 20代 女性 (2021年11月16日)私は大学生活を介護にささげました。しかし、気になるのが、大学生ではヤングケアラーには当てはまらない年齢だということです。これは一体どうしてでしょう。コロナになって、より介護が厳しくなり、学業も友人関係もおろそかになり絶望していた時も、「でも私はヤングケアラーではないのか」と納得がいきませんでした。18歳までといった定義はどこから来ているのでしょう。個人的には、20代まではヤングケアラーなように思えます。

(家族の介護のために犠牲にしたこと、人生への影響は)
人との交流を何度も諦めました。朝から散歩に一緒に行って、昼はご飯を、夜はオムツを変えて、深夜には徘徊してしまった祖父を探す。楽しいことも、介護をしてよかったこともたくさんあります。けれど、外に行く時間も、精神的余裕も当時の自分にはありませんでした。自殺したいとまでは思わなかったけれど、風になって消えてしまいたいと思ったことは何度もあります。なにが悲しいかというと、介護をすると、元気だったその人の姿の記憶が消えていってしまうことです。もう、祖父母の印象はボケて、泣いて、床に倒れて、ぼーっとしているものばかりです。以前のビデオを見ると、全く記憶にない元気な祖父母がいて、全く覚えていない自分が情けなくて涙が出ます。

「家族のことだからやって当然と思っていた」

山形県 30代 女性 (2021年11月6日)私が21~26歳頃まで祖母と暮らしていました。母は早くに他界、姉妹たちは東京へ出ていき、祖母の長男である父は単身赴任で他県へ行くことが決まり、私が面倒をみることになりました。はじめの頃はまだ割と元気で、自転車やスクーターに乗ってある程度自分のことは自分でできていたのですが、腰を悪くして入院した頃から足腰が弱くなり、徐々にサポートが必要になってきました。ある日仕事から夜8時頃帰宅すると、家の電気はついておらず、家にいませんでした。畑命な人だったので、まさかまだ畑に…?と思い、車で農道を探すと、祖母の自転車が倒れており、その下の小さな側溝に落ちていました。水がほとんど流れていない時期だったので幸い助かりましたが、自力では脱出できなかったようです。何とか車に乗せて救急で診てもらい、低体温でそのまま入院となりました。次の日私は仕事関係での集まりがあったのですが、入院の手続きやらで欠席せざるを得ませんでした。夜中に1人でお風呂に入ろうとして、上がれなくて風呂の中で排便してしまったこともありました。(←犬が吠えて教えてくれたので気付くことができました)。祖母は気の強い性格で、感謝を表してくれたりするような人ではなく、むしろけなしてもっとを要求するような人でしたので、その時期は本当に心が潰れそうでした。仕事をしながらの祖母の世話がどんどん負担になり、父に相談して、結果ホームに入ることになりました。ホームに入ることに本人は全く納得していなかったので、入所してからも大変でした。脱走しようとしてホームのドアを壊したり、帰るんだと言って暴れているなどと何度もホームから連絡があり、その度に私が謝罪に向かいました。ただ入所後は身体的にも精神的にもかなり負担が減ったので、初めてのびのびと仕事をすることができました。

(家族の介護のために犠牲にしたこと、人生への影響は)
家族のことなんだからやって当然、と思っていたと思います。ありがとうと言われたことがほとんどありません。そんな中での祖母の世話が精神的に本当につらくなったときに単身赴任中の父に相談すると、「俺にどうしろっていうんだ」と言われて絶望的な気持ちになったことを今でも忘れられません。なぜ孫の私がこんな目に?と強く思いました。その時期があまりにつらかったので、その後子供が産まれてもその時期と比べてあまり苦労を感じず、産後も穏やかに楽しく過ごせました。

今となっては笑って話ができますが、その時は本当につらかったです。周りの友人に同じような環境の人がいなく、また羞恥心もあったのでなかなか話もできず1人で抱え込んでいました。

「頑張っているあなたへ」

長野県 20代 女性 (2021年10月27日)祖母の介護を中学2年生から3年生の時にしていました。母が主に行っていましたが病になり、私がやるようになりました。祖母は認知症で大変な時もありました。また、祖父は90代で支援が必要でした。母がいない間、祖父母の介護と家事をしていました。しかし、父や兄にも手伝ってもらいながら、学生生活を過ごしました。私の場合は、家族や親戚の方々が助けてくれましたが、今の若い方は近くに助けを求めても助けがすぐには来ないでしょう。その現状を見てあのとき私は、周りと違いショックを受けていました。しかし、この経験を生かして今、人を助ける仕事に就けています。大変で嫌なこともたくさんありましたが、いい経験でした。私は一時的でしたが、学生時代ずっと家族を支えている方々がいて、好きなことができないでいる方々がいると思うと心が痛いです。

(家族の介護のために犠牲にしたこと、人生への影響は)
友人との遊ぶ時間。自分より家族と思っていました。家族には自分がいないとと思っていました。また勉強に集中する時間がなく、もっとしっかりしていたら高校も頑張れたのかなと思いました。私はそのぐらいです。友人にも恥ずかしかったですが、勇気を出して話しました。そしたらみんなが「困ったら言ってね」や「勉強教えるからね」などと言ってくれて、私はうれしかったのを覚えています。

