東日本震災 原発事故
発生から10年

東日本大震災と、東京電力福島第一原子力発電所の事故の発生からきょう(11日)で10年です。住宅の再建やまちづくりなど、目に見える形での復興は一定の進展があったものの、福島県を中心に全国で今も4万人以上が避難生活をしているほか、経済活動や人とのつながりの再生は大きな課題となっています。10年の経過を震災の被害を乗り越える区切りとは思えない人も多く、長期的な視点で暮らしを支えられるかが改めて問われています。

死者・行方不明者少なくとも2万2200人

今から10年前の2011年3月11日の午後2時46分ごろ、東北沖でマグニチュード9.0の巨大地震が発生し、東北や関東の沿岸に高さ10メートルを超える津波が押し寄せました。

警察庁などによりますと、これまでに確認された死者と行方不明者は1万8425人となっています。

また、復興庁や自治体によりますと、避難生活による体調の悪化などで亡くなったいわゆる「震災関連死」は、東北や関東、それに長野県で、3月9日までに少なくとも合わせて3775人で「関連死」を含めた死者と行方不明者は少なくとも2万2200人に上ります。

住まいの整備 一定の進展

この10年で、住まいの環境整備は一定の進展がありました。

一時最大で11万人以上が暮らしたプレハブの仮設住宅は、宮城県では去年4月に全員が退去したほか、岩手県でも今月中に全員が退去する予定です。

自宅を失った人が入居する「災害公営住宅」も去年12月に計画済みのものはすべて完成しました。

いまだ避難生活 4万人超

しかし、避難生活をしている人は、住民の帰還の見通しが立っていない地域がある福島県を中心に、2月の時点で全国で4万1241人に上っています。

さらに、新たな住まいでは、経済的な負担やいわゆる孤立死などの問題も起きています。

“10年が区切り”受け止め分かれる

NHKが岩手県・宮城県・福島県の被災した人たちに行ったアンケートで、震災の発生から10年が経過することについて「震災の被害を乗り越える区切りとなる」と思うか尋ねたところ、「そう思う」「ややそう思う」と答えた人は44.5%だったのに対し「そう思わない」「あまりそう思わない」と答えた人も31.0%と受け止めは分かれています。

復興への関心が薄れることや人的・経済的な支援が減ることへの懸念の声も多く、被災した人たちの立場が細かく変化していく中、長期的な視点で暮らしを支えられるかが問われています。

宮城県内各地で朝早くから祈り

石巻市では震災で、関連死を含めて全国で最も多い3971人が犠牲になりました。

震災当時多くの人が避難し、市内の沿岸部を見渡すことができる高台、日和山では11日の朝早くから祈りをささげる人の姿が見られました。

震災が発生した日、日和山に避難した石巻市の40代の男性は「津波に追われながら避難してきた高台に来ると涙が込み上げてきました。幼いころから見てきた住宅地や学校はなくなりました。寂しいけど受け入れなければなりません」と話していました。

津波で多くの人が犠牲になった宮城県名取市の閖上地区では、朝早くから高台を訪れ、祈りをささげる人の姿が見られました。

名取市では震災で関連死を含めて992人が犠牲になりました。

このうち多くの人が亡くなった閖上地区では、海岸近くにある慰霊碑や高台に早朝から人が訪れ、献花台に花をたむけて海の方向に祈りをささげていました。

仙台市から来た40代の男性は「知人が亡くなったので毎年来ています。10年たって復興が進んでも心は癒されません」と話していました。

愛知県から来た60代の男性は「特別な日なのでここまで来ました。今もつらい思いをしている人もいるので震災を風化させないようにしたいです」と話していました。

東日本大震災で800人以上が犠牲になった南三陸町では、去年完成した「震災復興祈念公園」で早朝から祈りをささげる人の姿が見られました。

訪れた人たちは、公園の中にある43人が犠牲になった町の旧防災対策庁舎の近くの献花台に花を供え、手を合わせていました。

庁舎で働いていた知人や地元の友人を亡くした南三陸町の70代の男性は「『安らかにお眠りください』と伝えました。今までは支えられながら生きてきた10年でしたが、これからは自分たちで助け合いながら、頑張っていきたいです」と話していました。

塩釜市から訪れた70代の男性は「10年はあっという間でもあり、長かったという思いもあります。これからは漁業や農業など経済がさらに発展してほしいです」と話していました。

