東日本大震災 須江航さんが語る"あの日"

2022年夏の甲子園で優勝、2023年にも準優勝を果たした仙台育英高校硬式野球部。今回、監督の須江航さんに“あの日”のこと、そして、“あの日”からのことについて、語ってもらいました。


2011年3月11日、須江さんはどこで何をされていましたか?

(須江さん)
(仙台育英高校系列の)秀光中等教育学校というところの教員でした。下校したあとくらいのタイミングで、職員室にいたら大きな揺れを感じたというところでしたね。揺れがおさまったあとに職員室を出て、校内にいる生徒に避難の指示を出しましたね。

多賀城市にある校舎で地震にあった須江さん。生徒たちの安全を確保したあと、校内を巡回していたときに目にしたものがありました。

(須江さん)
校内や近隣にトラブルがないのか巡回していたんですね。そのときに仙台港の方面から水が流れてきたんですよね。それで、誤情報なのか分からないですけど、水道管が破裂したという情報が入ってきて。そうこうしていると、魚が流れてきたんですよ。魚が流れてきて、これは水道管の破裂じゃなくて、本当に津波がきていたり、川が溢れ出したりしているんだなというのを理解したのを覚えていますね。

家に帰れなかった生徒も学校に戻ってきて、校舎で一晩を過ごしました。

(須江さん)
下校した子たちが家に帰れないので、それぞれ戻ってきたんですよね。それで、雪がうっすら散らつく夜、電気が消えているので「こんな星、生まれて一回も見たことないや」ってくらいの星のきれいさがあったその夜に、ずぶ濡れの高校生が帰ってきて、敷地に入ってきて。「どうしたの?」って言ったら、電車が止まったから歩いて家にかえろうと思ったら、途中から水で(進めずに)帰れなくてって。そうこうしている間にどこにも行きようがなくなっちゃったから、泳いで帰ってきたみたいな。
(須江さん)
仙台港のコンビナートの方が、ものすごく燃えているのが見えたんですよ。ボカンボカン爆発していて。もしかしたらこれが燃え広がっていくんじゃないかなと。そういう不安に、私も含めたみんながなっている中で、教室で一夜を過ごしましたね。

遠方からきている生徒は、しばらく寮で生活。その後、少しずつ親元に帰していくことになりました。

(須江さん)
(3月下旬くらいに)寮生と親がようやくコンタクトを取れるようになったので、何とかしてご実家に帰してあげたいと。でも、南には原発の問題があって行けない。それで新潟を目指す話になって。新潟からだと在来線とかフェリーとか飛行機が飛んでいるので。ただ、バスを運転できる用務員さんが学校に戻ってこられなくて、バスを運転する人がいなかったんですよ。それで、私は部活動の顧問で大型バスの免許を持っていたので、新潟まで生徒を送って、帰りに空っぽになったバスいっぱいに食材を買って戻るという仕事をし続けましたね。それが4月の2週目くらいまでに、私がずっとやっていたことですね。高速が通れなかったので、片道10時間くらいかかりましたけど。
(須江さん)
(2007年に)新潟中越沖地震があったので、新潟のみなさんは地震や災害に対して、すごく敏感に感じられていて。例えば、スーパーに“仙台育英学園”とラッピングされた大型バスを止めさせてもらうと、お客さんが「仙台育英ってバスを見て来ました」と言って、すごい量の差し入れをいただきましたね。新潟の人たちの温かさとか、助け合いの精神とか、すごく感じましたね。「今バスを見てから自宅で握ってきました」みたいなおにぎりを何十個・何百個単位で差し入れしてくれる方とか、中越沖地震で使って残しておいた毛布やタオルをありったけ持ってきてバスに一緒に積んでくれた方とか。

学校は5月に入ってから新年度がスタート。なかなか活動ができなかった部活も、少しずつ再開していきました。

(須江さん)
お付き合いのあった石川県の中学校野球の先生方が、いろいろ大変だということを聞きつけて、4月末に2泊3日で野球部を石川に招待してくださって。とても行けるような状況じゃなかったんですけど、親の方々とか学校と相談したら、「もし受け入れてもらえるのであれば行きたい」と言われるご家庭しか(い)なくて。「少しでも平穏な2~3日を過ごさせてあげたいな」っていうご家庭が多かったので行きましたね。そこで初めて部員の8~9割が集まって。石川で(震災から)初めてお風呂に入った子もいましたね。あと、ほとんど食べられなかった温かいものを食べるという経験をした子もいましたね。
(須江さん)
いろいろと葛藤はありましたけどね。そういうことをしている暇があるんだったら、少しでも地域のボランティアに行った方が良いんじゃないかって。もちろん、その日までそういう活動をおのおのしているわけですけれど。でも、あの3月11日からほとんど子どもたちの笑顔が無い中で、野球をしている姿を見たら笑顔があったので、これはこれで間違いじゃなかったのかなと思いましたし、いただいた恩を彼らの学びに変えて、将来いろんな形でお返しできれば、間違いではないんじゃないかなっていう気持ちだったのを覚えています。