今、自分を犠牲にしても家族のために頑張っているあなた。ありがとう!あなたのおかげでその方は、生きているよ。ありがとう!でも自分も大切にしてください。もうダメだと思った時は、一人で考えないでください。最悪の事態になります。あなたには未来があります。あなたのことを助けてくれる人が絶対います。絶対に。頑張っているあなたへ。必ず笑顔で笑える日が来るから。涙を流してもいいよ。つらいのが少しは和らぎますよ。

「親からはなしてあげて」

東京都 40代 女性 (2021年10月26日)はじめまして。私の家族構成は両親と兄、弟の5人家族ですが、兄は1人暮らし。弟は父親からかわいがられていなく非行に走り、親元から離れ施設に預けられ、その後は兄と弟とも音信不通です。私の両親は共働きで、小学校5年生くらいから学校が終われば家に帰り、家事をやっていました。中学生になってからは父親があまり働かなくなりパチンコ通いし、ガス、電気払えず、さらにサラ金を複数借りては支払いできず、家に取り立てが来ていました。中学校卒業後は高校に行くお金もなく、16歳になるまで家事手伝いをし、16歳になって働き始めましたが、そのお給料さえも支払いに回り、おこづかいというものもなく、もちろん貯金なんてできない状況。おこずかいはもらえたとしても千円くらいでした。親戚からのお年玉さえも親に取り上げられました。スーパーで働くようになり、その頃から父親が病気(肺気腫)になり、ますます生活が困難になりました。中途社員になりボーナスももらえるようになりましたが、それも借金返済、光熱費や家賃の支払い等々に消えていき、生活保護を受けるために私は職場を無理やり辞めさせられ、母親は父親と離婚。そこから父親の介護生活が始まりました。気づけば8年、私は20代後半になり寝不足が続き、父親を殺めて私は自殺しようと思いました。でも殺めることができず、私が死ねば介護から解放されると思い兄にお別れの電話をしました。兄から言われたのは、すぐに家を出ろと。その後私はシェルターに入りました。精神的に病んでいたみたいです。父親は12年前に亡くなりました。

(家族の介護のために犠牲にしたこと、人生への影響は)
私は両親のせいで人生を台なしにされました。友達という友達もいませんでしたが、遊ぶことも部活に入ることも許されない、常に監視されている状況。保険料も払えず滞納。仕事していても常に連絡しなければいけない状況。コウノトリは親を選んで産まれてくると言いますが、私は親を選んだのでしょうか?周りの家庭のことがわからないからそれか当たり前だと洗脳されていたんでしょうか?やり直せるなら生まれ変われるのなら、私は二度と両親の元には産まれたくはありません。

今でもヤングケアラーをしている人、やらざるをえない人のために手助けをしてあげてほしいです。自分の親だからではなく、その子の人生がヤングケアラーによって生活すること、仕事をすることができなくなるのだけは避けてあげてほしいです。親からはなしてあげてほしい。もっと早くに私がそうしてほしかった。

「自己肯定感が非常に低い」

東京都 50代 女性 (2021年10月26日)ギャンブル依存の母は、私が小学生の頃からネグレクトだったため、6歳下の弟の世話、12歳年下の妹に対しては、母親の役割を担っていました。妹が中3になって私がそばにいなくても大丈夫と思えるまで続きました。

(家族の介護のために犠牲にしたこと、人生への影響は)
自分のことを優先できません。いつも誰かを優先し、自分は我慢することが常だったため、不満がありつつ、いまだにできません。同世代の人と同じ経験をしていないので若い頃から今でも同じ話題で話せないし、世間知らずで大人になってしまった感があります。自己肯定感が非常に低いです。

私自身、発達障害がありましたが、両親ともに無知無関心であり、ヤングケアラーとなっていることに関しても何とも思っていなかったと思います。27歳で実家を離れても、なかなか自分を取り戻すことができず、苦しい日々でしたが、今は発達障害であることも自覚し、自身を大切にできるようになって来ています。私のような人が一人でも減っていく世の中になっていくことを願っています。

「“自分だけじゃない”ということを番組で届けて」

岐阜県 30代 男性 (2021年10月26日)番組を見て、自分の今の状況がヤングケアラーの立場であると思い驚いて投稿しました。現在母親が腰の手術したあと、思うように動けなくなり、うつになってしまいました。そんな母親をみて父親は頑張っていますが、私も父がいない時は身の回りの世話をしています。このままでは自分の幸せを犠牲にしてしまうのかという将来の不安がとても強いです。おそらく潜在的にヤングケアラーという方は存在していると思います。そのような中で、自分も両親のためにと思ってやっていたことが、実は自分を犠牲にしているということをほかの人にも知ってほしいです。

(家族の介護のために犠牲にしたこと、人生への影響は)
一人暮らしをして、新たな仕事に挑戦しようとした矢先でした。そのため夢を諦め、家族の介護に疲れ果てています。また、うつもあるため、メンタルケアもしなくてはなりません。そのために恋人ができても家族のことを打ち明けることができず、一度知られた際に別れてしまったこともありました。そのため自分の中で結婚は憧れていますが、難しいのかなと思ってもいます。

