緊迫のアフガン
13日間 退避ドキュメント

武装勢力タリバンが制圧したアフガニスタン。
日本政府は自衛隊機を派遣し、日本人女性1人とアフガニスタン人14人を国外に退避させた。
しかし、日本大使館や国際機関が雇用しているアフガニスタン人およそ500人を退避させることはできず「オペレーションは失敗だった」と批判が噴出している。
首都カブール陥落から退避までの13日間、現場で何が起きていたのか。
(渡辺信)

「カブールが陥落!」

8月15日午後5時すぎ。東京・霞が関の外務省。
「カブールが陥落!」
辻昭弘中東第二課長が4階の事務次官室に飛び込んだ。

部屋にいた森健良事務次官、山田重夫外務審議官、長岡寛介中東アフリカ局審議官ら幹部は全員があっけにとられ、一瞬、静まりかえった。

アフガニスタンの首都カブールが制圧される見方が出ていると、アメリカのメディアが報じたのはほんの数日前のことだが、それは「90日以内に」ということだった。ここまで早くカブールが陥落するとは誰もが予想していなかった。

外務省は、3日後の8月18日を期限とする退避計画を作っていた。民間のチャーター機で、日本大使館の職員やアフガニスタン人スタッフなど、およそ500人を退避させるというものだ。幹部らはその計画の最終確認をしていたところだった。

凍りつく通告

さらに続いた辻課長の発言に部屋の空気が凍りついた。

「アメリカ軍から『日本大使館の職員が軍用機に乗りたいなら、日本時間のきょう午後10時半までに空港に集合するように。それ以降は安全を確保できない』と通告されました」

この時点で外務省の計画は消えてなくなり、会議のテーマは新たなオペレーションの策定に切り替わった。外務省はまずアフガニスタンに残っている10人ほどの日本人に連絡を取り、意向を確認した。この時点で退避の希望者は1人。わずかに飛んでいた民間機で脱出できることになった。

日本人のメドがついたため、外務省は大使館職員の退避の検討に入った。
治安情勢が悪化した場合に備えて、日本政府はアメリカの軍用機に余裕がある場合は大使館職員を乗せてもらう「覚書」を交わしていた。
ただ、対象は日本人職員のみで、アフガニスタン人スタッフは含まれていない。

外務省は、まずは日本人職員12人をアメリカ軍機で退避させる判断を下したが、現地はすでに厳しい状況だった。

空港に行けない…“死を覚悟”

15日のカブール陥落時、高橋良明次席公使以下12人はカブール市内の警備会社の建物にいた。大使館が集中するエリア「グリーンゾーン」から退避するよう警備会社から求められたからだ。

12人はアメリカの通告期限である日本時間午後10時半までに空港に行かなければならない。刻々と時間が過ぎ、残り1時間もなくなった中、6台の車に分乗して出発したが、武装した民兵が現れたり、前方で銃撃戦が発生したりで、引き返さざるをえなかった。空港までわずか2キロメートルの距離だったが、期限には間に合わない。

空港への移動に見通しが立たない中、「もう脱出は無理かもしれない」という雰囲気が漂った。死を覚悟した者もいたという。


業を煮やした森次官は、アメリカのウェンディ・シャーマン国務副長官に電話。アメリカ軍のヘリコプターによる移動を要請したが、「無理だ」と断られた。しかしヘリで上空から護衛する「エアカバー」は可能だという言質を得て、12人はヘリに付き添われながら、翌16日未明、ようやく空港にたどりついた。

さらに困難は続いた。
12人が到着した場所は、アメリカ軍の駐機場から遠く離れていた。
駐機場までの移動を試みようとしたが、すでに空港が大混乱に陥っており、翌日まで足止めを余儀なくされたのだ。

そのとき、近くにいたのはイギリス軍の輸送機だった。
トルコのイスタンブールにいる岡田隆アフガニスタン大使がイギリスのローリー・ブリストウ大使に電話。承諾を得て、17日にようやくイギリス軍機でUAE=アラブ首長国連邦のドバイに脱出することができたのだった。

自衛隊機の派遣へ

大使館職員は退避させたが、残されたアフガニスタン人は500人を超える。その退避が日本政府に緊急課題として重くのしかかった。また新たに日本人ジャーナリストの安井浩美さんら日本人2人から退避の希望が寄せられていた。
空港からの脱出手段が徐々に閉ざされていく中、政府内で、水面下に検討が進められていたのが自衛隊機派遣だった。

きっかけはカブール陥落に先立つ14日夜。
先に述べたように民間機での退避計画がすでに進められていたが、これとは別に、外務省の山田外務審議官が防衛省の増田和夫防衛政策局長に電話し、自衛隊機の派遣が可能か、検討を依頼した。ところが翌15日のカブール陥落を受け、外務省は防衛省に対し、検討を保留するよう要請する。

なぜなのか。
外務省関係者は「大使館職員の退避に全力をあげていたという事情があった。また、自衛隊機を派遣するなら、そのための計画を作ってから検討を要請した方がよいのではないかとも考えた」と証言する。

大使館の日本人職員を17日に退避させたあと、外務省は、18日、19日と、カブールに軍を駐留させている国に対し、輸送機などに乗せてもらえないか要請を続けた。
しかし各国とも自国民の退避で精一杯で、色よい返事は得られなかった。

大使館職員の退避後、ただちに自衛隊機派遣の意思決定を行うことはできなかったのだろうか。先の外務省関係者は「オペレーションとして、まずは他国に依頼する方が早いと考えた」と説明する。

安全は確保されているか

各国に対する退避支援の要請が難航する中、自衛隊機の派遣が再び検討の俎上にのった。
ただ、乗り越えなければならない条件があった。

自衛隊法は、84条の4で、日本人などの輸送に関し「当該輸送を安全に実施することができると認めるときは、当該邦人の輸送を行うことができる」としている。
つまり、安全が確保されていると確認できなければ、実力組織の自衛隊といえども派遣はできない。