“あの日”を境に、須江さんの中にも変化があったと言います。

(須江さん)
私も多くの知り合いが亡くなったので。それこそ、震災の2~3日くらい前に会った方も亡くなりました。意図して変えたわけでもないですし、それがどこまで今でもそうなっているのかは自分自身に疑問を感じるところはありますけど、「これは会うのは最後かもしれない」っていう感覚はありますね。何か失礼なこととか、何か間違えたなって思うこととかがあったりしたら、「会うのが最後かもしれない」っていうのがあるので、ちゃんとした対応をしたり、間違ったら今日謝っておかないと「もう会えないかもしれない」という感覚は持つようになりましたね。

今は高校生を指導する須江さん。生徒たちには必ず震災の話をすると言いますが、その際には細心の注意を払っています。

(須江さん)
僕らがいろんな活動をさせてもらえているというのは、学校をはじめ地域の皆さんや多くの方々の理解があってやれているわけですよ。これだけ多くの宮城県民、東北6県のみなさまに応援いただいているのを、とても近く感じるんですよね。そういう方々がどういう人生を過ごされているかっていうと、当たり前ですけれど、多くの方が被災して大変な苦しい思いをしているわけですよ。ただ、僕らは宮城県と東北6県の選手が非常に多いので、震災の話はとても難しいです。僕の丁寧さを欠いた話に傷ついたり、トラウマだったりフラッシュバックだったりする子が出てくるかもしれないので、とても気をつけて、そして状況を把握して、そして、子どもたちにその話をしていいかということを投げかけた上で、話すようにはしていますね。とてもデリケートな問題ですけど、それでも伝えていかなくちゃいけないことだと思うので。よく聞いてくれますよ、生徒たちも。第二の故郷だと思ってここに来てくれている県外の子も多いので。
(須江さん)
これは当たり前ですけれど、3月11日は被災地にお邪魔して、語り部さんのお話を聞きながら町内をまわって、14時46分になれば一緒に黙祷をささげて。名取、閖上地区、南三陸町、石巻。そのあたりにお邪魔して見たり聞いたりすると、(生徒たちは)やっぱり当たり前の日常が特別だなということに気づかされるみたいで。

葛藤しながらも“あの日”のことを伝える須江さん。話を通して何を伝えたいのか、教えてくれました。

(須江さん)
単純に伝えなきゃいけない表面的なことはあるじゃないですか。避難はこうするべきだとか、こういうものを備蓄しているとものすごく助かったよとか。あの時に感じたこととかって、普通の世の中になっているので忘れがちなんですけど。あとは、精神的にどんなことを負担や不安を感じたかってことも、伝えてあげないといけないと思うんですよ。感じたこととかストレスになったこととかって、多分あんまり記載されていないので、いろんな資料とかには。
(須江さん)
希望的な面で見れば、大変甚大な被害を受けた様々なものや場所が、10年、11年、12年、13年とたっていくと、人の力によってこれだけ復興したんだなって。あれだけどん底の状況でも、労力と時間と様々なものをかけていけば、全てを取り返せることはないですけど、また再起することができるっていうのは伝えてあげたいですよね。考えたくないですけど、また日本のどこかで災害があって、その当事者になったときに、「もうこの世の中の終わりだ」というくらいのことを感じると思うんですよ。でもそれが、時間がたつと、人間の力ってすごいので、そういう希望とかさえ失わなければ、そういうことだってできるんだというのは、伝えてあげたいと思いますね。あとはシンプルに、「命があれば何とでもなる」ということは伝えてあげたいですね。だから、自分の命を守るすべみたいなものは伝えてあげたいですね。

須江航さん、貴重なお話をありがとうございました。


NHK仙台放送局のサイト「あの日、何をしていましたか?」では、
みなさんの2011年3月11日について投稿を募集しています。
あの日、何をしていましたか?|NHK仙台 みんなの3.11プロジェクト