母親の姉に相談した時に、両親というのは子供の幸せを1番願っていると伝えられました。そのためにあなたが自分を犠牲にしてまで面倒を見る必要はないとアドバイスを頂きました。そして父親としっかり話をして今の自分の思い、考え、将来について2人で話し合うことで再びチャレンジしてみようという気持ちが芽生えました。おそらく私のように誰にも言えないままの人は多くいると思います。その中で自分だけじゃないよ、意外と近くにも似たような家族はいるんだよということを是非、番組を通じて私のような人に届けていただけたらと思い、今回投稿させて頂きました。

「患者の負い目を増大させないで」

東京都 40代 女性 (2021年10月24日)NHKスペシャルでやっていました。ALSなどの不治の病の患者が「家族に迷惑をかけたくないから死にたい」と口に出す現実。逆に言えば、もしも公的援助がしっかりして、家族が抱える介護は最小限であれば、生き続けたいという患者もいるはずです。患者たちは、自分の存在は家族にとって負担という負い目がある。だから死を選ぶ。そこでさらにまた、「ヤングケアラー」の問題を取り上げすぎたら、患者たちに「死を選べ」と暗に強要してるのと同じです。ネットの掲示板などにも、ヤングケアラー関連では「家族に迷惑かけてまで生きてるな、逝ってよし」みたいな書き込みも時折見ます。患者当人たちの負い目を、これ以上増大させないでください。

「ほかの年代が直面する介護問題は軽視するの?」

新潟県 40代 女性 (2021年10月18日)本日こういうニュースがありました。「警察に『介護に疲れて殺した』と通報、義母殺害容疑で54歳女を緊急逮捕、大分・別府市」。こうした介護疲れによる殺人。決して珍しくありません。なぜにNHKは「ヤングケアラー」ばかりを言って、ほかの年代が直面する介護問題については軽視するのですか?年齢による差別は不愉快です。若い人さえ救済されればいいとでも?

「経験を話すことで明るい未来につなげられるのなら」

埼玉県 30代 女性 (2021年10月15日)今年38歳、精神病名をつけてもらい21年目になります。一人っ子で今思い返すと両親は世間から孤立していました。父はコミュニケーションが上手くできない、今で言う発達障害、仕事に居場所を見いだすだけでした。
母は外にコミュニティーを持つことなく、ただ私を育てるのだけが生きがい。薬を飲んでいない母の姿は記憶にありません。私は学校では親を見下した教師からのいじめに耐え、家では母の愚痴を聞かなければならない役目。
母いわく「親の愚痴を聞くのが子の役目、私もそうしてきた」。
学校ではコミュニケーションのしかたがわからず孤立。もちろん、放課後に誰かと遊ぶという行為をしたことはありません。一般的な家族団らんはなく、笑顔での会話より我慢の記憶が鮮烈にこびりついています。
生きていて楽しいことがない、生きるためには我慢して家庭という居場所を確保しなければならない、お母さんの話を聞いてあげないと家族が壊れちゃう。

必死に子ども時代を過ごし、やっと体も心も動かなくなった17歳、異常に気づいた母に病院に連れられやっと病名がつきました。うつ病。

この時父が放った「キチガイ」も未だに何も感じません。これが孤立した家庭に生まれた人間の普通の世界なんです。両親ともに今年78歳、幼くして戦争を経験した年齢です。
誰が悪いのではありません、あたたかさを知らないまま命を繋いでしまった無知が原因です。どこかで負の連鎖は止めなければいけません。長年精神を患った人間は、相手にわかるよう言葉にできなくなりがちです。入院病棟で沢山見てきました。私は偶然合うドクターを見つけられ、家庭を犠牲にして稼いだ両親からの援助で理性を保てているだけです。今は1人暮らしですが仕事はできず実家の母は認知症と言われていて幻聴幻視があります。これも私がどこかでやらなければならないことです。

(家族の介護のために犠牲にしたこと、人生への影響は)
自尊心

現実を知らないと理想しか語れません。私の経験を話すことで明るい未来につなげられるのならどうか、前に進む資料にしていただければ幸いです。

「“犠牲”だと決めてかかる前提はやめて」

新潟県 30代 女性 (2021年9月24日)障害者の家族のために、何かすることを「犠牲」だと決めてかかる前提はやめてくれませんか?例えば、パラリンピックの選手たちは、家族の多大な協力あって出場が可能となりました。家族はそのパラリンピックアスリートをパラリンピックに出場させるために、時間も金銭も労力も捧げたのです。本人たちはそれを誇りに思っています。「かわいそうな犠牲者」なんかでない。パラリンピック出場の見込みある家族のサポートはOKで、パラリンピックどころでない重度の障害者の世話は「ヤングケアラー、かわいそうな犠牲者」ですか?それはダブルスタンダードで、究極の障害者差別です。

