孤立、別れ、とどまる決意
海沿いの集落の1か月
暗い避難所で寄り添う被災者たち。
雨水をためて洗濯。
2次避難する人たちとのしばしの別れ。
動画に映されていたのは、孤立に耐え再生を誓う、ある集落の姿です。
「それでも、能登にとどまる」
動画を撮り続けたのは、1人の住民の男性。
ふるさとと向き合った1か月の記録です。
(芋野達郎、柳澤あゆみ)
映し出された「孤立地区」
最初に動画が寄せられたのは1月10日でした。
道路が寸断され、孤立が続いていた輪島市七浦地区(しつら)の避難所の様子が映されていました。
停電し、暗い集会所の一室で、被災者たちが、文字通り身を寄せ合って過ごしています。
今必要なものを問われると、「電気がはやく来てほしい」「灯油でストーブをつけているが夜は寒い」などと思いを口にします。
動画を撮影したのは、みずからも被災した東栄一さん(ひがし えいいち・73)。
「足りないものは何ですか?」
「体調はどうですか?」
携帯電話のカメラで、地震による被害や支援物資の様子を撮影、被災者に“インタビュー”も行います。
仕事場で被災 徒歩で自宅に
東さんは、1月1日、別の地区にある寺院で、御朱印を書く仕事をしていて被災しました。
「ガタガタと天井が崩れ、体にあたりました。一瞬『もう終わりかな』と」
なんとか仕事場を抜けると、観光客の女性が崩れた屋根に挟まり、動けなくなっていました。その場にいた全員で屋根をどかし、救出。泣き崩れている人も多くいたといいます。
その夜は避難所に身を寄せることに。
妻と2人暮らしだった東さん。携帯に電話しましたが、電波が通じず、安否がわかりません。
自宅は倒壊していないだろうか、妻は無事だろうか、不安な夜を過ごしました。
翌2日、徒歩で自宅に戻ることを決意し、ひび割れ、隆起した道を避けながら、2時間半歩いて、なんとか七浦地区に帰り着きます。
自宅近くの集会所で妻と再会し抱き合ったといいます。
孤立した地区「忘れられているのでは・・・」
孤立した七浦地区。
連絡が通じず、支援物資も届かない。
「忘れられているのではないか」という不安と戦いながら、集落の住民どうしで支え合って過ごしました。
「1月3日までは、せんべいをかじったり、正月の残り物を自宅から持ち寄ってみんなで食べて過ごしました。4日目に自衛隊のヘリコプターが来た瞬間、『俺たちは大丈夫なんだ』という安心感が広がりました」
私たち取材班が、地区に戻った東さんと連絡を取れたのは10日。
東さん夫妻の安否がわからず心配する娘さんが、NHKの情報提供窓口「ニュースポスト」に投稿を寄せたことがきっかけでした。
携帯電話の電波が復旧した東さんと通話ができ、公民館の自家発電機を使って充電もできることを確認。
その日から、東さんは、地区の現状を伝えたいと動画を撮って記者に送ってくれるようになりました。
七浦地区生まれの東さんは、医療ジャーナリストとして東京で活躍し、8年前、66歳の時にふるさとに戻りました。
「孤立した地区のことを全国の人に知ってほしい」
そんな思いから撮り続けた動画の記録です。
動画に映された「孤立地区」
《1月10日~14日の動画はこちら👇》
(1月10日)
動画には、倒壊した住宅や神社の灯篭、それに停電でうす暗く、雨漏りが続く部屋の中が映されています。
携帯電話での「自撮り」インタビューで、東さんは窮状を訴えました。
「10日間、入浴できず、ぬれたタオルで体を拭くような生活です。みんなのストレスがたまってきています」
(1月11日)
落下した屋根の瓦が、道路に散らばったままになっています。
住宅の中は、家具が散乱し、手つかずの様子。
食事は、自衛隊が届けてくれたカップめんです。
雨水をためて、4日ぶりに手洗いで洗濯をした衣類を干す様子も映されています。
(東さん)「手で絞るため、なかなか乾きません」
(1月12日)
東さんが気にかけていたのが、高齢者の体調です。
この日は、避難所で過ごしていた90代の2人の男性のもとを訪ねました。
「(発災後)医者には行けていない」
「生活も住宅も、不安だらけ」
孤立集落になかなか医療が届かない現状が映されていました。
(1月13日)
この日は天候が悪化。
横殴りの雨や雪の中、公民館に支援物資の食料を受け取りに行く東さん。
