未来への証言 水族館の生き物たちを守れ

(初回放送日:2022年3月1日)

※NHK仙台放送局では震災伝承のため被災者の証言の音源を保存・公開しています。

震災当時、宮城県松島町にあったマリンピア松島水族館の職員・浅野祐市さんの証言です。
海のすぐそばにあった水族館は、かろうじて全壊を免れましたが館内は1mほど浸水し、建物の所々で被害が確認されました。当時47歳の浅野さんは設備の責任者として復旧にあたりました。

▽証言はこちらから(音声が再生されます)▽

黒住)水族館、どんな状況だったんですか?

浅野さん)泥とがれきしかない。流れついたものしかない。生き物は、水の循環が全部止まっていたんですよ。循環止まるってことはお魚が出す排泄物の中で自分たちが生きていくんですよ。ですから水がどんどん悪くなっていく。アンモニアが上がってくるんで。水温の調整もきかなくて、非常にまずい状態。

黒住)どんなことがまず、頭に浮かびました?

浅野さん)会社ダメになるのかなって正直思いましたよ。やっぱり。

黒住)どんな行動をされていたんですか? 

浅野さん)発電機を回すためだけに動いていました。発電機を冷やす冷却水がなかった。車でいうラジエーターの水なんですけど。夜に、水族館から高台、1キロも離れるか離れないかという所にため池があるんですけど、 そこの水をくんできて屋上にバケツリレーで水を補充して、10時ごろ、夜に発電機がなんとか回ったんです。 

黒住)みんなの結束というか?

浅野さん)ものすごいですよ、結束は。一致団結です。 やるしかない。とにかく必死だったということしか覚えていない。

黒住)1番苦しかった所は? 

浅野さん)電気がついて、事務所が2階だったんですけど、我々ここでこれをやっていていいんだろうかというのも思った記憶がありますね。世の中、人の命が何人、何万人っていうのも数字がバンバンバンって出てきて、そんな中で生き物のためにっていうことをあまりしゃべったことはないんですけど、とにかく我々は水族館の職員だったので、とにかく守るために必死ですよ。 

黒住)翌日にかけてはどんな感じですか?

浅野さん)1階部分は全部ヘドロだったんで、ひたすらヘドロの除去作業です。くんできた水をかけて、ヘドロを流して、ある程度取れたらタオルできれいに全部拭いて床面とか泥と塩をとにかく全部流さなきゃいけないっていう。ヘドロ掃除だけでも1週間、10日かかったんじゃないですかね。

水族館の生き物のうち、残念ながら5%ほどは命をつなぐことはできませんでした。
しかし、職員の多くが泊まり込みで復旧作業にあたり、わずかひと月半で施設を再開させました。
被災地の希望となったマリンピア松島水族館は2015年、老朽化のため閉館し、仙台市に新たにできた「仙台うみの杜水族館」が多くの生き物を引き継ぎました。
浅野さんはここで今も施設の管理に携わっています。

黒住)再開までの過程というのはどんな形だったんですか?  

浅野さん)魚も死んでしまったものもいっぱいいますけど、 他館からいろんな生き物をもらっている。
単独であの時点で魚を集めようとしても集まらない。 生き物のエサの支援もあったし、オープンの時にも生き物を直接もらっている。

黒住)支援をどのように感じましたか?

浅野さん)やっぱりうれしいですよね。良かったねっていう。頑張った甲斐があったねって。

黒住)再開の時はどんな雰囲気だったかっていうのは? 

浅野さん)1000人とか2000人来たんじゃないですかね。 よくこれだけ人来たなっていう。 まだみんな落ち着いていないだろう時期。 いっぱい再開を待ち望んでいたんだろうなっていうのはありますね。 開けて良かったんだろうなって。

黒住)震災の影響を受けても、今も生きている生き物はいますか?  

浅野さん)ペンギンとか、イロワケイルカとか。

黒住)場所は変わりましたけど、また震災を乗り越えて展示出来ているのは?

浅野さん)嬉しいことですよね。ずっと受け継いでいるような、そんな感じがありますから。

黒住)震災から今11年、今も水族館に携われていて、感じる部分はありますか? 

浅野さん)事前準備がうまくいっていた。 ドアに防潮板つけたり、 いろんな備品を全部そろえていたんですよ。 それがあって軽傷で済んだっていう。  いろんな対策されていたんで今がある。なかったら再建は難しかったんじゃないかな。