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もうひとつの“リズム” タップダンサー 中川三郎

  • 2024年3月15日

連続テレビ小説「ブギウギ」。フィナーレに向かっていますが、スズ子に負けないぐらい、熱いリズムを刻んだ、1人のエンターテイナーがいました。「タップダンサー・中川三郎さん」。
タップダンサーとして、日本のエンターテイメント全体に影響をもたらした人物。
ドラマ・ブギウギと、まさに、同じ時代。もうひとつの、戦後を明るく照らしたスターの物語です。

(ひるまえほっと/リポーター 佐藤千佳)

天才タップダンサー・中川三郎。その人生とは

ドラマ・ブギウギには、歌だけではなく、ダンスのシーンもふんだんに登場しました。なかでも、戦前、ショーに欠かせないほど人気だったのが、“タップダンス”
ブギウギのタップダンスでも参考にした、1人の天才ダンサー「中川三郎」(1916-2003)。日本に、アメリカンスタイルを持ち込んだ、“東洋のジャズ王”と呼ばれた名タップダンサーです。

戦前は、ショービジネスの“トップスター”として。戦後はプロデューサーとして、時代を躍らせました。

中川さんの足跡を辿るため、おじゃましたのは、世田谷区にある「中川三郎スタジオ」。
出迎えてくれたのは、中川三郎さんの三女で、自身もタップダンサーの裕季子さんです。

生前、一緒の舞台に立つことも多かった父の三郎さん。ダンスへの情熱を燃やし続けた人生だったといいます。

中川裕季子さん
「ダンスっていうのは時代とともに変わっていくけれども、僕はダンスを愛している。死ぬまで、ダンスからは離れられないと言っていました」

中川三郎さんは、1916年、大阪に生まれました。タップダンスと出会ったのは、13歳の頃。姉に連れられて行ったダンスのレッスン場で、すぐに“タップのリズム”に魅せられます。家に帰ると、下駄を履いて、練習していたといいます。

“下駄タップ”で自主練習!

その後、運命を変える出来事が起こります!
横浜で、アメリカ人のタップダンスを見て、その速さ・正確さ・細かい音の表現など、次元の異なる踊りに大きな衝撃を受けたのです。
当時の日本のタップダンスは、アメリカに比べれば、まだまだレベルが低い見劣りのするものでした。
「本場で、自分のタップを見つけたい!」と、17歳にして、アメリカに渡ることを決意したのです。

当時のことは、家族によく語っていたといいます。

佐藤
リポーター

当時アメリカまで行くには、飛行機じゃないんですよね?

 

裕季子さん

そうです。横浜の港から、貨物船で乗り込んでそれで、45日間、タラップの上で、もう、毎日、タップの音を出していたそうですよ。小さい時、よく聞かされました。

17歳で単身渡米!苦難を乗り越え、習得した“タップ”

昭和8(1933)年、アメリカへ渡った中川さん。世界恐慌後のアメリカは景気が悪く、思うように仕事にありつけなかったといいます。ホームシックや貧しさの中でも、コンテストの賞金稼ぎで食いつなぎ、タップダンスの習得に励みました。
そんななか、チャンスが訪れます。ミュージカルの幕間として、10分間時間を与えられたのです。
それが、なんと、ブロードウェイのステージ!

会場は、“日本人が、どんなことをやるのだろう…”という空気に。そんななか、中川さんのものすごいテクニックに、客は驚いたといいます。
“1・2・3”をやりながら、5つの音が出る超絶テクニック。タップの音色、速さ、大衆の心を震わせるリズム!
踊り終わると、割れんばかりの拍手。これをきっかけに、アメリカで人気を博します。

1年後に凱旋帰国すると、大騒ぎに!当時の新聞には、“新ダンス渡来”と大きく報じられました。
そして、アメリカの最新の流行を持ち込んだ洗練されたダンスで、瞬く間に大スターとなりました。

当時の、中川さんがタップを踊る姿を残した、貴重な映像を見せてもらいました。
いまからおよそ90年前、映画用に撮影された、ダンスの1シーンです。

中川裕季子さん
「その頃のファンキーな雰囲気を出したかったんでしょ。ただ音が出れば良いっていうんじゃなくて。わざと腰を振ったりして、人がやらないようなことを、ちょっと、やって見せる」

当時は、“タップがなければステージは成り立たない”というほど、タップダンスが盛んだった時代。
数いる日本のタップダンサーたちの中で、本場アメリカ仕込みの中川さんのタップは抜きんでていました。

松竹楽劇団のころの中川三郎さん

1938(昭和13)年には、「松竹楽劇団」へ所属します。創立メンバーとして、中川さんとともに“2大スター”と呼ばれたのが、あの笠置シヅ子さんでした。
こうしてスターの座を上り詰め、戦前の日本のエンターテイメントをけん引していったのです。

文化の統制から、タップダンスの灯を守れ!