この日は、レトルトの牛丼や親子丼です。
(東さん)「ありがたいですが、栄養の偏りも心配です」
前向きなニュースもありました。
地区につながる県道が時間帯を区切って通れるようになったという情報が入ってきます。
孤立解消まであと少し。
(1月14日)
道路が一部通行できるようになったため、1日から寺院に置きっぱなしになっていた自家用車を取りにいきました。車は無事、駐車場にありました。これで買い物にも行けるようになります。ほっと一息。
この日の動画には、地区にDMAT=災害派遣医療チームが入った様子も映されています。
(東さん)「医師や看護師が入ってくれて、健康に不安がある方は安心できたようです」
《1月15日の動画はこちら👇》
(1月15日)
一部で電気が復旧し、避難所の公民館でも電灯や暖房がつきました。
「うれしいです」「あったかいです」
住民たちの表情も明るく見えました。
一方、電気がついたことで、公民館の中の散乱状況も明らかに。
(1月16日)
この日、石川県が、七浦地区の孤立解消を発表。
自衛隊の隊員が、瓦が落ちた屋根をブルーシートで覆う応急処置に追われる場面も映されています。
公民館では、電気が復旧したことで、久しぶりに炊飯器でご飯を炊きました。
「メニューはご飯と豚汁とサラダです。ご飯が炊けて、保温もできるのでありがたいです」
(1月17日・18日)
東さん夫妻は、金沢市内の大型銭湯にでかけました。
入浴は地震前日の大みそか以来17日ぶり。
地区に戻ると、公民館に、仮設トイレや給水タンク、洗濯機が設置されていました。
2次避難など相次ぐ 「別れはつらいけど・・・」
(1月19日)
さっそく、洗濯機を使う住民の姿が。
しかし、避難生活が長引く中、地区を離れ、家族のもとなどに避難する人も出始めます。
12日の動画で体調の不安を訴えていた90代の男性も、小松市の息子のもとに身を寄せることになり、この日、地区を後にしました。
走り去る車に、東さんはこう語りかけます。
「また戻ってきてくださいね」
東さん「不自由は感じますが、私はここにとどまろうという思いが強いです」
(1月21日)
集団で2次避難する動きも始まります。
山あいの集落では、11人が地区を去ることになりました。
動画には、荷物を詰めたバッグを持った人たちが市が用意した2台の車に乗り込む様子が映されています。
車が出発すると、見送りに集まった人たちが「体に気をつけてね」「また戻ってきてね」などと声をかけていました。
東さん夫妻もしばらく離ればなれになることに。
妻は県外の娘のもとに身を寄せる一方、東さんは、地区の復旧・復興のためにできることをしたいと、残ることにしたからです。
この日、東さんの言葉にはふるさとへの思いがあふれていました。
「戻れないような郷里にはしたくない、能登はこれで負けません。がんばってもう一度、輝けるまちにしたい」
《1月22日・23日の動画はこちら👇》
(1月22日)
停電が続いていた東さんの自宅でも、ようやく電気が復旧。
蛍光灯がついた明るい部屋で、冷蔵庫や電子レンジが使えるようになった様子が映されています。
残された人たちの思い 「眠れない」
(1月23日)
この日も別れが。
80代の女性が、金沢市の息子のもとに避難することになりました。
女性は「戻ってくるにもその気力もないので、もう地区には戻らないつもりです」と心情を吐露します。
東さんは、「お別れになっちゃうのか・・・」と言葉を詰まらせます。
この日の動画には、集団で2次避難した集落の区長を務める高嶋幸雄さんの話も記録されていました。
(高嶋さん)「今までは集落の住民の2次避難を手配するために必死でしたが、一区切りがついて、先のことを考え始めると、だんだん寝られなくなってきました」
東さん「先が見えない状況で、今後も地区を出て行く人が増えていくのではないかと思います。ライフラインが復旧したあとに、帰ってきてほしい思いはありますが、それぞれが最善の判断をしてほしいです」
(1月24日)
雪が降り、冷え込む地区。
一部の郵便局で、手紙やはがき、そして、すでに引き受けていた荷物の引き渡しが始まり、東さんは隣の地区の郵便局を訪れました。
被災者のペットを支援している団体が地区を訪れ、ペットフードやトイレシートを提供。
