【キャスター津田より】6月17日放送「宮城県 石巻市」

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 今回は、宮城県石巻(いしのまき)市です。人口13万余りで、震災では、全ての被災地の中で最多となる3900人以上が犠牲になりました(※関連死を含む)。全半壊した建物も、33000棟余りに上ります。2015年に石巻魚市場が再建され、2017年には観光施設の『いしのまき元気いちば』が開業して、今も賑わっています。震災から7年後の2018年、46地区65団地で実施してきた集団移転事業の工事が全て終わり、翌年に4400戸以上の災害公営住宅(※県内最多)が全て完成しました。さらにその次の年、被災3県で最多となる7100戸あまりが整備されたプレハブ仮設住宅も解消されました。去年は北上川河口に『かわみなと大橋』という新たな橋もかかり、現段階で復興事業はほぼ終わっています。また去年から、津波と火災の跡をそのまま残す、震災遺構『旧門脇小学校』の公開も始まっています。

 はじめに、震災直後に取材した人に会うため、市役所を訪ねました。建設部で働く小山恭平(おやま・きょうへい)さん(31)とは、震災から9日後、約300人が避難していた北上(きたかみ)地区の橋浦(はしうら)小学校(※10年前に廃校)で会いました。当時は卒業して間もない高校3年生で、両親は職場から自宅に戻ることができず、小山さんは一人で避難していました。当時はこう言いました。

「なるべく早く、みんなで協力して、前の普通の生活を早くしたいです。最初は助け合ってきたんですけど、日が経つにつれて焦りとかがだんだん見えてきて、生活していて苦しいなって場面もあります」

 この取材の2か月後、小山さんは県外の大学に進学しました。卒業後、Uターンして市の職員になり、かさ上げ工事や防潮堤整備に携わりました。6年前に中学の同級生と結婚し、今年、長女も生まれました。

「震災から少し経って地元に戻った時、“もう何も無くなったな”というのが正直な気持ちでしたね。一変してしまった地元を見て、当時から“地元のために何かしたい”という思いがありました。子どもはものすごく可愛いです。仕事を早く終わらせて、帰って遊びたいって思います。12年前は“普通の生活をしたい”って言いましたが、今度は“家族で楽しく、普通の生活を送りたい”という思いです」

石巻市の沿岸には、小山さんの地元・北上地区に加え、雄勝(おがつ)地区、牡鹿(おしか)地区という、平成の大合併までは別の町だった地区があります。甚大な津波被害を受けましたが、いずれも市役所から車で小一時間もかかる遠隔地で、資材や人を運ぶにも時間がかかり、復興事業は遅れました。そのため宅地整備を待ちきれずに、高台移転を断念して市中心部に移る人も多く、特に、震災前から市中心部に通勤していた若い世代は、職場が近く、生活関連の施設も揃う中心部に定住しました。今や半島部の高齢化は著しく、震災前に比べて人口は4割、5割、所によっては7割以上減っています。

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北上地区の避難所だった旧橋浦小学校に行ってみると、隣に大きな建物がありました。建具専門の木工所で、建具職人の那須野明(なすの・あきら)さん(68)は、川辺にあった自宅と作業場を遡上(そじょう)してきた津波に流され、震災の翌月、今の建物を譲り受けて仕事を再開したそうです。補助金や同業者の支援で機械を増やし、7年前には仮設住宅を出て北上地区に居を構え、妻と暮らしています。

「何も無いんだ…建物も何も無くなった所で、基礎の上を歩いていた時に、何か涙ぐんでしまってね。そうしたら、不思議と後押しされたみたいに、“頑張れよ”って言われているような感じがして、“俺はこうしていられないんだ”という気持ちになったの。気づいたら、そこがちょうど、流された家の仏壇の前だったんだ。それで、何であれどうであれ、“やらなきゃならないんだ”って、始まったんだ。今は自分たちが何をしたいかよりも、孫たちが何事もなく育っていくのが願いだね」

 その後、市中心部の南浜(みなみはま)地区と門脇(かどのわき)地区に行きました。両地区には震災前、約1800世帯が暮らしていましたが、津波と火災で大半の家が全壊しました。門脇地区で残ったのは大きな被害を免れた7軒のみで、うち1軒は、娘と2人で暮らす遠藤佳子(えんどう・よしこ)さん(69)の家です。1階が浸水し、しばらく2階で暮らした後、家を大規模修繕して住んでいます。現在、門脇地区にはマンション型の災害公営住宅4棟と、250戸分の宅地が整備され、500人以上が暮らしています。しかし、高齢の単身世帯や夫婦2人の世帯も多く、最初に残った7軒の住民が中心となって、地域づくりに取り組んでいます。公営住宅の高齢者が買い物難民にならないよう、町内会長は私財を投じて地区唯一の食料品店を開き、遠藤さんも高齢者の体力維持のため、体操教室を開いています。他にも、陶芸教室やマージャン同好会、夏祭り、流しそうめん、餅つきなども行っています。公営住宅の完成後は子どもも増え、育成会を立ち上げて野菜作りなども始めました。

