沖縄戦79年 渡嘉敷島「集団自決」 生き延びた人たちは
- 2024年04月05日
1945年3月28日、沖縄県の渡嘉敷島では、いわゆる「集団自決」が起き、300人以上の住民が亡くなったとされています。それから79年となることしの3月28日、渡嘉敷島では集団自決を生き延びた人や遺族などが参列して慰霊祭が行われました。
NHK沖縄放送局 石川拳太朗記者
渡嘉敷島で行われた慰霊祭
79年前の1945年3月28日、沖縄本島の西30キロにある渡嘉敷島では、前日にアメリカ軍が上陸したことによる混乱の中、住民たちが「集団自決」に追い込まれ、島の北部に位置する北山(にしやま)で手りゅう弾を爆発させたり、縄で絞め合ったりして命を絶ちました。
渡嘉敷村ではこの「集団自決」で300人以上が亡くなったとみて3月28日を村の慰霊の日としていて、犠牲者の名前が刻まれた「白玉之塔」で毎年、慰霊祭を行っています。
28日は集団自決を生き延びた人や遺族、それに地元の小中学生などおよそ70人が参列し、全員で黙とうをささげたあと、焼香して犠牲者を悼みました。
「集団自決」生き延びた人たちは
「白玉之塔」の近くで、当時のことを知る人たちに話を聞くことができました。
大城静子さん(90)は、母親や妹などが犠牲になり、自身は死んだふりをして生き延びました。
毎年3月に入ったら夜、眠っていてもやっぱり当時のことを思い出す。孫たちには「戦争はあんたたちの時代からはなくすように頑張ってよ」と伝えています。
そして、新里武光さん(87)には、当時の経緯を詳しく聞くことができました。新里さんは、手りゅう弾の破片が頭に当たった弟を亡くしました。その後、近くの川で、水を飲みに来てそのまま亡くなった負傷者たちを見つけました。
弟と2人で山に入ったのですか。
家族で逃げていました。ずっと夜中逃げ回って。戦争が始まってから結構、爆弾が落ちてくるんですよね。爆弾がなくなったときに夜、移動していって玉砕場(注※渡嘉敷島では集団自決が起きた場所をこう呼んでいる)に行ったんですよ。夜が明けたときにいったもんだから、そのとき殺し合いが始まってしまったんですよ。
3月28日のことですね。
はい、3月27日の夜、避難している場所から玉砕場にいったときに夜が明けたんです。そして、夜が明けたときに殺し合いが始まったんです。まわりでは手りゅう弾の音とかが聞こえました。
まわりで亡くなってる方も見ましたか。
いえ、見ませんでした。この場所から僕らは逃げたんですよ。みんなで。そのとき弟はやられていました。破片で頭をやられてから破傷風でね。逃げて行くとき、山の中にはすでに亡くなっている人がいました。ちょっとしてから、負傷した人たちが水を飲みたくなって水を飲みにいって、そこで亡くなった人たちもいました。だから川が血でいっぱいだったんです。
79年がたちますが、どう思いますか。
あのときは子どもだから怖いとかそういう意識はありませんでした。アメリカの飛行機が来て、楽しみに見ていたくらい。だから、あとで人が亡くなってるのを見たときに、ああ、あれでやられたんだなと。あのときは川が血でいっぱいだったからね。ダムの支流だったんですけど、川に血がいっぱいありましたよ。
平和への思いについて教えてください。
第2次世界大戦で沖縄、渡嘉敷はやられましたよ。あのとき別のところもやられてますよね。あのときと重ね合わせたときに、あのとき苦しんで亡くなったんだなと、僕らもあんな感じだったなと。いま見るたびに思い出すんです、戦争のことを。やりかたも昔と違ってすごいさね。ミサイルとかね。いま戦争があったらどうしようかと。やめてもらいたい。見るたびに島のことを思いだす。重ね合わせてこうだったなと。アメリカの艦船が来て、人の死体が何重にもなって、岩であるのか人間であるのかわからないほど、コールタールで染まって。食べ物もない、戦争のときはソテツを食べてましたから。
戦争の記憶をどういうふうに引き継いでもらいたいですか。
現実に渡嘉敷島で起きたことを味わっているから。みんなにこうだったと。戦争のおそろしさ、食糧がない、あの思い、もうやりたくない、こういう思いは話してやりたいんですよ。現実はこうだったよと。いつまでも記憶に残して、後世に残しておきたいなと。