勘違いしていませんか?問題は10代には重すぎる家族としての責任を追わされているにもかかわらず、相談機関などがなかったことであって、家族のケアすること自体ではないはずです。家族のケアすることについて本人が何を思うかは、千差万別で主観的なものです。客観的には大変そうでも、本人がしたくてしているのなら、外野が口を挟むことではありません。

例えば、障害者のきょうだいを持つ子は、自分だけが健康体でさまざまなことを制約なくできることについて罪悪感を持ったりする。「きょうだいはそれが叶わないのに」と。だからせめてものしょく罪で、障害者のきょうだいのケアをするんです。その過程を通過しないと、今後、結婚して家庭を持つなどの際に、きょうだいに対して後ろめたさが常に付きまとうのです。外野が「あなたはかわいそうなヤングケアラー」と吹き込んで、彼らの罪悪感から抜ける過程を邪魔しないでください。

「必要なのは気付いてくれる目と第三者の積極的な介入」

神奈川県 20代 女性 (2021年9月19日)私は幼稚園の頃に父が交通事故に遭い後遺症で働けなくなり、母もうつ病で入退院を繰り返していました。私が中学生の頃に父は亡くなって母子家庭となり、それからはうつ病の母が繰り返す自殺行為を止めるために1日中付きっきり、学校を休んで家事をしたり精神科への通院に付き添ったりしていました。もちろん自分のことは頭にありません。

そんな日常が当たり前、相談できるような大人や友人はいませんし、相談するようなことではないと考えていました。何とか高校までは卒業しましたが、それからはアルバイトをしながら家事や介護をする毎日です。
そんな生活を続けているうちにいつの間にか私自身の心と体がボロボロになっていました。その頃には成人していて、もう気にかけてくれる人も助けてくれる人もいない大人になっていました。

母が精神科へ通院していたために、たまたま役所のケースワーカーという方々に相談することができ、今はなんとか生きていられますが、それでもこの先は不安しかありません。私は小学生の頃からいわゆるヤングケアラーでしたが、あの時代そんな言葉はありませんでしたし、助けてくれる大人もいませんでした。

ヤングケアラーにとって必要なのは、気付いてくれる目と第三者の積極的な介入です。教師でも近所の人でも通りすがりの他人でも誰でもいいのです。どうか助けてください。見て声をかけて話を聞いて気付いて下さい。子どもを守るのは大人ではなく、社会全体であるべきです。私のように成人してから知っても、もう何もかもが遅すぎます。失ったものは取り戻せませんし、補填もできません。これ以上、弱く小さい者から未来と希望を奪わないでほしいと強く望みます。

(家族の介護のために犠牲にしたこと、人生への影響は)
小学生の3年弱、中学生で1年、学校を休んで母の介護をしていたために希望する高校へは出席日数が足らず、自宅からバスと電車を乗り継いで1時間かかる県立全日制単位制の高校へ通っていました。毎朝5時前に起きて支度をして登校し、放課後は食事の買い物や母を見守るために授業が終わるとすぐに帰っていました。
家では勉強をする時間がないので授業中に覚えて、休み時間を使って復習や宿題を済ませていました。同級生や周りの子たちは部活動をしたり寄り道をしたり、会話の中でも家庭の差があり理解ができないこともしばしばありました。
親が家事をして、仕事をして、自分の自由に使えるお金と時間があることが当たり前の子たちをずっと別世界の住人として遠くから眺めていました。母の介護をしながらの進学は無理、もとより進学するお金もなく、かと言って母を長時間一人にするのは危険なので就職もできず、結局短時間のアルバイトをするしかありませんでした。
本当は大学に行って勉強がしたかったし、大学を卒業できていれば今よりずっと普通の人たちと同じような普通の生活ができていたのではないかと思うと、心底むなしくなります。

家族のために何かする、犠牲にするのは当たり前だと思います。ですが、それを10代の子どもや若者に求めるのは酷ではないでしょうか。初めて働いて得たお給料が家賃や光熱費の支払いでなくなってしまうむなしさや悲しさは、ほとんどの人にはわからないでしょう。介護をしていた親と同じ病気に自分自身がなり通院する未来に、希望などあるでしょうか。

ヤングケアラーでも大人になって普通の生活を得られた人もいれば、暗闇しか見えない日々を呪いながら生きている人もいます。“今”ヤングケアラーとして悩み苦しんでいる子どもたちを助けるのは私たち大人の責務です。それと同時に“今まで”ヤングケアラーとして生きるしかなかった人々を見つけて支援するのもまた、社会全体の責務ではないかと思います。

「子どものうちは自分の環境が特殊だとわからない」

東京都 40代 女性 (2021年9月17日)小3の頃には父が寝たきり、母が仕事に介護に育児となってしまうので、家事や介助をしていました。つらかったのは思春期の頃。高校の友人は私が父を連れて散歩したりしているのを見ていないので嘘だと思っていたこと。学校へ行く前に父がベッドから落ちて(本人は動けるつもりなので仕方ない)怪我したから救急車を呼んで母に連絡したりで部活に遅刻したりしたので怒られる。正直自分に非がないと思っていることで人に嫌がられてしまう生活をすること。夜、父のうなり声で何度も起こされること。父の状況を見たら結婚はないだろうと将来を諦めること。大学費用が家にないこと…未来がないまま生きているけど自分の人生が他人よりキツめなことを子どもの頃わからなかった。だから愚痴も言わなかったし、ストレスに気付かず何度か自殺未遂をしてしまったけど、意識が戻った時に苦労している母に気づかれてはいけないと罪悪感に襲われる。母に面倒かけてはいけないと常に優等生していたのも、もしかして疲れたのかもしれない。

