東日本大震災 加藤登紀子さんが語る"あの日"

2023年11月に青森県弘前市での「NHKのど自慢」に出演した加藤登紀子さん。
今回、加藤さんに“あの日”のこと、そして、“あの日”からのことについて、語ってもらいました。

◎加藤登紀子さん(79歳・当時67歳 当時:東京)

―2011年3月11日は、どこで何をされていましたか?

(加藤 登紀子)
私は東京に居ました。東京にいて、なんとね、ミーティングをしてた。アルバムのミーティングをしてたんですよ。こんくらいの部屋で、そしたらものすごく揺れたんですね。東京も相当揺れたんですが、最初うち(の事務所)は10階なので、結構いろいろな地震でも揺れるほうなんですよね。だから「大丈夫よ」って言ってたら、その部屋のまわりにある本とかCDがテーブルの上で、吹っ飛んできたんですよね。ものすごく長い時間続いたんですね、その揺れが。どんどん吹っ飛んでくるようになったので、「あ、これは大変だな」っていって、みんなでミーティングをやめて、ビルの下におりました。もううちの事務所はだいぶなんか騒然としましたね。
(加藤 登紀子)
それでびっくりして、下に降りて、車の中でいろいろ情報を見てましたね。Twitterをはじめたばっかりだったので、ちょうどTwitterを見ていたらいろいろな情報が入ってきて、津波っていうことが分かり。だけど一つ番組が、予定が入ってたんですよ。なんとかその放送局に行った方がいいんじゃないって言って、行きましたら4~5時間かかって。もうとても無理な話だったんだけど。もちろん番組も全部キャンセルになっていましたね。

―その後の活動はどうしていったんでしょうか?

(加藤 登紀子)
いったんうちの事務所で、全員身の安全を守れるような行動をとりましょうということで、事務所をお休みにしたんですね。それから、京都の兄の家に母を預けて、ひとりでホテルにいたんですけど。3月17日に『今どこにいますか』という曲を作りました。3月18日に、大阪の知り合いの事務所から、あの頃Ustreamだったか、なんとかして声を届けたいということで、みんなで力を合わせて応援の番組を発信したんですけどね。その中で、この『今どこにいますか』って曲を送ったんですね。
そのとき本当にね、画面の中で雪が降っていましたね。津波でたくさん行方不明の人がいる中を、まだ一週間経とうとしている時期に、みんなが探しているっていう。「あー本当にもう抱きしめてあげたい」っていう感じ。どうしたらいいんだろうって思いました。なんにもできないから。

震災から約一ヶ月後、初めて山田町や釜石、陸前高田などに足を運んだ加藤登紀子さん。その際の経験も語ってくれました。

(加藤 登紀子)
山田町の時は、もちろん、まだ一ヶ月ですからね、大変な避難生活の最中だったんですけど。フォークシンガーの人が、体育館の外にテントで「復興食堂」っていうのをやってて。そこでライブをみんなに楽しんでもらってた。そこに呼んでもらったんですよね。
わすれられないなあ。「百万本のバラ」とか、「歌ってくれる?」って言ったらみんな大声で歌ってくれて。その復興食堂っていうところで歌ってたら、「おときさん!」っていって、一升瓶もってきてくれたひとがいたわけ。「これはね、流れちゃった酒蔵の、最後に残った一本だから。飲んでほしいと思って持ってきたのよ」って。でもそのときもう、みんなで飲もうっていって、茶碗で。そのときのありがたさって忘れられないですね。
(加藤 登紀子)
4月に岩手、それから5月に福島。5月25日に福島の飯舘村っていうところでコンサートしました。全然なにも失われていないふるさとなんですね。だけど、その放射線で住めなくなった。岩手県で津波に遭ったところに行ってたのと、まあ全然違う、この人たちはもしかしたら永遠にふるさとをなくしちゃうかもしれない、っていう。もう花が満開の季節でね。美しくてね、それで途方に暮れましたね、
『今どこにいますか』っていう「大丈夫だから、またちゃんとここで頑張ってね」っていうそういう歌を作ってましたけども。「ふんばればなんとかなるよ」って。でもそうじゃない悲しみですよね。これは困ったなって思って。『命結-ぬちゆい』っていう、「命はつながってるので、ばらばらになっても、必ず明日、明日を夢見て、旅立ってください」っていうような意味の歌を作って、歌いました。

6月には宮城県の名取にも訪れたといいます。

(加藤 登紀子)
見渡す限り、360度に近いところがなにもなくなっていて。私はちょっともう胸がつぶれそうで。「どなたか歌ってくれますか?」って言ったら、民謡保存会の会長っていう人がいたのよ。で、彼がね『大漁唄い込み』っていうのを、その被災地で、声あげて、天にとどろくような。「ハー 大漁だー」っつって。大漁旗がわーって浮かんでくるような。そういう歌を歌ってくれた。私は民謡の力をあんなに感じたことはなかったですね。すごいなぁと思った、あの民謡の力は。歌っている人は、今目の前に、全部流されてしまったところを見下ろしているんだけど、彼が歌っているときには、全部よみがえるような感じがある。残念ながら私は必死で歌って歩いたけどね、歌の力っていうのを感じるところまでは行かなかったけれど。とりあえず出会って、手を握り合って、「頑張ってね」っていうことだけは言えたって思いましたが、彼の歌を聴いたときには、歌には人を奮い立たせる、命を助ける力があるな、と思いましたね。

加藤さんにとって“あの日”は、ご自身の歌への向き合い方をとらえ直すきっかけになった出来事でした。

(加藤 登紀子)
やっぱり2011年、私は「歌に力がほしい」「歌に力があるようにするにはどうすればいいんだろう」っていうね。その問いかけは、自分に対してすごくした年だと思います。だから私、歌に対する姿勢が2011年に、願わくばですけどね、変わったと思う。
(加藤 登紀子)
「なにができる? 歌手はなにも役に立たないよ」っていう。震災の時もそうなの、自分の中にね。行ったって別に役に立つわけじゃないんだから、くらいの気持ちで行ったんだけど。ただ、自分自身にとって、何かあったときには、歌手として、自分でそのときの思いを歌にするっていうことが、やっと一歩を出すことだと。誰かが一歩を出すことのきっかけになるかどうかはわからなくても、少なくとも自分が一歩を出すために歌が必要だという、そういう気持ちになりましたね。
そのあともなにか途方もないこと、戦争もそうですし、起こるときに、自分が歌手であること、自分は歌を作ることによってしか一歩踏み出せないっていう、それが自分に課してきたというか、その出発点が東日本大震災だった気がします。

 

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あの日、何をしていましたか?|NHK仙台 みんなの3.11プロジェクト