未来への証言 消防 最前線の葛藤

(初回放送日:2022年3月9日)

※NHK仙台放送局では震災伝承のため被災者の証言の音源を保存・公開しています。

当時塩釜地区の消防で陣頭指揮にあたった志賀寧さんの証言です。
命を守る最前線にいた「あの日」について聞きました。

▽証言はこちらから(音声が再生されます)▽

岩野)揺れが収まった時、最初に考えたことってなんですか?

志賀さん)「被害情報をまず聞け」と。そこの確認が第一声だね。まもなくして119が1件だけ入ったんですよ。スーパーのダクト崩落。あとはシ~ン。全然119が入ってこなかった。これはおかしいなと。そのうちに津波の警報が出て。津波が来て、襲来して。そしたらとたんに119がガンガンガンガン入ってきて。もう指令課が追い付かないくらいリンリンリンリンって。

助けを求める声はその後もひっきりなしに寄せられました。しかし町は大津波に襲われているさなか。
志賀さんは、感情を挟む暇もなく、次々と厳しい判断を迫られます。

志賀さん)「いま木の上、街路樹の上にいるんだけど」「いまどこどこにいるんだけど」って言っているうちに「あーっ」とわめき声とともに途絶えてしまって。指令課員が追っかけるんだけれども「もうそれだめだから切れ」と。次がガンガン鳴っている状態だから。あきらめ的な部分もありますよね。あと津波が来た後に消防署の車庫に担ぎ込まれてきた。救急隊員は一生懸命心臓マッサージしているんですよね。ところが私が見たときは「何分以上経過しているし無理だから、そっくりカバーかけてここに安置しておけ」というような場もあったし。あの時はね、いま思い出してもどんな感情だったろうっていうのは全然思い起こせない。ただ必死だったっていうだけ。そこまで考える余地なんかないです。あの状況の中では。一斉に来るわけですから。必死でその時に判断の切り替えをしていかなきゃいけないという状況ですね。

命を守るはずの現場が、諦めざるを得ない状況。
無力感を抱いていた志賀さんは10日後、わずかな時間を見つけて初めて外に出ました。

志賀さん)一人で七ヶ浜行って、菖蒲田海岸の所に行きましてたたずんだんだけれども、なんて言うんだろう。ただいるだけで涙がボロボロ。感情がもう。なんだか知らないけど涙が出て。本当に言葉に表せないですよね。なんで助けられなかったんだろう。何が悪かったんだろう。

その後、松島町の観光協会長となった志賀さん。就任後すぐに防災マニュアルを作るなど、もっとも大切にしてきたのは観光客の命を守ることでした。

志賀さん)消防で経験してきたこと、ああいう経験をしたからこそ、やっぱり何か役立てる手段っていうのは形として残してあげるべきだと思うんですよ。それは人の命と災害に対する準備です。観光客として来たお客様の命を第一に考えなきゃいけない。避難訓練も必要だし、知識も準備だと思います。

岩野)3月11日。志賀さんはどう過ごされますか?

志賀さん)あえてアクションを起こす気はありません。自分の中では。静かに思い起こしている。それは毎年。やっぱり忘れられないですよ。3月11日。あんなに戦慄なことはないです。だから何年経ったって感情そのものはどこかでさわりたくない。逃げている部分も自分の中であります。ただ、自宅には当時の写真集、いろんな出版会社が出している写真集はとってあります。これはなくせない。でも見たくない。ただ忘れたくないがために置いている。そんなんだなあ。