(家族の介護のために犠牲にしたこと、人生への影響は)
学歴、収入でしょうか。大学行きたくて(収入の多い仕事に就けば生活が助かるので)勉強もそれなりに真面目にやっていましたが、親が奨学金は借金だからと許してくれなかった。こんな時代に就職してずっと借金返せる保証はないということで…国立がもう少し安ければな…と思っていました。高卒で収入少なく、親の介護ある生活は精神的に本当にキツイです。

最近ヤングケアラーの対応が考えられていることを大変うれしく思っています。子どものうちは自分の環境が特殊だとわかりません。理解者や吐き出させてくれる人がいたら違うのかもなと大人になってから思いました。私は幸いにも10代の終わりに同級生のヤングケアラーに出会い、吐き出せる相手ができた、同じような考えに至ってしまう(病気は仕方ないってわかってるけど…でも親の面倒をみるのがつらい。早く死んでほしいとか…)ことを口に出しても責められないのは安心したものです。価値観が周りの人よりドライです。それに心が痛む。心が疲弊するので…誰かが気づけるなら今、大変な思いをしている子を助けてあげてほしいです。付け足しですが、理想は…将来仕事につけるような制度があると安心だと思います。

「孤独感を上手に補ってくれる制度があれば」

埼玉県 40代 女性 (2021年9月15日)中学1年で長い闘病の末、父が他界、その後すぐに母が入院し、大人のいない家で兄妹3人で生活していた。自営業の手伝いに家事、母の病院へのお見舞いといろいろやっていた中高時代、今の言葉を借りれば自分もヤングケアラーだったと思う。
でも、家族の在り方はそれぞれだし、学校や行政が入れないいろいろな事情もあると思う、何より自分は施設等に預けられずに家族で過ごせたことが今では一番よかったと思う。
自分の場合は「かわいそうな子」と言う目で見られたくなかったので、当時は自分の状況を友達や先生に話すことはほとんどありませんでした。
しかし、昭和の時代なのでご近所の方が「いつも偉いわね」とか「よくお手伝いしているわね」と声をかけてくれた時に救われた様な気持ちがしました。若いうちに色々経験できたので今となっては、経験値や生活力は人よりあると思います。

子どものうちに誰かのケアをしないといけないのは、できることや経験値が少ない中で非常に大変なことで、多感な時期に孤独感を感じやすいと思います。それを上手に補ってくれる制度があればいいと思います。
例えば、親の収入とか関係なく希望する子どもは夜も給食が食べられるとか。地域の飲食店で使える、児童・学生パスみたいなものを発行すれば、地域の人にも子どもを見守る機会が与えられていいと思います。そうすることでシングルの親の負担もだいぶ軽くなると思います。
また、それぞれいろいろな事情がある中で、全て「ヤングケアラー」という言葉でくくるのもよくないし、「ヤングケアラー」=「大変でかわいそう」と言う先入観を植え付けないでほしい。兄弟に重度の障がいがある場合、かわいがってくれた祖父母が年老いた場合のケアなどは、家族と過ごす掛けがえのない時間であったりして、感じ方は人それぞれだと思うので。

「助ける活動が活発になっていけば」

埼玉県 50代 女性 (2021年9月14日)50半ばで介護しています。実の母が壊れていくのは本当につらい。怒りも悲しみも襲ってきて苦しい。怒ってしまうこともあり罪悪感との闘いです。これと同じことを子どもがだなんて…胸がつぶれそうです。親を頼っていなくちゃいけない時期なのに…。

(家族の介護のために犠牲にしたこと、人生への影響は)
犠牲…そんな大袈裟なものはないけれど…。たまには寝坊したり、ゆっくり朝食をとったりそんな些細な自分の時間がほしい。誰かの苦しみを聞いたり寄り添えるようになったと思う。「経験」として人生の栄養になるとは思う。

ヤングケアラー知りませんでした。でも考えてみるとあり得る。助ける活動が活発になっていくといいと思う。

「人生に影響与え続ける根深い問題」

神奈川県 40代 女性 (2021年9月13日)父はアルコール依存症でDV、母は病弱で神経症。2人の喧嘩は絶えず、それも怒鳴り合いと暴力、狂言自殺が頻発する状況でした。私は幼いときから2人の仲介役を担い、身体が弱く精神不安定な母親の「母親代わり」をしてきました。兄は自分の殻に閉じこもる性格で、両親の大喧嘩や仲裁には没交渉。「家庭の崩壊を防ぐのは自分しかいない」と思い、必死になって支えてきました。常に大人のように考えて振る舞う癖がつき、子どもらしい思いをした記憶はありません。

