ハンセン病と闘った作家、島比呂志さんを知っていますか?
- 2023年06月30日
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観音寺市出身の島比呂志さんは、作家として創作活動を続ける一方で、ハンセン病をめぐって国の責任を追及した裁判で、原告団の名誉団長を務めました。島さんが亡くなって20年。出身地、観音寺市の広報で、島さんの特集記事が組まれました。
没後20年
ふるさとの作家が残したもの
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6月号の観音寺市の広報です。8ページにわたって島さんの没後20年の特集記事を掲載しています。
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島さんの詩の一節。広報には全文が掲載されています。
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島比呂志(本名、岸上薫)さんは観音寺市出身の作家で、ハンセン病をめぐって国の責任を追及した裁判で、原告団の名誉団長を務めました。
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隔離というのは隔離の中にいるときは、本当に隔離というのがどういうものかというのはあまり感じない。ところが、外に出ると、隔離というのはこんなことだったのかというような実感がわいてくることがいろいろあるわけですよね(生前の取材より)。
ハンセン病と闘いながら半世紀余りにわたって、香川県や鹿児島県の療養所で暮らし、みずからの体験を元にした詩や小説などを残しました。社会復帰したものの、ふるさとに帰ることはなく、2003年、84歳で北九州市で亡くなりました。
知らなかったことに衝撃
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市の広報の編集を担当する観音寺市役所の安藤恵子さんは、島さんの母校の卒業生で、9年前に市の職員向けの人権研修で初めて島さんのことを知り、没後20年にあわせて特集を企画しました。
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知らなかったことにショックを受けたんですけど、たぶん知らない人はいっぱいいるなと思って。学校の授業でハンセン病のことを習うと思うんですけど、観音寺の身近でいたのかというところがすごくもう本当に衝撃で、そこからやっぱり自分ごととしてどこかで感じられるようになったのかなと。
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安藤さんが島さんを知るきっかけとなった人権研修で講師を務めたのが、藤田彰一さんです。県立学校の教諭の藤田さんは、およそ20年にわたって島さんについて研究し、今回の特集にも協力しました。
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半世紀以上観音寺を離れてふるさとに帰れなかった島さんのことを、でも本当は望郷の思いが非常に強くて、ふるさとを離れているからこそ大事にしていたという島さんの思いとか、そしてハンセン病に対しての理解をもっともっと市民に知ってほしい。
かなわなかった帰郷
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ふるさとへ戻りたいと願いながら帰郷がかなわなかった島さん。
広報には、当時の市の担当者が北九州市の島さんを訪ねた際のエピソードも載っています。担当者が帰った後、島さんは「彼が観音寺の、ふるさとの風を運んできてくれたから、それを感じていたい」と言って、しばらく部屋を掃除しないよう頼んだということです。
島さんの母校、観音寺第一高校では、島さんやハンセン病について学ぶ人権教育を続けています。広報の記事では、島さんの作品につづられた言葉から感情を分析する研究に取り組んだ生徒たちの活動が紹介されています。
広報の特集記事には大きな反響があり、記事を読んだ人たちから多くの意見や感想が寄せられました。
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『いやー、知らなかった』『私も知らなかった』という人ばかりでした。読んでいて近所の人が何人も『もう涙が止まらなかった』『読んでいて涙が止まらなかった』と、そういう感想がほとんどでした。知らない人がそれを読んで、そして心に届いているということが何より。
本当の帰郷
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北九州市に住む島さんの遺族、岸上昭子さんのもとにも、広報が届けられました。昭子さんは、作品を読んで療養所に手紙を送ったことから交流が始まり、島さんの生活や活動を支援してきました。2001年に養子となり、島さんが晩年を過ごした団地で今も暮らしています。
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うれしいやろね。毎日お経をあげるかわりにこの広報かんおんじを読んでやるんですよ。毎日読んで私も泣きます。観音寺市民が全部読む読まないは別として、全世帯の玄関先に、ポストに入ったということは、島さんが本当に故郷に帰ったんだな。
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観音寺市では、特集記事の掲載にあわせて、中央図書館に島さんに関する本を集めたコーナーが設けられました。
島さんが亡くなって20年。ハンセン病への理解を深めるとともに、差別や偏見のない世界を目指していくことの大切さが改めて問われています。
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やっぱり世間の偏見とか差別というのが大きくあって、結局帰ることができなかったという問題があるんですけど、その偏見とか差別というものの怖さだったり、悲しさだったりというのはすごく感じました。まずはハンセン病問題から理解していくことで、たぶん今後の今とか未来につながっていくと確信しています。
偏見や差別は今もなくなってはいません。観音寺市の広報の記事などが、少しでもひとりひとりの心に響けばと思います。