猫を飼っている男性は、これまで自身の食事などを分け与えていたということで、「助かります」とうれしそうです。
(1月25日)
断水が続く中、避難所となっている集会所の前に簡易型の風呂が届き、試験的な運用が行われていました。近くでくんできた山水をわかして利用します。
支援物資も徐々に充実してきていて、新品の下着やズボン、コートなどさまざまな衣類の入った段ボールが積まれている様子も。
(1月26日)
2次避難などで住民が日に日に減る中、複数の集落の区長が集まり、今後の避難所運営などについて話し合いが行われました。
区長会の会長「避難所の役割が変わってきていると感じています」
支援物資としてレタスやダイコン、ネギなどの野菜が届いた様子も。
東さん「野菜が不足していたので、大変ありがたいです」
(1月27日)
この日は、入浴や買い物ができる施設へのバスが週に2回運行されることが決まりました。
孤立は解消されたものの、道路はアクセスしづらい状況が続いていて、発災から一度も入浴できていない被災者もいるのではないかということです。
《1月27日・28日の動画はこちら👇》
(1月28日)
避難所となっている七浦公民館の部屋も荷物が減り、がらんとした様子。七浦公民館の避難者は、当初の11人から3人に減りました。
東さん「少しずつ、応急措置や建物の修繕が進んできました。ただ、被災者は全員、心に癒えない傷を持っています。被災者を勇気づけるように、この先の計画など少しずつでも提示してほしい。能登は能登であり続けるし、可能性はまだあります」
(1月29日)
入浴支援がスタートし、隣の地区に自衛隊が設けた入浴施設から帰ってきた女性にインタビュー。
「ゆったり入れました。熱めとぬるめとを用意してくれていて、気持ちよかったです」
(1月30日)
避難所となっていた七浦公民館は、全員自宅に戻るなどしたため、避難所としての機能を終えることに。この日の動画には、人がいなくなった和室が映されています。
今後は、住民のためのイベントの開催など通常の活動再開も検討します。
(公民館の館長)「できる限り皆さんの役に立てるよう、寄り添うような形で協力してやっていければ」
(1月31日)
震災から1か月を前に、地区を歩いた東さん。
天気は晴れ。道ばたで、ふきのとうが顔を出しているのを見つけました。
(東さん)「まだ1月なのに、もう芽吹いてきました。春ですね、もうすぐ」
日常生活を取り戻す 決意の1か月
「孤立状態の地区相次ぐ」「停電続く」「2次避難急ぐ」。
この1か月、能登半島地震のニュースを連日伝えてきました。
ただ、東さんが送ってくれる動画には、私たちの取材ではなかなか届かない、生活の風景や住民の思いが詰まっていました。
人口350人の七浦地区に残っている人は、徐々に減って147人(2月1日現在・地区まとめ)。
けが人の集計や住宅被害の調査は進んでおらず、被害の詳細はわかりません。
残されたインフラが復旧し、道路事情が改善されたときに、住民たちは戻ってくるのか、東さんには不安もあります。
東さんが1枚の写真を見せてくれました。
地震の前、夏に自宅近くから撮った、一番好きな海岸の風景です。
季節によって違う表情を見せる七浦の自然。
子ども時代、海に潜って遊ぶのに夢中だったといいます。
両親と過ごしたふるさとに、とどまる。そしてできれば、多くの人に帰ってきてほしい。
今の東さんの思いです。
「きれいな海を見ていると心が休まります。出て行った人が戻れるような、安心して暮らせるような場所にしなければと思います。日本中からさまざまな形で応援の物資や応援の声をたくさんいただきました。あとは、この声を受けて私たち自身が家に帰る努力、日常生活に戻ろうとする努力をしないと。『日常生活を取り戻してくれ』という応援だと思いますから、その気持ちに私たちが応えていかなければならないと思います」
(2月2日 おはよう日本で放送予定)
- 機動展開プロジェクト記者
- 芋野 達郎
- 2015年入局。熊本地震や北海道胆振東部地震を取材。ネットワーク報道部を経て2023年8月から現所属。
- 機動展開プロジェクト記者
- 柳澤 あゆみ
- 2008年入局。石巻市担当時代、東日本大震災を取材。カイロ支局などを経て2023年8月から現所属。