日常的な激しい喧嘩は、私の精神育成に何らかの影を落としたと思います。家事は女の私が当たり前のように担当し、勉強をするための時間も部屋もまともに与えられていませんでした。兄は家事免除、家庭教師や予備校通いのための教育費が出してもらえ、大学進学と同時に実家を出て下宿暮らしを始め、その後の就職を経て自立しました。一方、私は実家から通える範囲でしか大学に行かせてもらえず、実家の特に母の世話に縛られたままとなりました。今は実家からは物理的には離れていますが、母は今でも私に何かと甘えてくるため、精神的にはなおも縛られたままです。

ヤングケアラーや機能不全家族、アダルトチルドレンなどといった家庭内の隠れた問題が、近年になりようやく認知されるようになってきました。当事者にとっては後々の長い人生にわたり深刻な影響を与え続ける、根深い問題だと思います。その一方で、そのような子ども時代の問題を自分の現状の言い訳にしたくないという思いもあります。これらの問題から完全に解放され、自分自身の人生を切り開いていくにはどうすればいいのか分からず、成人して20年以上経った今でもまだ悩み続けています。

「クローズアップしないでほしい」

大阪府 30代 男性 (2021年9月3日) かれこれ25年近く、障害を持つ親族を中心に生活をしています。その上で、声をかけられても当事者になれないので、変に構わないでほしいと思いました。仕方ないと思ってヤングケアラーとして過ごしてきましたが、社会構造や笑いの文化など根本的に変えないといけないことが多過ぎるので下手に触らないでほしいとすら思っています。

(家族の介護のために犠牲にしたこと、人生への影響は)
ありますよ。あるけど、それは犠牲にしたことなんて言えないですよね。普通に。あなたが生きてるだけで、これこれを犠牲にしましたなんて言えるわけなくないですか?僕も産まれてオシメをかえてもらいここまで来ました。母に犠牲にした時間があると言われたらどう思いますか?

結局そういうことなんです。クローズアップしないでほしい。そういう機会がある人はそういう生き方になるし、然るべき社会福祉を使ってしんどくならないように皆で生きていきましょう、でよくないですかね。

「悪い大人が性の搾取することも」

東京都 30代 女性 (2021年9月3日)私が幼い頃から母親は精神病を患い、外では両親揃った普通の家庭のため、行動や外見も変わらず学校や地域にも気づかれず、また他人に相談していいのかも分からなかった。両親はそれが原因で喧嘩も絶えなかった。小学4年生の時には母が自殺未遂をし、精神病棟に入院。その後も精神安定剤を飲む日々で、私が15歳の時に亡くなった。当時高校1年生だった私は中学校3年生だった弟と小学校4年生だった妹がいた。母が亡くなったことで初めて世間からかわいそうな父子家庭の子と認められたが、父親とは長子である私に対して家事の分担で叱ることばかりで、思春期でもあり本当にうまくいかなかった。家に帰りたく無い日々が続き、家出もした。同級生は話が合わず、理解してくれた大人に悩みを打ち明けたが、結局性の搾取に遭った。誰も信用できなかった。

将来にハンデを負いたくなかったので、部活動をしたりできる限り勉強をした。しかし、家に帰ってくるのが遅かったり、夜遅くまで起きて机に向かっていることにも腹を立てた父親に理不尽に怒鳴られて、そこから学習意欲がそがれた。どこにも居場所はないという孤独感しかなかった。15歳の時に性交渉を経験したことにより、男性恐怖症というよりむしろ性依存症になった。まるでリストカットをするかのように、自分を傷つけることで助けを求めていたのかもしれない。

ヤングケアラーという言葉は当時なかったので、このつらさが世間に知れ渡り、助けを言い出せる、また適切な相談相手を見つけられる環境になってほしい。家庭環境が把握できたらスクールカウンセラーと必ず面談をさせるなど、毎日通う学校に居場所を作ってあげてほしい。特に若い女子のヤングケアラーには、悪い大人が性の搾取をすることがある。その事実も伝わってほしい。

「スクールソーシャルワーカーであれば」

群馬県 60代 女性(2021年8月30日)「スクールカウンセラー」ではなく「スクールソーシャルワーカー(SSW)」であれば、家庭にも踏み込む役目があり社会資源とつなげてくれたと思います。しかし、人員不足(給料が安い、教育委員会のお考え等の理由)で1校にひとりのSSWがいない地域も多く、丁寧な関わりは無理みたいです。ヤングケアラーは介護率が高いですが、フードバンクなどで出会った方は、育児(ミルク飲ませて学校も行けなかった)でした。担任の先生や近隣に気づいてほしいですね。孤立していることが多いですから。

「かわいそうと決めつけないで」

神奈川県 30代 女性(2021年8月25日)オリンピックが終了し、パラリンピックが始まりました。アスリートたち本人たちはもちろんのこと、代表に選ばれるべく選手たちを支えて協力してきた家族も大変に尊敬に値します。特にパラリンピックの選手たちの家族は、大変な犠牲を払ってきました。時間も体力も労力も、選手のために多大に費やしました。障害を持つ家族のために協力することが「ヤングケアラー、かわいそう」と決めつけるのもいかがなものか。客観的には大変でも、それが不幸、苦痛とは限らないのです。家族にとっては、パラリンピックに出場するべく支えたことが、大きな誇りなのです。どうか、障害持つ家族のために協力することが、「ヤングケアラー、かわいそうな犠牲者」と決めつけないで。家族のケアについて何を思うかは、千差万別なのです。

