未来への証言 被災地を走ったバス

(初回放送日:2024年3月8日)
※NHK仙台放送局では震災伝承のため被災者の証言の音源を保存・公開しています。

震災当時、石巻市でバス運転士として働いていた千田政三さんの証言です。
千田さんは、同僚とともにバスの新規路線の下見に行った帰り道で地震にあいました。

▽証言はこちらから(音声が再生されます)▽

西尾)揺れを感じてすぐに地震だって分かりましたか?

千田さん)いや、車に乗ってた人たちみんな「何かタイヤパンクしたのかな」っていう感じで。ただ、見上げると電線揺れてたんで、地震だって分かりました。
営業所に戻って、一応、営業所にあるバス、50台くらいありますんで、霊園の方に、高台の方に移動しました。まさか来るとは思ってなかったですね。そのとき頻繁に出てた津波注意報、その程度だと思っていたんです。「ちょっと地震は大きかったよね。まさか津波来るなんて」って。誰も思ってないですよ。
営業所は建て替えたばっかで、腰辺りまでですから1mちょっとくらいですね、浸水しました。人には被害はなかったんですけどね。
会社の辺りは一週間水引かなくて、水没したまんまだったんで、会社の付近に一週間後に入れて、へどろのかき出しとか乗用車を片づけたり。片付けで大体10日くらいかかったと思いますよ。

バス会社も津波で大きな被害を受けましたが、地震発生からわずか8日後の3月19日、仙台と石巻を結ぶバスの運行を再開しました。鉄道も動かない中、当時唯一の公共交通機関として、被災地へ向かうボランティアや住民を運び続けました。

千田さん)一番最初に再開したのは仙台線。やっぱり、ボランティアの人とか避難する人たちが、仙石線が動いていなかったもので、バスしかないっていうので、うちの会社も、可能な限りバスを出して運んだような状況ですね。バスの発着所の辺り、まだへどろ乾いて黄砂みたいに風で舞ってるところに着けて、お客さんを乗せたっていう記憶があります。

西尾)時刻表はあったんですか?

千田さん)時刻表はないです。もうとにかく時間関係なく出しました。バスが到着する、出る、バスが到着する、出るで、もう休む暇もなく。多分ですね、一日100便くらいは出ていたと思いますよ。
結局やっぱり復興の支援にきたボランティアさんがほとんどなんで、荷物もかなり多かったし、疲れた感じはありましたね、かなり。ヘルメットとかリュックで入り切らなかった長靴とか、お客さんも50人以上乗ったんで、トランクルームって3つとかあるんですけど、ほぼ満タンでしたね。やっぱ復興支援だから荷物は多いんだなって思っていましたね。
その当時はお客様対応より荷物の出し入れが多かったんですよ。結構重労働でしたね。ただ、やりがいはありました。苦労しても結局お客さんに喜んでもらえたっていうのがやっぱり、あれですよね。私たちにできるのは、とにかく待たせないですんなりとにかく目的地まで可能な限り運ぶっていうのがやっぱりそれなんで、お客さんをとにかく運べたっていうのが一番ですかね。ボランティアとかしてくださった方々なんで、いくらでも快適に、あんまり揺らさない、とにかくショックを与えない、かつ時間にあまり遅れないっていう感じで心がけて運転はしていました。

西尾)当時のようすを振り返ってみてどうでしたか?

千田さん)立派なことは言えないけど、結局当時はがむしゃらに頑張ったって感じかなって思います。