東日本大震災 サッカー女子日本代表 宮澤ひなた選手が語る"あの日"

サッカー女子日本代表として活躍する宮澤ひなた選手。
昨シーズンまで、仙台を拠点に活動する女子プロサッカーチーム“マイナビ仙台レディース”に所属していました。パリ五輪に向け取材をするなか、“あの日”のこと、“あの日”からのことを伺いました。
(このインタビューは昨年11月に行いました)


Q.2011年3月11日、宮澤選手は何歳で、どこで何をされていましたか?

当時は、小学5年生、地元の南足柄市にいました。小学校で帰りの会をしていて、ガタガタって揺れて、みんな一斉に机の下に隠れたのを覚えています。怖かったですね。今まで感じたことのないというか。
自分があの日、1番覚えているのは、地震でわ~ってなって、とりあえず家に帰って、お兄ちゃんも中学校から帰ってきていて、確か友達もいたと思います。テレビをつけたときに、どれをつけても全部、東北のテレビで。いつもやっているチャンネルをみても、ジーって何も映らない。そのどっちかで。津波も怖くて見れないし、チャンネルを変えても何も映らなかったことです。

Q.2021年からはマイナビ仙台レディースでプレーをしました。
仙台で印象に残っていることはなんですか?

WEリーグが出来て1年目※1に仙台の選手としてプレーできたことは、すごく自分にとって大きくて。正直、最初は地震もあるだろうし、初めてのひとり暮らしでもあったので、怖いなってイメージがあったんです。仙台へ新しく引っ越した日に地震が来たんですよ。震度5強ぐらいの。でも、「ライフライン切れてないので練習あります」みたいなのが普通で、すごいなって思いました。最初は不安もあったんですけど、みんなとやるサッカーがすごく楽しかったですし、ファンの方たちもすごく温かく迎え入れてくれて、2年間、仙台で戦えたっていうのは、今の自分がある理由の一つだと思います。
(※1 2021年、日本初の女子プロサッカーリーグ“WEリーグ”が創設した。)

自分が1年目のときかな。震災当時のままの学校が残っているじゃないですか、そこにいきましたね。ちょっときれいになっているけど、当時のまま。「津波が壁のここまできていたんだよ」とか、実際に目で見ると思っていたよりもすごいというか、テレビで見るよりも衝撃的で。ここに誰々さんのお宅があってみたいな上から見える模型があって、ここら辺にいろんな人の家があったんだなって思ったところに何もなかったり。そういうのを見て、自分たちはただ怖いって、神奈川ではそう思っていましたけど、本当にこっちで経験した人たちは、それ以上だったんだなって。5年生のときは感じられなかったけど、大人になって来てみるとすごく感じるものは多かったです。

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2021年3月 荒浜小学校を訪れるマイナビ仙台レディースの選手たち

Q.東日本大震災のあと、なでしこジャパンがワールドカップで優勝しました。
あのときはどんなふうに試合をみていましたか?

「なでしこジャパンになりたい」っていうことを口では言っていましたけど、やっぱりまだ明確さがなかったり。でもあの瞬間は、口で言っていただけの目標、夢がちょっと明確になった瞬間でした。
「女子サッカーってこんなに影響力があるんだなぁ」とか、「世界でこんなに活躍できるんだ」っていう。テレビ越しで、みんなキラキラしていましたし、かっこいいなって、「自分もこの舞台に立ちたい」って思ったのがきっかけでしたね。

当時は、なでしこジャパンが優勝して、震災のっていうところまでは、正直、まだ自分の頭の中は追いついていなくて。でも実際に、自分も当時のなでしこジャパンの人たちと同じ目線に立ってみると、影響力のあるところにいるんだなっていうのはすごく感じます。だからこそ、楽しんでサッカーをやるだけじゃなくて、何かを届けられる存在だからこそやらないといけないことがあるんだなっていうのは感じます。

Q.あの日の出来事や仙台でプレーしたことなど、今の宮澤選手につながっていることはありますか?

今、幸せにサッカーができるっていうことが当たり前じゃないんだなっていうのは、すごく感じていて。それは本当にあの震災もそうですし、いろんな国の戦争だったり、日々のニュースを見ている中で感じていて。実際に自分が仙台にきてプレーをして、いろんな人がいて、選手同士も「マリーゼ時代※2はこうだったよね」とか、あのときにチームがなくなって、みんなサッカーをやりたくてもできない環境で、っていうような選手が歯を食いしばってやっていた結果、今のマイナビ仙台レディースがあると思う。本当に女子サッカーをなくさずにいてくれたから、自分も(仙台に)行けたっていうのがあるので、自分は本当に幸せな環境だなっていうのは感じています。だからこそ、一瞬一瞬をむだにできないなというか。
(※2 東京電力マリーゼ 福島を拠点に活動していたチーム。東日本大震災と原発事故の影響でチームは無期限の活動停止になった。)

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(現在、イングランドの名門・マンチェスターユナイテッドで活躍中の宮澤選手。リモートで取材に応じてくれました。)

いつ何があるか分からないっていうのもそうですし、やっぱサッカーをやりたくてもサッカーできない人たちもいるわけで。そのあと、震災がきっかけであきらめなきゃいけなかった選手もいたり、本当にいろんな選手がいた中で、自分が大好きなサッカーを全力でできているっていうのは、当たり前じゃないんだなって言うのは、すごく感じるものではあるので。だからこそ、自分ができる限りプレーで元気を届けられたり、サッカーを見ていて笑顔もらえるなとか、楽しいなとか、少しでもこの時間が楽しんでもらえればうれしいですし、そういうことができる場所に今いるんだったら、自分はそういう恩返しというか、そういうことをできる限りしたいなと思っていて。

Q.2月には、パリオリンピックアジア最終予選も控えています。
これからサッカーを通じて、東北の人たちへどんな姿を見せていきたいですか?

ワールドカップに行く時もマイナビ仙台レディースの名前で行きましたし、今は所属チームは違いますけど、仙台でプレーしていたっていうところでは、知ってくれている方々も多いと思うので。仙台でプレーしていた自分が、じゃあ次、世界で何ができるのかっていうところ、活躍の場所が日本だけじゃないっていうのを、より多くの人に知ってもらいたいなって言うのはあります。
だからこそ見てもらうためには結果っていうところがすべて。ワールドカップはベスト8で終わってしまったので、オリンピック予選を通過して、オリンピックに出るということが今、自分たちの目標。本当にたくさんサポートいただいて、応援してくださった方々のためにも、しっかり自分はサッカーで、皆さんに恩返しができたらなと思いますし、少しでも皆さんの生き甲斐にって言ったらあれですけど、楽しめる時間の1つでありたいなと思います。