「残った人たちは、またみんなに戻ってきて欲しかったので、ボランティアがいろいろ行事をしてくれると、元住民に連絡して誘ったり…。体操教室も、万が一また津波が来ても手助けする人がいないので、何とか自分の足で、山ぎわまででいいから歩けるようにと始めたんです。“楽しみなの”と言われると、やらざるを得ないですね。今は子どもたちにも楽しく過ごしてほしいと思っています。“あそこに住んでいる時は楽しかったよ”とか、“自分もここで子育てしたい”って思ってくれればね」

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また、近くの災害公営住宅では、理容師の阿部春男(あべ・はるお)さん(76)と出会いました。妻と娘、孫2人と暮らしながら、介護施設などで出張理容を行っています。門脇地区で42年も営んだ店は津波で流され、隣町に住む息子の家に移りました。震災からひと月半後、知り合いの理容店を間借りして営業を再開すると、新聞広告を見た常連客が押し寄せたそうです。6年前に災害公営住宅に入居して、運転免許のない高齢住民のため、買い物や通院の送迎サービスを行う活動にも従事しています。

「津波で皆いなくなった…どこへ行ったかも分からないし、電話番号を書いていた紙も全部流されたから。再開した時は、よく忘れないで俺の所に来てくれるなって…。“今どこにいるの?”って情報交換しながら、最高のお客さんだと思いました。昨日のことは忘れて、今日と明日のことだけ考えて…震災のことも忘れたらいい。何があっても笑っていればいい。みんなで楽しく、ゆかいにすごしましょう」

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月命日の6月11日、湊(みなと)地区に行くと、読経しながら歩く僧侶を見かけました。北上川沿いのこの地区では、425人が犠牲になっています。27人が亡くなった病院の跡地では立ち止まって読経し、お経が終わったところで恐縮しつつ声をかけると、震災翌年から11年間、毎月欠かさず歩いているそうです。7~8㎞を2時間かけて歩き、のべ130回以上は慰霊行脚を行ってきました。この僧侶は、地元の寺の住職、北村暁秀(きたむら・ぎょうしゅう)さん(50)です。檀家の犠牲者は133人に上り、震災直後の仮埋葬(=土葬)や遺体安置所での弔いを経験したことが、大きな転機になりました。

「一番つらかったのは、お子さんを亡くしたご遺族…せめて安らかに眠れるように、お経を上げるしかないし、“何とか葬儀をして送ってあげたい”という遺族の強い気持ちですよ、あの時ほど感じたことはなかったですね。改めて、送るのは我々にしかできないことなんだと思い知らされて、立派なことはできないけれど、何とか月1回だったらやれるかな、と始まったんです。行脚を通じて地区の皆さんに、亡くなった人が少しでも供養されているんだと伝わる、そうすれば、亡くなった方も安らかなんだなと、ちょっとでも思ってもらえるし、住む人たちも安らぐ部分があるんじゃないですか。亡くなった方の分まで、私たちが生きなきゃいけないのは使命。私の使命は慰霊行脚を続けることだと思っています」

また、4年前に建てられた門脇地区の慰霊碑の前では、西城江津子(さいじょう・えつこ)さんにも出会いました。慰霊碑には、4歳から6歳の幼稚園児5人の名前が刻まれていて、西城さんの次女・春音(はるね)さん(当時6)の名前もあります。地震後、園の判断で送迎バスに乗せられ、走行中に津波と火災に巻き込まれました。西城さんは震災の2年後から、語り部として経験を話しているそうです。

「子どもたちが確かにここに生きて、亡くなってしまったことを伝えるために慰霊碑を建てたいと思って…。私たちがいなくなった後もちゃんと伝わるように、何か残していきたいという思いでした。自分が経験したことを話せば、聞いてくれる人がいるし、その人が“これはもっと広めないとダメだ”と思ってくれたりして、つらかったり、泣いたりするけど、やっぱり頑張りたいって思います。春音が生きられなかった分、今いる子どもたちに頑張って生きてもらいたいです。決して乗り越えられる訳ではないけど、でもやっぱり、笑わないで過ごしているよりは、笑って過ごしていたほうがいい…」

西城さんには、春音さんの他に3人の子どもがいて、家族旅行には春音さんの写真も一緒に持っていくそうです。今年3月には愛知県在住の画家に依頼して、家族の肖像画を描いてもらいました。現在の家族の姿に囲まれた真ん中には、18歳の姿を想像して描かれた、春音さんの笑顔が輝いています。