ターを抱いて、デニーが行く

玉城デニー。
去年、死去した翁長雄志前知事の後継として、県民から圧倒的な支持を得て沖縄県知事に。10月4日で就任1年を迎えた。
元ラジオDJで有権者からの人気も高い。明るさとソフトな物腰で翁長前知事とは違う色を出し、アメリカ軍普天間基地の移設問題解決を目指した。もがき続けた1年だった。
(坂井一照、瀬上祐介)

翁長雄志、死してなお

「沖縄の政治家って言ったら、瀬長亀次郎と西銘順治と、翁長雄志の3人だね」

唐突に、タクシーの運転手から諭すように言われた。
8月下旬、翁長が亡くなって1年をしのぶ会の取材に向かうタクシーの車内でのことだ。たわいもない会話をしていた運転手が、翁長の話題になったとたん発したことばだった。

普天間基地の名護市辺野古への移設に反対し政府と激しく対立した翁長。

元自民党県議で沖縄県連幹事長も務めた保守系の政治家。那覇市長を務めた後、2014年、移設阻止を掲げて沖縄県知事選に立候補し革新系の支援も受け初当選を果たした。1期目途中、志半ばで病に倒れた。

瀬長亀次郎は、最近、ドキュメンタリー映画も公開され話題に。

戦後アメリカ統治下の沖縄で、弾圧に屈せず「不屈」の精神で、沖縄の本土復帰に尽力した、沖縄の革新を代表する政治家だ。

西銘順治は、革新県政に代わり3期12年にわたって知事を務めた沖縄の保守を代表する政治家だ。

「沖縄の心とは」と問われ「ヤマトンチュ(本土の人)になりたくて、なり切れない心」ということばを残した。

およそ900人が参列した翁長をしのぶ会。

そこにはもちろん現知事・玉城デニーの姿もあった。

「翁長さんの思いを受け継ぎ全身全霊で取り組んでいくことを誓う」とあいさつした玉城。
彼らと並び称される存在になるのだろうか。

玉城デニー、この1年

「はいさい、ぐすーよー。ちゅーうがなびら」
(「こんにちは、皆さん。ご機嫌いかがですか」)

毎週月曜の午前9時。県庁内に、明るいトーンの庁内アナウンスが響く。

声の主は玉城本人だ。名付けて「モーニング・スマイル」。

かつてDJだった玉城が、就任直後から始めたもので、県の取り組みを毎週、ポップなテンポで伝えている。静かな県庁内に響くDJ調にはギャップも否めないが、職員の中には、玉城が知事になって県庁内が明るくなったという声が多い。

その明るくソフトな性格は、移設問題で対立する政府の中にも、好意的に受け止める声が少なくない。

ある政府関係者は「閣僚との会談の際は、冒頭のカメラ撮影の時こそ表情を崩さないが、記者が退席したあとは、明るく穏やかな感じで話しやすい」と語る。玉城自身、その“強み”を生かし移設問題を解決しようと取り組んできた。

ことし6月、みずから全国を行脚する「トークキャラバン」を開始。

沖縄の過重な基地負担の軽減に向けて全国の世論を喚起したいというものだ。

7月には、新潟県湯沢町で開かれた「フジロックフェスティバル」にも出演。
もちろん、現職知事が出演するのは初めてのこと。

沖縄の基地問題について発信した。
バンドマンだった経験を生かし、CCR(クリ-デンス・クリアウォーター・リバイバル)の「雨を見たかい」と、ボブ・ディランの「見張り塔からずっと」の2曲を熱唱し会場を沸かせた。

政府には「対話」で

翁長とは違うカラーを打ち出す玉城。

移設問題で対立を続ける政府とは「対話」による解決を目指すが、「辺野古移設が唯一の解決策」という主張を前に、ことごとく跳ね返されてきた1年でもあった。

「早急に話し合いの場を設けていただきたい」
玉城が安倍総理大臣と会談したのは就任から9日目の去年10月12日。

翁長が安倍と会談したのが就任の4か月後だったのと比べると異例の早さだった。

期待も高まったが協議は平行線のまま。

その後、副知事と官房副長官との間で1か月近く協議も行われ、玉城は再度、安倍と会談するも状況は変わらず。

そして12月、政府は辺野古沖での土砂投入に着手した。

大型トラックの荷台に乗せられた大量の土砂が海面に次々と落とされていく。知事就任から2か月後のことだった。

翌日、辺野古に出向き、抗議活動をしている人たちの前で演説を行った玉城は、「政府との対話は継続するが、対抗すべきときには対抗する。勝つことは難しいかもしれないが絶対にあきらめない」と宣言した。

