【キャスター津田より】9月23日放送「岩手県 陸前高田市」

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 今回は岩手県陸前高田(りくぜんたかた)市です。人口が17000あまりで、震災前から約4分の1減りました。震災では最大17mの津波が押し寄せ、約1800人が犠牲になり、4000棟余の家屋が全半壊しました。人口の多い中心部ほど猛烈な津波が押し寄せ、仮設住宅の解消には10年かかっています。
2017年に災害公営住宅(895戸)が全て完成し、去年、道路や橋など、公共インフラの復旧も全て完了しました。市中心部の高田(たかた)と今泉(いまいずみ)の両地区では、周囲の山を切り崩し、総延長約3㎞の巨大ベルトコンベヤーをつくって土砂を運び、100ha以上の面積を最大12mかさ上げしました。切り崩した山は高台の住宅地として整備し、県立高田病院も高台に新築されました。かさ上げ地には宅地や商業地を造成し、高田地区には大型商業施設の『アバッセ』、市立図書館、市民体育館、市民文化会館、国内最大級のツチクジラのはく製などを展示する市立博物館も整備されました。
また、『奇跡の一本松』がある海沿いには、高田松原運動公園や、道の駅『高田松原(たかたまつばら)』、東日本大震災津波伝承館『いわてメモリアル』が新たに誕生し、観光客や見学者が絶えず訪れています。国の名勝だった高田松原は約7万本の松林と砂浜の9割を失いましたが、砂浜の再生が終わって海水浴場もオープンしました。県やNPOによる4万本の松の植樹もが完了しています。さらに市内には、商業施設『発酵の里』や観光農園、国内では珍しいピーカンナッツの苗木育成施設などもできました。

はじめに、8年前に取材した、民宿を経営する菅原(すがわら)ひとみさん(46)を再び訪ねました。民宿は津波で流され、移転して再建しました。震災時は夫婦で仙台に暮らしていましたが、再建を機に夫の実家である民宿を2人で継ぎました。その翌年に取材した際は、夫とともにこう言っていました。

「いま復興需要はありますが、あと3~4年後にどうなるかが全く見えていないので、観光などがないと厳しいと感じます。今はお客さんが見て回れる所や紹介できる所がほとんどないので…」

あれから8年…。女将の仕事も板に付いた菅原さんは、こう言いました。

「博物館ができたり、当時に比べると、見て回る所も紹介できる所も増えたので、よかったです。自分が疲れずに、自分が楽しんで、自然に楽しんでいたら賑わいができていた、楽しくて参加していたら、実は賑わいをつくるメンバーの1人になっていたというのが一番理想ですね」

菅原さんは今、ブラジル発祥の『フレスコボール』(=2人が木のラケットでボールを打ち合い、ラリーを長く続けたペアが勝つ)に熱中し、クラブをつくって代表を務めています。東北唯一のクラブで、陸前高田市で全国大会も開催するなど、“楽しみの延長上にある賑わいづくり”を実践しています。

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次に、中心街にある『まちなか未来商店街』に行きました。震災後に店を始めた人が集まる商店街で、市内唯一のショットバーもあります。店主の菅原優基(すがわら・ゆうき)さん(38)は生まれも育ちも陸前高田市で、津波で父を亡くし、自宅も失いました。6年前、高台に家を新築したそうです。

「いろんな人に好かれている父がすごく好きでしたね。父が番組を録画したビデオテープに、知らないで上から録画したら、父にガチギレされたことあって(笑)…お父さん、今だったら何見んのかな。店を4年間やってみて、“この店が好きだ”“なくなったら困る”と言う方たちが少なからずいるので、やっぱり陸前高田でやっていきたいなって思いました。夜でも街に人がいるのは経済的にも回っている証拠だと思うので、その賑わいを、かつてのような賑わいを取り戻せたらと思っています。おじいちゃんになるまで続けていきたいですね」

総事業費が1000億円を超えるかさ上げ事業でしたが、中心部の土地利用率は5割に届くかどうかです。工事が長期化する間に住民は高台や市外に移り、結果的に商圏が縮小して、以前と同じ場所での店舗再開を断念した事業者も相当数います。市は、土地を仲介する『土地利活用促進バンク』を設立したり、専門の『土地活用推進課』を新設したりと対策に本腰を入れていますが、12年たって住宅や店舗の再建がほとんど終わった今、新たな土地需要がどこまであるのか、懐疑的な声も根強くあります。

