『SENDAI光のページェント』受け継がれてきた市民の思い

冬の仙台の夜空を彩る「SENDAI光のページェント」。

1986年に初めてケヤキ並木にともされた光は、毎年、途切れることなく受け継がれていて、ことしで38回目を迎えました。大規模に並木を照らすのは、実は仙台が先駆け的存在です。

今や例年、250万人前後の人出が見込まれる冬の一大イベントになりましたが、運営は一貫して、ボランティアが行っています。途切れることなく受け継がれてきた思いの始まりは、「子どもたちのために」という市民たちの願いでした。


【仙台冬の風物詩「SENDAI光のページェント」】

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2023年の光のページェント

12月8日。定禅寺通の129本のケヤキに、いっせいに温かなオレンジの光がともりました。その数、およそ50万。「SENDAI光のページェント」です。

【立ち上がった市民たち】

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上野隆士さん(75)は、1986年に初めて光のページェントが行われた時に実行委員を務めました。

上野さんたちが動き始めたのは、その年の夏。仙台の冬に新しいにぎわいを生み出そうと、仲間に声をかけて実行委員会を立ち上げたのです。これが、市民ボランティアの始まりです。

(上野さん)
「『杜の都』って言われていますけれども、11月、12月になると、葉が落ちて、ちょっとさみしい。そういうところに、電気をつけたら綺麗だろうな、子どもたちに見せてやりたいなということで始まりました」

実行委員会には、その時に作られたパンフレットが残されています。そこには、上野さんたちが伝えたかった思いが込められていました。

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「1年に1回、夢を見させて下さい。私たちと私たちの子どもたちのために」
この思いは今も受け継がれていて、ことしの点灯式でも仙台の夜空に響き渡りました。

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1986年の光のページェント

夜のケヤキ並木に、初めて明かりがともったのは、実行委員会が立ち上げられてからわずか4か月後。
当時は、今とは違って定禅寺通と青葉通の両方が会場で、定禅寺通は500メートル、青葉通は1.3キロにわたって、あわせて114本のケヤキが、およそ30万個の温かな電球の光で彩られました。
上野さんの本業は、ビルのメンテナンス。ほかの委員たちも、不動産の経営者や主婦などさまざまで、これだけの規模のイベントを行うノウハウはほとんどありません。さらに、当時は東京・表参道のイルミネーションや、「神戸ルミナリエ」なども始まっておらず、これだけの規模の並木を照らしたイベントは、まだどこにもなかったため、文字どおり、手作りの第1回でした。

(上野さん)
「ケヤキの木が市民の財産であるということで、いかに傷をつけないように進めるかや、どういう大きさの電球をつけたらいいか、公道なので、市や警察の許可も取りながら。とにかく毎日、毎日、1つ1つ、確実に、進めていきました。いま考えてみると、よくやったなという風に思いますね」


【「ケヤキイルミ」だったかもしれない?命名の経緯】

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1987年の会議

上野さんは、手作りの大変さだけでなく、意外なエピソードも教えてくれました。名前が決まった経緯です。

(上野さん)
「『イルミネーション』っていう考え方が捨てきれないで。『仙台イルミネーション』とか『けやきイルミネーション』とか。色々考えているうちに『ページェント』ってどうだろうと。『光のページェント』、『光の野外劇』。これは非常にいいなと」

「野外劇」という意味を持つ「ページェント」。上野さんたちは、訪れた人たちと一緒に作り上げる「光のページェント」を目指しました。

NHKが撮影し続けてきた映像には、多くの市民たちが、一緒に「ページェント」を盛り上げてきた姿が記録されていました。

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1988年には、道を埋め尽くすほどのたくさんの女の子たちが、輝く光の下で賛美歌を歌い、会場に一体感を演出していました。

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また、1993年には、サンタクロースの衣装を着た若い男性が、電球がつけられたクリスマス仕様の赤い車の前で、訪れた人たちをもてなし、子どもたちが集まっていました。

【2011年 支援でつながった「光」の歴史】
市民たちが一緒になって築き上げてきた「光のページェント」ですが、開催の危機もありました。
2011年の東日本大震災で、導入したばかりの新しいLED電球が、すべて、津波によって流されてしまったのです。四半世紀に渡って育てられてきたイベントは、開催が危ぶまれる事態になりました。

それでも、実行委員会は「災害のあとだからこそ、光でまちを照らしたい」と力を尽くし、全国から電球を借りたり、譲り受けたりして開催にこぎつけました。

震災から9か月。定禅寺通は、実行委員会が新たに購入した電球に加え、東京や秋田から、復興への願いを込めて送られた電球で彩られました。さらに、大阪や広島などから送られてきた光のオブジェも並び、街に明るさをもたらしました。

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2011年の光のページェント

この年は、各地の電球を組み合わせたため、唯一、さまざまな色合いの「光のページェント」となりました。それはまさに、仙台を助けよう、勇気づけようという支援の輪の象徴となり、それまでで最も多い、290万人が訪れました。

【市民の思いをつなぐために】
38回にわたってつなげられてきた「光のページェント」ですが、大きな課題にも直面しています。資金の確保です。

市民の手作りならではの、当初からの課題で、初めて実施するときも、上野さんたちはケヤキ並木に面したビルのオーナーを1人ずつ訪れ、協賛の依頼をしたといいます。さらに、少しでも多くの明かりをともそうと、街頭で街の人に寄付を呼びかけました。

(上野さん)
「『市民のみんなの力で電気をともすんだ』という考え方で、非常に反響は大きかったです。特に電球がついてからは、行列を作って募金に応じてくれるという、大変ありがたい姿を思い出します」

しかし最近は、新型コロナの影響で人出が大幅に減ったのに加え、警備などで欠かせない人件費の値上がりや電気代の上昇もあり、運営を圧迫しています。

それでも毎年開催しようと、期間を短縮したり、資金の確保に向けてインターネットのクラウドファンディングを実施したりと、さまざまな対策を取っているのです。

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さらにことしは、寄付を募ろうと、SNSで見栄えする場所を新たに作りました。高さ6メートル、長さ6メートルほどの「光のお城」です。300円以上の募金に応じると、中に入ることができ、「お城の形が目を引いた」という声も上がっていました。

【市民の思いを受け継いで】
光のページェントは、さまざまな困難な状況を幾度も乗り越えながら、一度も途切れることなく、毎年開催されてきました。

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(上野さん)
「ついた瞬間、うわーっという歓声が上がる。その姿は、毎年見ていますけれども、みなさん1人1人がいろんな思いで、このページェントを見てくれているのかなという風に思っています。有志の方、協力してくださる方、毎年毎年、応援してもらうことによって、継続しているのだなと思っています」

ことしも、これまでと変わらず冬の夜を彩る「SENDAI光のページェント」。長年にわたって支えてきた多くの市民に思いをはせると、ケヤキ並木を照らす50万の明かりは、一段と温かな光に見えてくるかもしれません。


20231219pageant_012.jpgNHK仙台放送局
記者 境 彩花
宮城県塩釜市出身。
2023年に地域職員として入局し、主に県政を取材。
「光のページェント」は毎年訪れていて、特に、
「せんだいメディアテーク」の全面ガラス張りに映る光がお気に入り。