しかし、中川さんのダンスの技と人気が絶頂にあった、ちょうどそのころ、戦争がはじまりました。
ジャズやタップダンスは、“敵性音楽”として、上演が制限されるようになっていきました。
やむを得ず、中川さんは、日本本土に比べ、制限が比較的ゆるかった中国大陸に向かいます。

そこで、タップを上演した帰りに、衝撃の出来事が起こります。“スパイ容疑”をかけられたのです。
リズミカルなタップが、あらぬ疑いを呼び込んでしまいました。

晩年の中川さんは、出演したNHKの番組で、当時のことを次のように語っています。

中川三郎さん(当時81歳)

中川三郎さん
「憲兵に、モールス信号じゃないかと言って疑われた。タップの音が、強引なモールス信号を送っているんじゃないかという」

「タップ」という言葉すら使うことができなくなるなか、中川さんは、床を踏み鳴らすタップダンスを、「踏律舞踊(とうりつぶよう)」と呼ぶことに。

『踊らんかな!人生』中川三郎 著

「国民の健康増進のための体操だ」ということにして、なんとか守ろうとました。
しかし、タップに合わせる音楽のほとんどは、敵性音楽のジャズ。
中川さんを始め、多くのダンサーが、何もできないまま、踊る機会を失っていきました。

中川裕季子さん
「だから父はもうほんとに、手足縛られたように何もできない状態ですよね。だってニューヨークから帰ってきたことが財産なんですから自分の。それが全部遮断されて。戦争で、ガラッとすべてを失ったんじゃないですか」

戦後の日本を、“踊ることで 元気に!”

戦争が終わって、ようやく、ジャズやタップは解禁になります。しかし、空白期間を経て、大勢いたタップダンサーは、姿を消していたと言います。
“命がけで培ったタップを、自分だけで終わらせてはならない”。そんな思いから、中川さんは、まずは、家族・自分の4人の子どもたちにタップダンスを仕込んでいきました。

“自分と子供たちが踊り続けている限り、タップの灯は消えることはない”と考えたのです。
中川さんは、家族でショーをする一座を組み、活動を再開しました。その名も「中川ツルーパーズ」

“ダンスで、日本を元気にしたい!”。
楽器の演奏とタップダンスで、米軍基地や、地方の小劇場を回ります。北は北海道から、南は長崎まで。ツルーパーズの本場さながらのステップとショーに、アメリカ人たちも、舌を巻いたといいます。

中川裕季子さん
「ラスベガスにも来てほしいって何回も言われたけど、ラスベガスに行ってしまったら日本の巡業ができなくなるから、僕は日本で下地をつくりたいと、父は言っていました」

「巡業に行くと、本当に喜んでいただいて、涙流してくださる方もいるし、旦那さんを戦争で亡くしたり、息子さんを亡くしたりというのが、そのころ当たり前のことでしょう。家族で、みんなでやって羨ましいな、みんなでこんなことができるってすばらしいって思ってくださったと思うんですよね」

ダンスのニーズが変化「見て楽しむ」から「自分も踊る」ものへ

昭和28年、テレビ放送がスタート。ダンスはキラーコンテンツ!テレビにとって欠かせないものとなりました。
中川ツルーパーズは、テレビ創成期から、テレビに出演。その活躍は、日本中に一気に広まり、人気となりました。

昭和30年代になると、これまで、「見て楽しむ」ものだったダンスが、テレビの影響もあり、「自分も踊りたい」と思う人が増加。中川さんがタップダンス教室を開くと、大盛況!入門希望者が殺到しました。当時の生徒は、なんと、3000人!