外務省と防衛省は、自衛隊機派遣の前提となるカブールの空港の安全について情報収集を進めた。すでに大使館職員は現地から退避しており、空港を管理しているアメリカ軍から情報を取る必要があった。
18日から20日にかけて、アメリカ・ワシントンにある日本大使館の防衛駐在官や自衛隊出身の大使館職員が、アメリカ統合参謀本部やアフガニスタンを管轄するアメリカ中央軍司令部と連絡を取り合い、空港の治安状況の確認にあたった。

事務レベルで「行ける」となったのは20日。
夕方に外務省内で、外務・防衛の課長級会議を開催し、派遣に向けたおおまかな方針を確認した。
そして22日夕方。総理大臣公邸で菅総理大臣のもと、秋葉剛男国家安全保障局長、沖田芳樹危機管理監、森次官、島田和久防衛事務次官らが最終協議。自衛隊機の派遣方針を決める。


そして翌23日にNSC=国家安全保障会議の4大臣会合を経て、岸防衛大臣が自衛隊機による輸送を命令した。
カブール陥落から8日経過していた。

厳しいスケジュール 退避作戦発動

25日夜、航空自衛隊のC130輸送機2機がパキスタンの首都イスラマバードに到着。イスラマバードとカブール間で退避希望者のピストン輸送を行う計画だ。


カブールの空港を管理するアメリカ軍の撤退期限を踏まえると、自衛隊が活動できるのは25日夜、26日、27日。厳しいスケジュールだった。

しかも空港までの移動が最大のハードルとして立ちはだかった。
タリバンが設けた検問を通るには、アメリカ軍を通じてタリバンに通過者のリストを提出し、事前に許可を得なければならない。
政府は、退避希望者1人1人にリストを渡してよいか確認したうえで、タリバンから許可が出るのを待った。辞退者も多く出たという。

26日に入り、アメリカの依頼でアフガニスタン人14人をイスラマバードに輸送した。
そして日本時間の夜になり「アメリカ軍とタリバンとの間で検問通過の合意がまとまりそうだ」という情報がもたらされた。
これを受け、ただちに日本人とアフガニスタン人の退避作戦が発動された。

最悪のタイミング

「コンボイ・オペレーション」と関係者の間で呼ばれた退避作戦は、26日の日本時間午後10時半ごろ(現地時間午後6時)から始まった。
カブール市内の空き地に大使館がバス27台を用意。安井さんら日本人2人とアフガニスタン人およそ500人が乗り、まさに出発するときだった。

カブール空港のゲート付近で大規模な爆発が発生。空港周辺は大混乱に陥った。
アメリカ軍が空港ゲートを閉鎖し、タリバンも検問を取りやめた。
このため退避を断念し、退避希望者はいったん解散することとなった。

そして自衛隊活動の事実上のリミットとなる8月27日を迎える。
改めて空港への移動を目指すとしても、タリバンの検問と、アメリカ軍が閉鎖した空港ゲートをどうやって通過するかが大きな課題だった。

日本時間の未明、アメリカ軍から「空港のゲートは開けるが、タリバンの検問は通過できないかもしれない」という情報が入る。
続いて、タリバンとパイプを持つカタール政府からドーハの日本大使館に「アフガニスタン人でなければ検問を通過させることでタリバンが合意した」と連絡が入った。

この時点で、アフガニスタン人の退避は諦めることとなった。
外務省は、日本人2人に退避の意思を再度確認。1人が辞退し、結局、退避希望者は安井さんのみとなった。
そして日本時間の午後10時すぎ、安井さんは、自衛隊機でカブールからイスラマバードに脱出したのだった。

残された課題

9月2日に開かれた自民党の会合では「自衛隊機を出すのが遅れた印象は否めない」とか「現地のアフガニスタン人職員を含めた退避が重要で、『邦人が退避できて良かった』ではない」といった指摘が相次いだ。

自衛隊機を派遣したのは遅かったのか。

比較対象となるのが韓国の対応だ。
自爆テロが起きる前日の25日には韓国大使館のアフガニスタン人スタッフを含むおよそ400人がバスに分乗してカブールの空港に入り、26日に韓国に到着している。


注目すべきは、韓国が軍の輸送機を派遣する決定を行ったのが15日だという事実だ。日本より1週間以上早い。

なぜこれほど意思決定が早かったか。
かつて韓国は、アフガニスタンの復興支援に関連して、カブールの空港で軍用機による輸送活動を行っていた実績があった。
外務省関係者は「韓国はカブールの空港に地の利があった。それ以上に、軍用機を飛ばすことにためらいがなかった」と打ち明けた。

自民党内では「危険な状況にある関係者を救うために安全を確認するというのは、国民の感覚からしてもどうなのか」などと、法改正を議論すべきだという意見が出ている。
自衛隊派遣の要件を緩和すべきということだろう。


今回の派遣は自衛隊法84条の4に基づいて行われたが、安全が確保されていない状況での輸送はそもそも想定していない。また、84条の3は緊急事態の際、自衛隊が日本人の警護や救出などといった保護措置を取れるとしているが、今回のカブールのような無秩序状態での保護措置までは想定していない。

今後、同様の事態が発生して自衛隊派遣を検討する際、どこまでリスクを許容するのか。またそのための装備、予算をどこまで認めるのか。国会でも幅広く議論し、国民のコンセンサスを得ておくことが必要だ。
(肩書きは当時)

政治部記者
渡辺 信
2004年入局。釧路局、サハリン、仙台局、福島局などで勤務。現在は政治部で外務省サブキャップ。