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大島青松園 元患者の随筆を読む 郵便から連想する記憶

人権週間に考えるハンセン病元患者のことば
  • 2023年12月08日
大島青松園 元患者の随筆を読む 郵便から連想する記憶

高松市の大島にあるハンセン病の国立療養所・大島青松園。いまも全国のハンセン病療養所で唯一、船でしか訪れることができない場所です。2023年11月1日時点で暮らしているのは35人、平均年齢は約87歳になりました。国による誤った政策により、この小さな島に、多いときには700人以上が強制的に隔離され暮らしていました。
大島青松園で入所者の生活に密着した援助を行っている部署、「福祉室」の建物には郵便局が併設されています。ただ、かつては郵便を出すという極めて簡単なことにも、多くの苦労がありました。
島での暮らしのなかで、郵便についてつづった作品を朗読で紹介します。
※都合により一部を省略し、表記を改めています。

『開園80周年に憶う――赤いポスト――』 多田 勇

 郵便ポストといえば、昔から大体赤いものに決っているのだから、こと更、副題に赤いポストと断ることもないように思われるが、私にはこのポストが特に印象深く感じられてならない。
 昭和62年4月、千歳簡易郵便局が福祉室に統合され、機を一にして、それまで職員地区にあった赤い郵便ポストが千歳局の前へ移転されてきた。郵便物の集配は、それ以来、そのポストに限って正午に集配されるという福祉室からの臨時放送があった。たまたま私は部屋で手紙を認めている時、その放送を聴き、これはいいぞと思った反面、一瞬本当かなあという何故か我が耳を疑うかのような、不安とためらいの気持ちもあった。

 明治42年の開園以来、つい近年に至るまで、入園者が外部へ発送する諸々の郵便物は、すべて福祉室で消毒され、殺菌灯に照射されて、外部の郵便局員に渡されていた。その為、午前九時の消毒時までには、どうしても福祉室の郵便受に提出しなければならなかった。その時間帯に遅れると翌日配達になることもあり、時に急ぐ郵便物などは、外出者にそっと依頼することもしばしばであった。それも公然とではなく、そっと人目を憚かるような軽い罪悪感を感じるほどであった。

 それはいうまでもなく、らい予防法に反する行為であり、私が入園した昭和18年の戦争中は、そう簡単に見過ごされることではなかった。
 法律第二百十四号のらい予防法(新)に、次のような消毒の条項が謳われている。即ち、「入所患者が国立療養所の区域内において使用し、又は接触した物件は、消毒を経た後でなければ、当該国立療養所の区域外に出してはならない。」という条文がある。

 この条項のために、いかに多くの病友が傷つき、哀しみ、ゆえなき差別と冷遇に曝されてきたことか、それは青松園の80年の歴史が如実に物語っていると思う。その歴史をふり返ってみる時、今更のように慄然とする思いがある。
 青松園の80年の歴史の中には、人間性を回復する忘れることのできない血みどろの闘争や、悲喜こもごもの数知れない出来ごとが山積している。
 昔の医療は急患が臨時担架で行けず、医師の往診を依頼すると、座敷にゴザを敷き、土足のまま招じ入れたり、職員地帯へは一歩たりとも入れなかった。年にただ一度、桜の満開の時、旧本館前のさくら見物に、同僚と連れだって通用門をくぐった記憶がある。

 それが戦後、新薬プロミンの開発によって、内外ともに百八十度の変革がなされ、国の方針が隔離撲滅政策から、一転して開放医療へと進展を遂げ、新発患者は激減し、社会復帰者は増大した。不治の病が可治の病となり、過重を極めた消毒も次第に緩和され、その要がなくなってきた。
 たとえ時代の流れとはいえ、変れば変ったものだと思う。

 幾星霜の風雪に耐えた西海岸の老松の下で、遠く故郷を偲び、ハンセン病の重圧に哭いた、いまは亡き多くの先輩諸兄姉を憶う時、自ずとその霊に頭の下がる思いである。そして、私自身も、半世紀に近い闘病の日々を、遥けくもよくぞ生き延びてきたものと、感慨また一入である。
 80年の歴史は重く、その存在は私にとって余りにも偉大であった。

 爽やかな朝のしじまの中で、私は手紙を書き、本を読み、日にちの新聞をまさぐりながら、何の変哲もなく生活している平穏無事な今の倖せを、しみじみと噛みしめている今日この頃である。

 (『青松』1989年10・11月号より)
画像提供 国立療養所大島青松園

  • 五味哲太

    高松放送局アナウンサー

    五味哲太

    2020年から「ゆう6かがわ」のキャスターを担当

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