女川町の漁師、鈴木高利さん(54)は、東日本大震災の津波で妻の智子さん(当時38)と父親の金利さん(当時79)、母親の律子さん(当時79)の3人を亡くしました。

鈴木さんは、この10年、男手一つで3人の子どもを育てけさも大学生の長男と、短大生の長女、それに小学6年生の次女のために朝ご飯の準備をしました。

このあと、自宅の仏壇にごはんを供えて線香を上げ、15秒ほど静かに手を合わせていました。

鈴木さんは「震災から10年なのでゆっくり休んでほしいです。『子どもも大きくなったよ』と話しました。妻が亡くなってからは家事などをしましたが、改めてありがたみや苦労がよくわかりました。子どもたちの成長を見て、10年は早かったと思います」と話していました。

山元町にある深山の山頂では慰霊のために鐘を鳴らす人たちが早朝から訪れていました。

標高287メートルの深山の頂上には、東日本大震災で亡くなった人たちに祈りをささげるために建てられた鎮魂の鐘があります。

岩沼市に住む鈴木昭忠さん(76)は、震災の津波で友人3人を亡くしました。鈴木さんと亡くなった3人はタクシーの運転手仲間で、友達づきあいをしていました。

鈴木さんは22年前に宮城県に引っ越してきました。知り合いのいなかった鈴木さんにとって3人の存在はとても大切だったといいます。

鈴木さんは震災から10年がたつ今も、この場所を定期的に訪れています。午前6時すぎに朝日に照らされた鐘を鳴らして、亡くなった友人3人へ祈りをささげていました。

鈴木昭忠さんは「この場所に来ると亡くなった仲間に会えるような気がします。3人に手を合わせて、鐘を鳴らして10年というのを感じます」と話しています。

福島では

福島県伊達市の高校教諭、橘内優子さん(55)は、南相馬市の実家に住んでいた、父の木幡利信さん(当時74)、兄の訓彦さん(当時50)、叔母の訓子さん(当時62)、おいの雄介さん(当時20)の4人を津波で亡くしました。

4人のうち、訓彦さんと雄介さんの遺骨は見つかりましたが、利信さんと訓子さんは見つかっておらず、橘内さんは実家近くの砂浜で手のひらほどの流木を拾って、2人の遺骨の代わりとしています。

流木は、橘内さんの自宅に遺影とともに置かれていて、震災発生から10年となる11日、橘内さんは出勤前に静かに手を合わせ、祈りをささげました。

橘内さんは「10年は1つの区切りではありますが、体の半分を失ったような心の痛みは今でも消えません。少しずつ日常を取り戻していく中で、震災の記憶も薄れてきていますが、子どもたちに教訓を伝えていくことも大切だと思っています。また、自分が元気でいることも、亡くなった人の供養になると思うので、毎日明るく暮らしたい」と話していました。

南相馬市では、震災の津波で636人が犠牲になったほか、原発事故で、小高区の全域などが一時、避難区域に指定されました。

その小高区に住んでいた、会社員の佐々木嘉一さん(35)は、震災が発生した時は仕事中で、祖父の眞太郎さん(当時82)と祖母のマサ子さん(当時79)の安全を確保しようと、すぐに車を運転して自宅に向かいました。

しかし途中で、津波が目前に押し寄せたことから、車を乗り捨てて高台に逃げ、その日は、自宅に近づくことができませんでした。

翌日には、原発から20キロ圏内にある小高区の全域に避難指示が出され、それ以降、自宅に戻れない状態が続き、2人を捜すことができなかったといいます。

その後、山形県などへの避難を余儀なくされ、震災発生から3か月後、南相馬市の避難先から毎日のように遺体安置所を訪れた結果、2人の遺体を確認したということです。
佐々木さんが2人と最後に会ったのは、震災が発生した日の朝で、眞太郎さんからタバコを買うよう頼まれて預かった、1枚の1000円札が形見となりました。

震災発生から10年となるきょう、佐々木さんは早朝、職場に行く前に、南相馬市の高台にある2人の墓地を訪れ、祖父母の好きだったというコーヒーやたばこなどを供えて静かに手を合わせていました。

佐々木さんは、自宅が津波で被災したあと、行方が分からなくなった2人を捜索することすらできなかったことを、今でも悔やんでいるということです。

佐々木さんは、「自分は、祖父母の代わりに生かされた命だと思っています。復興といっても、とらえ方は人それぞれで、元どおりにはならない。かつて以上の生活になるよう努力していきたい」と話していました。