「この生活が普通だと思っていた」

宮城県 20代 女性(2021年8月15日)うちの家庭は両親と私の3人家族でした。わたしが中学生のとき、母親は精神病で入退院を繰り返し、父親は脳出血で倒れました。同時期に両親が入院した為、父親の知人の家にお世話になりました。父親が右半身麻痺で退院し、母親が退院してからの生活は激変。買い物は、わたしが自転車で行くか、車椅子を押してタクシーで行くか。母親は精神状態にバラつきがあり、大暴れする日も少なくありませんでした。幸い父親はデイサービスなどを利用していたことと父親の気遣いのおかげで、生活面でわたしの負担は少なかったように思います。高校2年のとき父親が亡くなってから母親がまた入院し、実家で一人暮らし。わけもわからず母親の手続きで市役所に通ったり、母親のお見舞いで病院に通ったり、まわりの友達とは違う経験をしたと思っています。中学生のとき、初めて親のトイレの面倒をみたときの精神的ショックは忘れられません。

(家族の介護のために犠牲にしたこと、人生への影響は)
中学のときに両親が働けなくなったので、高校は夜間高校に進み、日中と土日はバイトに明け暮れました。掛け持ちもしました。お客さんで来る同年代や友達に対して羨ましい気持ちや妬みを持ったこともありました。でもそのときの経験のおかげで、大人びている、落ち着いているとか言ってもらえることが多いと思っています。でもどこかで普通の高校生活をしたかったな、という気持ちもあります。
最近よくヤングケアラーという言葉を聞くようになり、自分を振り返るようになりました。わたしはこの生活が普通だと思っていましたが、他の人に話すと「大変だったね」など言われて普通じゃないことだと改めて思います。わたしにも何かできることがないか、と思っていますが今はわかりません。まずは知ってもらうことかと思い投稿しました。

「苦しんでいるマイノリティーに光が当たるように」

東京都 30代 女性(2021年8月11日)私の家はいくつもの問題が重なりあった家だった。兄は重度の知的障害。父はアルコール依存症。週に1度しか帰ってこない父と、兄のケアや妹の私の育児を慣れない土地で周りに相談することが苦手な母は、すべて引き受けてこなしていた。私は小さな頃からお母さんの苦しそうな辛そうな姿を見て育ってきた。誰にも助けを求めずに孤立した子育てを送っていた母は、時に兄や私に暴力をふるった。私は母の顔色をいつも見ていた。兄はその頃、パニックになると私をつねったりたたいたりした。小さな頃から兄は他害行為があったのだ。そんな日常の中で私は自分の感情をどう扱っていいか幼い時から見失っていった。母が1度失踪したり、父の愛人と兄と暮らした時期があったり、自分の住む場所や家族も変わりながら、それでもどんな時でも1番にまなざしが向けられるのは兄で、私はそんな兄が大好きなのに大嫌いになっていった。母は父と別居し、私と兄と3人で暮らした。母は夜の仕事をしながら私達を育ててくれた。夜の時間を兄と2人きりで過ごすのは寂しかったし心細かった。学校ではうちの中の話は絶対にできなかった。普通とは違うことがたくさんあった。小さい時、私は兄のことが恥ずかしかったし、普通とは違う家が恥ずかしかった。バレたらいじめられると思った。当時テレビでは、障害者には優しくしましょうとか善意とか募金活動とか、そんな部分しか映されない。本当のリアルは家族で買い物に行けば、白い目で見られたり注目されたり、避けて歩かれたりしたことが何度もある。私はそのたびに傷ついたし、悲しかった。障害は兄の身体の中だけじゃなくて、社会の至る所にあった。テレビの世界と現実のギャップがますます私を孤独にさせた。家族はみんな障害を持つ家族を支えているわけでもない。

(家族の介護のために犠牲にしたこと、人生への影響は)
私は結局、小さな頃から今でさえも兄の影響がなによりも大きいとおもう。影響は計り知れない。私の家族はまず、立派な依存症家庭だ。依存症家庭の中に兄がいて私がいた。兄は重度知的障害だけでも大変なのに、依存症家庭特有のネグレクトや暴力がありながら生きてきた。私は大人になってから薬物依存症になり、その後治療につながり今はやめて11年になった。兄は去年、障害者施設に入所中、癌で亡くなった。38歳だった。知的で気持ちを上手く言葉で表せないというだけで、兄は癌を最後の最後まで見つけてもらえなかった。緊急入院してから6日目に亡くなった。知的障害で癌を患うということは、難しい検査もできず、医師や看護師とのやり取りもままならないということ。どんな風に痛いか?どうしたら楽か?きちんと分かってあげられなかったかと思う。兄の周りには最後の最後までたくさんの障害があった。胃カメラができなかった兄は結局なんの癌だったのか、レントゲンと血液検査の推測でしかないのだ。そして夜間はベットに拘束されたりもした。ベットから離れてしまったり、なにかあるかもしれないからだ。私はこれが1番傷ついた。兄はどこまでも、知的、他害ありの障害者としてまわりから接された。人権って言葉が薄っぺらく聞こえてしまうことが小さな頃からよくあった。物事の裏側を垣間見ることがよくあったので、人を信じることが難しくなっていった。犠牲にしたことは、子どもらしく成長することや、自分を優先できる力、親からの愛情がどうしても兄に流れてしまいがちだったこと、家族団欒の時間、外出しても兄がパニックになって台なしになることもあったり、いい子でいることが必要だったので、無邪気さは封印されていたこと。