ことし2月には、辺野古沖の埋め立ての賛否を問う県民投票を実施。

「反対」の票は、投票した人の7割以上に上った。

玉城は、この結果を持って、再度、政府に対話による解決を求める。打ち上げたのは「SACWO」。
日米両政府が沖縄の基地問題を協議してきた「SACO」(沖縄に関する特別行動委員会)に沖縄を加えた、
「SACO with OKINAWA」の略だ。

ユニークな提案に見えるも、外交問題は政府間の事項と、これも拒否されてしまう。

こうした状況に玉城は、ウチナーグチ(=沖縄のことば)を交えながら苦しい胸の内を周囲に漏らした。

「ふざけるなという感じだ。わじわじする(=腹が立つ)」

玉城は、「対話」ではなく対抗措置を強めていく。

法廷闘争に

4月の衆議院沖縄3区補選、7月の参院選と、自身が支援した移設反対を訴える候補者が連勝。

玉城はこうした民意を背景に7月と8月、国を相手取り2つの裁判を起こす。翁長と同様、法廷の場に解決を求めることになった。

ただ県庁内では、
「翁長前知事の時と同様また負けるのでは?」
「これで負けたらもう打つ手がない。知事の求心力も下がるのでは」
と懸念する声が聞かれる。

辺野古での工事はどこまで進んでいるのか。

去年12月に初めて土砂が投入されたのは南側区域のうち6ヘクタール余りの区画。
ことし3月からは、西隣の33ヘクタールの区画でも埋め立てを開始した。

これで埋め立て区域全体のおよそ4分の1で工事が本格化。
政府は、来年夏にも、南側区域の埋め立てを終えたいとしている。

一方、東側区域では、110ヘクタール余りのうち73ヘクタールで軟弱地盤が見つかり、地盤を強固にする改良工事に3年8か月程度かかるという試算も出ている。
これに伴い、工事の設計変更が必要なため、政府は沖縄県に対して年明けにも申請を行う方針だ。
新たなカードを手にすることになる玉城。硬軟どちらで立ち向かうのだろうか。

就任から1年の10月4日に開いた記者会見で玉城は、「怠慢」ということばで、政府を厳しく批判した。

「安全保障に関わるということを理由に、国どうしの合意だけで進められるのは政治の怠慢と申し上げなければならない」

迫る別の課題も

手詰まり感が見える玉城だが、別の課題にも直面しようとしている。

3年後に迫る沖縄振興計画の改定だ。

10年ごとに改定されるこの計画では、国からの高い補助率などの特例制度が盛りこまれているが、政府側には「本土との格差是正を目的にできた計画を、今後も続けることが妥当なのか」
との声も聞かれる。移設問題で政府との対立を続ける中、沖縄にとって有利な内容を引き出せるのか、政治家・玉城の交渉力が試される。

さらに、来年の5月か6月には沖縄県議選が行われる。

現在、48の議席のうち、玉城を支える社民や共産など県政与党勢力が26議席と過半数を維持している。
このため移設阻止を目指して訴訟を起こす際の議決などもスムーズだ。

次の県議選で県政与党で過半数を維持できるかどうかは、玉城が今後も移設阻止に向けたさまざまな策を講じることができるかに直結する極めて重要なものとなる。

移設阻止を掲げてきた玉城が、現在の状況で求心力をいかに保つかは、彼にとって当面の大きな課題となる。

2年目の「猪突猛進」

9月29日。就任後初めて沖縄を訪れた河野防衛大臣との会談に臨んだ玉城。

新防衛大臣の河野が玉城に言ったのは、
「普天間基地を1日も早く全面返還するため、辺野古への移設を実現しなければならない」
この1年、政府側から何度聞いたかわからない、そのことばを聞く玉城は無表情とも言えるほど淡々としていた。

跳ね返されても、跳ね返されても、「対話」による解決を求めてきた1年。
2年目の玉城はどのように自らのカラーを追求していくのだろうか。彼の声は、思いの通りに届くのだろうか。

就任から1年を迎えた10月4日の朝。
いつものように県庁1階のロビーで1人待っていると、玉城は午前9時前に登庁してきた。いつもと違い、辺りをゆっくりと見渡すような仕草を見せた。

「1年前を思い出していた。県庁に来るとたくさんの人たちが出迎えてくれてね、花束をもらって」

「子どもたちもいて。2階からもわーって手を振ってくれたんだ」

つかの間の感慨に浸る玉城の前途には、いくつもの難局が立ちはだかっている。
玉城はこちらを見て、自らを奮い立たせるように言った。

「猪突猛進。これしかない。いのしし年だしね」

(文中敬称略)

沖縄局記者
坂井 一照
2010年入局。新潟局、名古屋局を経て、現在、玉城知事担当。
沖縄局記者
瀬上 祐介
2005年入局。長崎局、政治部、経済部を経て、現在、沖縄県政キャップ。