沿岸部の広い範囲が大きな被害を受けた福島県浪江町の高台にある「大平山霊園」では、朝早くから祈りをささげる人が訪れていました。

震災後、地元から避難し、現在は新潟県柏崎市に住む石川忠正さん(69)は友人3人や親族2人が津波に巻き込まれたということで、お墓の前で線香をあげて手を合わせていました。

石川さんは「10年は長いようで短かった。友人は3人ともまだ見つかっていないので早く見つかってほしいと思って祈りました」と話してました。

霊園からは午前6時前ごろ海に広がる雲から昇る太陽が見られ、福島県内で初めて建物の震災遺構として保存されることが決まった請戸小学校の校舎が照らされていました。

“奇跡の一本松” 震災10年の日の出

岩手県陸前高田市では津波に耐えて残った「奇跡の一本松」を朝日が照らしだしていました。

「奇跡の一本松」は、震災前におよそ7万本の松林が広がっていた陸前高田市の高田松原で津波に耐え、ただ1本残った松で、多くの人を勇気づけたことで知られています。

震災後、枯れてしまったあともモニュメントとして保存され、陸前高田の復興のシンボルになってきました。

11日朝の陸前高田市は、穏やかな朝を迎え、午前6時前に太陽がのぼってくると、静かにたたずむ一本松を照らしだしました。

世界からメッセージ

東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故から10年になるのに合わせて、世界中から様々なメッセージが寄せられています。

国連 グテーレス事務総長「厳粛な日」

国連のグテーレス事務総長は10日、ビデオで声明を発表し、「この日は1万8400人の死者、行方不明者を追悼する厳粛な日だ。最愛の方を失い、今も深い悲しみの中にある方々に、心より哀悼の意を表します」と述べました。

また、「安全上の懸念により、今も避難を余儀なくされ、故郷に戻ることがかなわない方々に思いを寄せている」と述べ、東京電力福島第1原子力発電所の事故の影響を受けている人々への連帯の気持ちを表明しました。

さらにグテーレス事務総長は、「日本は防災分野で世界をリードしている。この10年間、より安全な復興に向けて多大な投資をし、教訓を共有しようとしてきた」と日本の取り組みを評価した上で「各国は高齢者や障害者などもっとも弱い立場に置かれた人々を優先しなければならない」と述べて、国際社会に向けて災害への備えと災害弱者への支援を強化するよう呼びかけました。

アメリカの臨時代理大使「今後も同盟関係」

日本に駐在するアメリカのヤング臨時代理大使らは、ビデオメッセージをツイッターに投稿しました。

この中で、ヤング臨時代理大使は「この追憶と追悼の日に亡くなった方々に思いをはせ、今も続く東北の復興を支援し、今後もこの最も重要な同盟関係を築き続けることを誓う」と述べ、引き続き、被災地の復興を支援する考えを示しました。

また、動画の中では、この10年の間に日本に駐在した大使もメッセージを寄せています。

アメリカ軍による支援活動「トモダチ作戦」に携わったルース元大使は「日本が困難な時に支援し、勇敢な自衛隊員と協力して救助活動に取り組んだことを誇りに思う。あの日の記憶は私たちの心に残り続けるだろう」と述べ、当時を振り返りました。

また、ケネディ元大使は、「この10年で日米の絆がこれまでになく強くなるのを見てきた。あの日から生まれた協力するという慣習は今後も繁栄すると確信している」と述べました。

さらにハガティ前大使は、「東北の人々の強じんな回復力と復興の驚異的な進み具合には本当に感服する。日米の企業や団体が関係を強め未来に向け投資してきたことは両国の誇りだ」と述べました。

そして、動画の最後には、全員が日本語で「一緒に頑張りましょう」と呼びかけています。

IAEAトップ 「日本を支援」

IAEA=国際原子力機関のトップ、グロッシ事務局長はビデオでのメッセージを出し、日本に協力していく考えを改めて示しました。

ビデオメッセージでグロッシ事務局長は、10年前の福島第一原発の事故が起きてから数日後には、被害状況を分析するためIAEAが専門家のチームを日本に派遣し、数か月後には、世界の原発の安全確保を強化した「行動計画」を作成し、加盟国に承認してもらうなど対策に取り組んできたと説明しました。

そして「IAEAは過去10年間、日本への支援を続けており、今もわれわれは水の処分への取り組みを支援している」と述べ、福島第一原発のタンクにたまり続けているトリチウムなどの放射性物質を含んだ水の処分について、日本に協力する姿勢を改めて示しました。