日本で少しでも早く、ヤングケアラーの方に支援の手が届きますように。支援の幅がもっと広がってほしいです。それだけじゃなく、障害者やそのまわりの背景も、もっといろんなパターンがあることを知ってほしい。きれいな扱いやすいものだけではなく、苦しんでいるマイノリティの人たちにも光が当たりますように。正しい情報が伝わりますように。

「ピアサポート広がってほしい」

岡山県 20代 女性(2021年7月31日)18歳下の弟の世話を日常的に行っている大学3年生です。母には鬱病傾向があります。もう私はヤングケアラーという定義には当てはまりません。毎日朝の5時半に弟が起きるため、弁当作りや家事を行う母に代わって朝から外に出て遊びます。福祉系専門職大学に通っていますが、弟の保育所の送迎や入浴、着替え、おむつ交換などを帰宅後に任されるため、勉強ができません。徐々に成績が落ち始めて、毎日寝不足で死にたいです。子供包括支援センターに相談しましたが、姉という立場なので、保護者ではない。お母さんと話をしないと進まないと言われました。ピアサポートが広がってほしいと切に願います。

(家族の介護のために犠牲にしたこと、人生への影響は)
時間を犠牲にしました。自分の時間が持てず、なりたかった職業に就けないのではないかと不安です。

「子どもたちを最優先に考えないのはなぜ」

東京都 40代 女性(2021年7月31日)ヤングケアラーがどこの誰かとわかっているのに(取材も放送もしているのに)。中学校にいるということは当事者をわかっているのに、なぜNHKもまわりも何も助けないのですか?なぜわかっているのに助ける仕組みになってないのですか?お金と仕組みで簡単に解決できるのに、なぜ解決してないのですか?子どもは国の宝。子どもたちを最優先に考えないのはなぜなんですか?

「土台づくりを助けてあげて」

愛知県 40代 女性(2021年7月31日)母は私が幼少期発病し、60歳で他界するまで当時精神分裂病(統合失調症)でくるしんでおりました。父は仕事のため日中学校から帰宅すると母が服毒していたというのも何度かありました。家事もできなく、家の中は荒れ放題でした。洗濯物や洗い物ご飯づくりなど小さい頃からやり、毎日薬をちゃんと飲んでいるのか。救急車が通るたび母ではないか?と、不安になり、そのため中学生になると母の死の恐怖で学校に行くのがこわくなりました。日々母との生活、母も私に依存していました。仕方がないことですが。とても、つらかったです。

(家族の介護のために犠牲にしたこと、人生への影響は)
学力、学歴、知識、交友関係
大好きな母のためなのでそれでよかったとは思いますし、母を最後まで看取れたことには後悔はありません。ただ、友達のお母さんのような母だったら私はどんな人生を送っていたんだろう。と思います。いま、ヤングケアラーの子たちに国がもっと支援をしてあげ、ヤングケアラーの子たちのケアも、しっかりとやってあげてほしいと思います。人生一度しかありません。気持ちを犠牲にしても親が喜んでくれる姿は子どもとして幸せなことはありません。だけど、それは子どもなので自分で先のことを考えて生活する知恵もまだ無いと思います。大人になり自分が社会に出た時に苦労や苦しみを感じない環境になるように、土台作りを助けてあげてほしいです。

「ヤングケアラーの言葉だけが一人歩きしている気が」

宮城県 40代 女性(2021年7月23日)3人の子どもの母です。兄弟の中に1人知的障害の子がいます。そのため、他の2人はいわゆる“きょうだい児“と呼ばれる子どもです。2人は障害の特徴を少しずつ理解しています。障害の子とはいえ兄弟として互いに理解したりケンカしたりしながら共に生活している、どこの家庭でもある当たり前の家族です。そんな家族として当たり前の過ごし方も、ヤングケアラーという言葉が扱われ始め、その言葉だけが一人歩きしているような気がして、心が締め付けられることがあります。他の2人は私の知らないうちにヤングケアラーと呼ばれてしまっているのだろうか?と考えることもあります。障害を持つ子どもを産んだことで悩んでいたこともありましたが、今は障害の子のお陰で、私達夫婦も子どもたちも、他では得られない経験が出来ていると感じています。どうか、ヤングケアラーとはどのような場合に当てはまるのかを詳しく報道してほしいです。ヤングケアラーという単語の為に、きょうだい児が全てヤングケアラーだと捉えられないよう、見ている人の理解が進む報道をお願いします。

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