東日本大震災 ゴールデンボンバーが語る"あの日"

2023年11月、青森県弘前市での「NHKのど自慢」に出演したゴールデンボンバーのみなさん。
今回、ゴールデンボンバーのみなさんに“あの日”のこと、そして、“あの日”からのことについて、語ってもらいました。

ゴールデンボンバー(当時・東京)
○鬼龍院 翔さん (39歳・当時26歳)
○喜矢武 豊さん (38歳・当時25歳)
○歌広場 淳さん (38歳・当時25歳)
○樽美酒 研二さん (42歳・当時30歳)

―2011年3月11日、ゴールデンボンバーの皆さんはどこで何をされていましたか?

(鬼龍院 翔)
ハウススタジオで撮影をしていて、ハウススタジオの屋上だったんですけど、みんなでポーズ決めているときに感じたことのない揺れが起きて。すぐ中断して。あのときもう、わけわからなかったよね。
(喜矢武 豊)
すごく古めの建物だったから、天井からちりとか降ってきたり、部屋の中もほこりまみれみたいな感じで。
(鬼龍院 翔)
すぐに出たんですよね、そのハウススタジオを。レトロなところだったんで。
(樽美酒 研二)
外に出たときもまだずっと揺れてたよね。
(喜矢武 豊)
ね。まだあそこまでのことになるとは想像してなかったけどね。
(鬼龍院 翔)
全然わかってなかったですよね。
(喜矢武 豊)
少しこう、大きめの地震がきたなーぐらいの。

―その日の撮影はどうなったんですか?

(鬼龍院 翔)
まだ余震が結構続いていたじゃないですか。だからちょっとこれは、続けられるかわからないってなって、結構早めに切り上げたはずなんですよ。あと撮影場所をたしか外の道路とかにして。ちょっと撮って。それで、帰るってなったときに。帰る交通手段がなんか麻痺しているってなって。みんなで、とりあえず事務所までは着いたんですけど、そこで初めてテレビを見て。「これは、まったく、ただ事じゃないんだ」って、そこでやっと実感したんですよね。
(喜矢武 豊)
もう声が出なかったもんね、テレビを見た瞬間。「え?これ、なんの映像だ?」みたいな感じでもう、見たこともない映像だったので、あれは衝撃的でしたね。

当時、全国ツアーを控えていたゴールデンボンバー。3月27日の初日公演は延期したものの、3月31日からは再開したといいます。

(鬼龍院 翔)
ライブイベントというものをやるべきなのか。いや、やってはいけない、電力を消費してはいけないという風潮に一気になって。たしか、ライブツアーの初日は延期にしたんですよね。でも、その後、どうやっていいか本当にわからなくて、みんなでずっと話し合って。なにをするべきなのか、って思ったときに、やっぱりファンの方々は「大変なときだからこそ元気もらいたい」ってライブイベントの再開を望んでくれたので。まだそのときライブを再開している人たちって結構少なかったんですけど。批判とか怖いけど、ファンの方もこう言っているし、もうやろうっていって。結構僕らは早めにライブツアー再開となったんですよね。でも、恐る恐るでしたけど、間違いじゃなかったなって今は思いますね。
(鬼龍院 翔)
僕らいつもふざけてるんですけど、で、なるべくいつも通りやったんですけど。なんの感動か、泣いている人が結構多くて。本当にその経験があって、「あ、僕らがふざけることで元気出る人っているんだな」って結構実感したんですよね。だから、僕らのやり方の活動に自信持てたっていうとちょっとよくないかもしれないですけど、必要としてくれる人がいるんだなというのを、強く感じた、そんな経験でした。

4月26日には仙台でもライブを開催。その日のことも強く記憶に残っているそうです。

(樽美酒 研二)
僕もすごく覚えてて。ステージに立つのがちょっと怖かったんですよね。で、ステージに出たときのお客さんの表情を見たときに、「あぁ、やっぱすごく待ってたんだな」っていうのを感じて。やっぱステージっていいなと思ったし、なんかライブの大切さみたいなのをそこで改めて感じることができましたね。
(歌広場 淳)
ライブが終わった後に、いただいたファンレターを読んでたら、「いろいろあるだろうけど来てくれてありがとう」みたいなメッセージがたくさんあって。単純に嬉しかったですね。「来てくれてありがとう」と思ってくれていることもだし、(お客さんも)同じようにそこに集まる、来ることもいろいろ考えただろうけど、いらっしゃっていたんだろうなと思って。ちょっと胸が熱くなりました。
(喜矢武 豊)
正直どうしていいのかな、という気持ちはあったんですけど、でも行くからにはやっぱり全力で盛り上げないとなっていう気持ちでやったんです。元気ない人もたくさんいると思うんですけど、だからこそかいつもより楽しんでくれているのかな、というように見えて。それがすごく嬉しかったというか、来てよかったっていうのと。こういうときだからこそ、やっぱエンタメっていうものがすごく大事なのかなって感じましたね。
(鬼龍院 翔)
こんな僕らでも経済を回しているものの一つだったんだなって、そこで実感したんですよ。「早く復興してほしい」とかっていうときに、もう「バンドマンなんてやれることない」って思っていたんですけど、いやいや、ライブでその地に行って、お客さんを集めて、そこの地域の経済を回すことが復興につながるってお話を初めて知ったんですよね、僕は。まったくそんなこと思ってもみなかったんで。だからこそ、そういうことだったらなるべく東北へ行って、行くことで少しでも何か力になれたらと思っています。

“あの日”の経験が、皆さんにとって活動への意識が変わるきっかけになったといいます。

(鬼龍院 翔)
あの当時があったから、僕らみんな一致団結というか、ライブツアーをやることの意味とか、待っててくれるファンの方の喜びとか、知ることができたので。
(鬼龍院 翔)
本当に、大変な思いをした方のファンレターとかも読むと、最終的にはメッセージとして「ゴールデンボンバー続けてください」というメッセージになっているので。そういった方々の思い出をね、ゴールデンボンバーのライブ行ったっていう、いい思い出を色あせさせないためにも、やっぱり続ける、いっぱいライブやるっていう風に、よりなりましたね。

 

NHK仙台放送局のサイト「あの日、何をしていましたか?」では、
みなさんの2011年3月11日について投稿を募集しています。
あの日、何をしていましたか?|NHK仙台 みんなの3.11プロジェクト