グロッシ事務局長は2月、NHKのインタビューに対して「地元の人や周辺国が懸念を示す難しい状況を考慮すると、IAEAの存在が重要だ。われわれは日本政府の決定を待っていて、決定されれば協力できる」と述べ、日本政府が処分方法を決定した場合、周辺国などの懸念の声に対応するため、協力していく考えを示しています。

レディー・ガガさん「アイシテマス」

東日本大震災が発生した3か月後に海外のアーティストとしてはいち早く日本を訪れるなど被災地の支援に積極的に取り組んできたアメリカの歌手、レディー・ガガさんは、11日、ビデオメッセージを寄せました。

この中でガガさんは「ニュースで地震と津波の衝撃的な映像を見たのが、まるできのうのことのようです。私に何かできることはないかと考え、あの日、何度も電話をかけたことを覚えています」と10年前を振り返りました。

そして「何年にもわたって日本の復興について見たり聞いたりしているうちに、みなさんのまっすぐな優しさとお互いに愛をもって接する姿に尊敬の念を抱くようになりました。それは新型コロナウイルスによるパンデミックの中、世界中でたたかっている人々へも希望を与えていると思います」と述べて人々の復興への取り組みをたたえました。

その上で「感情的にも精神的にもいまだたたかっている人が多くいることも想像できます。だから、これからもみんなで支え合っていきましょう。お互いに優しく、愛をもって接してください。いつも、日本とより良い世界のために祈っています」と語りかけました。

最後に、また日本に戻れる日を楽しみにしているとして、日本語で「アイシテマス」と締めくくりました。

イスラエル軍医療チーム「一生忘れない」

発災直後から宮城県南三陸町で活動したイスラエル軍の医療チームの責任者がNHKの取材に応じ、「現地の人たちとの交流は一生忘れない」と話しました。

イスラエル政府は、発災から2週間後、30人あまりの軍の医療専門チームを日本に派遣し、津波で大きな被害を受けた南三陸町の避難所で、大規模な仮設の診療所を設置し、医療支援にあたりました。

当時、医療チームの責任者を務めたオフィール・コーヘン医師が10日、NHKの取材に応じ、「現地で見た衝撃は忘れられない一方で、大変な被害にもかかわらず、非常に丁寧で、規律や優しさを忘れない日本の人たちに感銘を受けた」と振り返りました。

コーヘン医師は今も、日本を離れるときにもらった「MINAMISANRIKU」と書かれた帽子を大切に保管していて、現地で交流を持った医師や、通訳のボラティアの人たちなどについて触れ、「日本での経験は深く心に残っていて、私たちを助けてくれた人たちのことは毎日、思い出すくらいだ。現地の人たちとの交流は一生忘れない」と話していました。

コーヘン氏は3年前に軍を引退したということで、「新型コロナが収まったら、南三陸町に行って、復興の様子を見たい」と話しています。

クロアチア大聖堂の司祭「犠牲者のための祈り」

クロアチアで、東日本大震災以降、毎年、犠牲者を追悼するミサを行ってきた大聖堂の司祭が、NHKのインタビューに応じ、「日本の犠牲者のために祈り、絆を深めることを考えてきた」と述べました。

クロアチアでは、日本にゆかりのある市民が中心となり、首都ザグレブの大聖堂で東日本大震災の犠牲者を追悼するミサが毎年、この時期に開かれてきました。

しかし、去年3月22日に起きたザグレブでの地震で、大聖堂の塔の先端が崩れ落ちるなどの被害を受けたため、ことしは屋外でのミサが予定されています。

これまで東日本大震災の犠牲者を追悼するミサを行ってきた、ヨシプ・クフティッチ司祭がNHKのインタビューに応じ、「東日本大震災で、あれほどまでの人々が犠牲になったと聞き、日本の犠牲者のために祈り、絆を深めることを考えてきた」と述べました。

一方、去年の地震で被害を受けたクロアチアに対し、日本側が義援金や物資を送るなどの支援活動を行っていて、クフティッチ司祭は、「日本の友人たちや、現地の日本大使館がすぐに行動に移してくれた。日本人は震災を乗り越え、クロアチア人も地震に対し、立ち向かっている。これまでにない連帯や、助け合いが生まれたと思う」と話していました。

カナダ トルドー首相「復興に向けた精神力に敬意」

10日、カナダのトルドー首相は「最愛の人を失った方々に哀悼の意を表します。また、日本の方々がこの10年間に復興に向かって示されたとてつもない精神力に敬意を表します」との声明を出しました。