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そして、廃校になった横田(よこた)小学校の敷地内にある、建設会社を訪ねました。津波で流され、 2年前に移転して再建した会社です。駐車場には、ラトビアの芸術家が制作した現代アートで、スーツ姿で寝そべる10mの男性の像があります。社長の長谷川順一(はせがわ・じゅんいち)さん(43)は、埼玉県の芸術祭でこの作品に出会い、“アートの町・陸前高田”の象徴にしようと搬入しました。今月は、4人の海外アーティストを招へいして作品制作を行っており、アートでの町おこしに力を入れています。

 「震災直後、“いま町はどういう状況?”って聞かれた長女が、“ゴミ(=がれき)”って言ってね。ゴミが多いっていう表現が出てくる姿を見た時に、将来もそう思いながら育っていくのかなと思うと、もっと前向きな、何か別の変化を与えてあげたいなって思いましたね。故郷をつくり続けていきたいとずっと感じていて、自分なりのやり方で、迷いながら、楽しみながらやっています」

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さらに、小友(おとも)地区の港では、カキ養殖業の千田勝治(ちだ・かつじ)さん(75)から話を聞きました。市内の殻付きカキの水揚げ量は、津波の打撃を乗り越え、震災前を上回っています。千田さんは津波で自宅や船、養殖設備を全て失い、被害額は5億円に上りましたが、息子とともに養殖を再開し、通年出荷も可能にしました。東京の料亭などで食べると、Lサイズ1個で3000円もするそうです。 

「津波の後、残ったのは自分が着ていたジャージだけです。これからどうしようという思いもあって、 初めて眠れない病気にかかりました。やっぱり疲労が極度だったんですね。小学校の頃、小さい船で沖に行って、夕方、はえなわ漁をやって、そのまま船で泊まって朝早く網を巻き上げるんですが、下からキラキラと光ってくるんです。海水のプランクトンが刺激されて光るんです。そういうのを小さい頃から見て、とにかく私、本当に海は好きなんですよ。悲壮感から満足…ですかね。全部なくなったところから今の水揚げになったので、満足な気持ちでいっぱいです」

その後、高台に移転した高田高校に行き、3年生の小野寺麻緒(おのでら・まお)さん(18)に会いました。企業と協力して非常持ち出し用のリュックを作った生徒で、避難時に必要な物を自ら考えてリュックに入れ、防災意識を高めてもらいます。5歳の時に被災し、自宅は流され、避難所生活を経験しました。麻緒さんが中学1年生の時、父親は緊急時に自分がいないことも想定し、娘に市の“防災マイスター養成講座”の受講を勧めました。結果、麻緒さんは、史上最年少で防災マイスターになりました。

「食べ物もない、飲み物もない、大変な状況を避難所で過ごしたので、これ以上、小さい子たちが大変な思いをしないように、防災リュックを作ろうと思いました。家で両親に“きょう防災授業でリュックをもらった”って話して、どんどん広がっていったら、防災について楽しく知ることができると思います。大学では災害に強い町づくりを勉強して、卒業してもこっちに戻って活動を続けたいです」

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最後に、中心部のかさ上げ地に戻り、津波で自宅を流され、同じ地区に再建した家を訪ねました。高橋未宇(たかはし・みう)さん(23)は小さい頃から車いすの生活で、去年、市は高橋さんの個別避難計画を策定しました。最新の津波浸水想定では、高橋さんの家は数m浸水する見込みです。市民2人を避難時の支援者に指定し、避難場所や避難ルートを決め、訓練をこれまで2回行なってきました。

「災害発生時にどう行動すればいいか分かれば、怖いというハードルが少しずつ下ると思うんです。一方で、高台にいる知り合いに“助けて”となると、高台にいる人が浸水域に入るリスクになるわけですね。自分を助けようとして、他の人が亡くなることだけは絶対避けたい…だからこそ訓練のたびに支援者の2人には、“手を挙げてくださった気持ちで十分です。もし助けに来るのが難しい時は、自分の命を優先してください”って言っているんです。国任せではなく、国レベルでも、一人一人でもみんなで一緒に考えて、真に災害に強い町づくりをして、災害後も全員で笑い合えればいいと思っています」

岩手県は去年、国が示した日本海溝地震、千島海溝地震の想定に、県内で過去発生した最大級の津波も加えて、新たな津波の浸水被害想定を算出しました。防潮堤の破壊など最悪の条件で想定すると、沿岸の各自治体では、震災後にかさ上げした地域に津波が押し寄せたり、緊急避難場所なども浸水し、多くの犠牲者が出る想定になりました。国は、おととしの災害対策基本法の改正で、1人で逃げることが難しい人の個別避難計画の作成を市町村の努力義務としました。ただ、予報により避難前に時間的余裕がある台風などと比べ、津波は避難の時間がかなり限られます。支援者のリスクや負担が大きすぎ、支援者のなり手がなかなか見つからないのが課題です。