当時(1955年)のNHKニュースでは、「戦時中はアメリカ的だと言われて姿を消したタップダンスもバレエやジャズブームのあとを受けて勢いを盛り返してきたようです」と伝えています。

そんな、多くの人の、生き生きと踊る姿を見て、中川さんの中に、“踊る楽しさを伝えたい!”、“大衆を喜ばせたい”という思いが生まれます。
そこで、「プロデューサーとしても、ダンスを普及せよう」と決意するのです。

中川裕季子さん
「とにかく、大衆1人にでも多く、日本中の方々にダンスの楽しさであり、リズムを伝えたいって思ったことがすべてじゃないですか」

“時代を躍らせた”プロデューサー中川三郎

ジルバ、サンバ、マンボなど…。中川さんは、流行の音楽に乗せて、踊りやすいダンスを次々と紹介していきました。そして、日本中の街を教えに回ったのです。特にマンボは、若者を中心に大流行に!
中川さんのダンス普及への情熱は、さらに高まります。老若男女誰でも楽しめると考えたのが、「社交ダンス」
昭和33(1958)年。当時、ほぼ大都市に限られていたダンス教室を全国に作り、チェーン展開したのです。その数、最盛期には、なんと全国で300以上にもなりました。

日本中にダンスを普及させたことについて、生前、中川さんは次のように語っています。

中川三郎さん
「ダンス人口の倍増ということを、最終的にはいろいろ考えたんですね。倍増するためには、一般の人に平易なダンスを教えた方がより人口の増加に繋がるということで」

さらに!昭和40(1965)年には、日本初のディスコをオープンさせるなど、今日に続く、日本のダンス文化の最先端を切り開いてきました。

戦前・戦後のダンス文化に詳しい、作家で舞踊評論家の乗越たかおさん。生前の中川さんに取材して、その人生を記録した本も執筆しています。

作家・舞踊評論家 乗越たかおさん

乗越さん
「(中川三郎さんは)セルフプロデュース能力と、スター性、ダンスの力。両方持ってたっていうのは、非常に希有な人だと思う。日本のダンス環境自体をどんどん変えていった。本来は自分が踊って楽しむものだろうっていうのがあって、普通の人が踊りやすいようなやり方を採用していったんですよ。その時の、人の心を躍らせるものは何なのか、ということを、絶えず考えていた人だと思うんですよね」

中川さんは、87歳で亡くなるまで、ダンスを教え続けました。戦前、命がけで習得したタップダンス。その後は“ダンスを愛する人々を増やしたい”と、半世紀以上に渡り、ダンス文化をけん引。

そんな父の想いを、娘の裕季子さんが受け継いでいます。

中川裕季子さん
「表現方法が変わる、お化粧が変わる、衣装が変わる。でも、スピリッツ、“リズム”の根底にある心臓の鼓動と同じように、必ず時を絶対に刻み続けることが、タップダンスの本髄だと思っています。父の考え、ポリシー、ダンスを愛する愛情。全部含んで、私は、体全体で受け止めて、それを、何か皆さんに伝えていけたらいいなって思っています」

娘の裕季子さんは、2歳からタップをやっていて、79歳で現役のタップダンサー。
裕季子さんも、三郎さんと同じように、「大衆が、いま、踊りたいものは何か」を常に考え、オールジャンル、さまざまなダンスを教える環境を作っています。

古谷
アナウンサー

お父さんの代から、教え子も大勢いるんでしょうね。

 

 

中川さんのもとには、戦後すぐから数々の著名人も、タップダンスを習いに来ていました。最後に直接指導した1人が、俳優の水谷豊さんだということです。

 

その、水谷さんの娘の趣里さんがブギウギでヒロインやっているわけですから、偶然ですが、ちょっと、不思議な縁も感じますね…!!

常に、“リズム”を刻み続けた、ダンス人生。中川三郎さんを主人公にした朝ドラを見られる日が、いつか来るかもしれませんね。

 

【編集後記】
連続テレビ小説・ブギウギ。「敵性音楽」の話はドラマでも描かれておりました。歌手だけではなく、戦前・戦後、どれだけのエンターテイナーが、どんな苦難を味わったのか。そして、どのように乗り越えて、日本を明るく照らす存在となったのか。本当に、たくさんのドラマがあるのだなと改めて感じましたし、知られていないドラマを、もっと知りたいと強く思いました。
今回、戦前のショービジネスの大スター・中川三郎さんの人生をお伝えするにあたって、ご本人の自伝を始め、その時代がわかる文献を何冊も読みました。ご活躍の頃は、気軽に映像や写真で残すことができない時代。戦争や空襲を経て、残せなかったものもあると思います。そんななかで、その人がいたリアルな記録・功績を、どうやって後世に語り継ぐか。生前を知る方々のお話を聞き、「功績を語り継ぐ、きちんと残す」ことの大切さを、改めて感じました。

リポーター 佐藤千佳

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