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沖縄の喜劇の女王 仲田幸子さん 「生きているかぎり死なない」

笑顔の奥に秘めた固い決意とは
  • 2024年02月16日

沖縄で「喜劇の女王」と呼ばれる喜劇役者の仲田幸子さん(91)。70年以上沖縄芝居の舞台に立ち続け、多くの人に笑いを届けてきました。沖縄県民にはおなじみの常に絶やさない笑顔。その奥には心に秘めた固い決意がありました。

(NHK沖縄放送局キャスター 内原早紀子)

「生きているかぎり死なない」

仲田さんと初めて会ったのは、いまから5年前。私は、仲田さんがこの年の9月で舞台から退く可能性があると聞き、取材のため那覇市松山にある民謡居酒屋「仲田幸子芸能館」を訪れていました。

いらっしゃい!あんたがNHKの内原さんね?

仲田さんは店の奥から出てきました。子どものころからテレビで見ていた喜劇の女王が目の前にいる…。まだ社会人3年目だった私は、緊張のあまり目を見て上手く話せないほどでした。

それから足しげくキャスターの仕事の合間に通うようになった私。仲田さんと話すのは、いつも芸能館がオープンする夕方から深夜にかけて。芸能館にお客さんがあふれている時間帯です。

飾らない人柄ですぐに緊張がほぐれた

お客さんに呼ばれると「少し行ってこようね~」と言いながら、どんなに忙しくてもカラオケを歌い、写真撮影に応じます。そして、毒舌交じりの冗談で笑いを巻き起こすのです。

ただ、仲田さんがいつも口にするなかで、気になる言葉がありました。冗談なのか本気なのか、見分けがつかない言葉です。それが…

生きているかぎり死なない

なぜ、この言葉を繰り返すのか。

そして、もうひとつ気になったことがありました。取材で生年月日を聞いたときのことです。

幸子さんの生年月日、10月10日って「10・10空襲」じゃないですか!

そう。10・10空襲の日は、絶対忘れられない日だから誕生日にした。

その語り口は、とても寂しく心なしか暗い表情。そもそも「誕生日にした」とはどういうことなのか。喜劇の女王の人生をもっと詳しく知りたい。私はそう考えて、本格的に取材を始めることになりました。

ようやく実現したインタビュー

ただ、その後、新型コロナウイルスの感染が拡大したこともあって、しっかりと時間を確保してインタビューをする機会はなかなかやってきませんでした。さらに仲田さんは、去年3月に腰の骨を圧迫骨折して以来、入退院を繰り返すように。治療とリハビリに専念するため、芸能活動もいったん休止することになりました。

そうした中、去年10月、孫のまさえさんからテレビ電話が。とってみると…

久しぶり!元気?

病院での様子を話す仲田さん

病院からリハビリに向かう途中の仲田さんでした。
 

体調大丈夫ですか?誕生日おめでとうございます。

気づいたら91歳になったよ。退院したらすぐにインタビューにおいでよ。早くNHKに出ていろいろ話したいさ。早く元気になるからね。

それからおよそ3か月後。体調が回復したということで、いよいよインタビューが実現することになりました。

インタビュー前に塗ったのはお気に入りの赤いリップ

お気に入りの赤いリップを塗りながら、手鏡で化粧をチェックしながら私たちを待っていた仲田さん。これまであまり語ってこなかった役者人生の原点を話してくれました。

壮絶な幼少期と10・10空襲

仲田さんは1932年、那覇市泉崎で生まれました。家庭環境は厳しく、つらい子ども時代だったと振り返ります。誕生日すら伝えられなかったそうです。

私を産んで母親はすぐ死んだって。私はネズミみたいに小さく生まれたって。どうせこの子も死ぬんだはずだから、何月何日とか生年月日は覚えなくていいよって。親の顔も全然覚えていない。泣くのが多かった子どもだったみたい。なんで私を残して死んだのかなって考えて布団をかぶって泣いた時もあった。

子どものころから沖縄芝居に魅せられていたという仲田さん。小学生だった太平洋戦争末期の1944年8月には、学童疎開船「対馬丸」で九州へ疎開しようとしましたが、貧しさのため船賃を払うことができませんでした。出発の汽笛が港に響き渡る中、仲田さんは遠ざかる船を見ながら涙を流し続けたといいます。

寂しい思いをして育ったから小学校の友達は大好きだった。対馬丸に乗っていく姿を今でも思い出してしまう…。

その後、対馬丸はアメリカ軍によって撃沈され、800人近い子どもたちを含む1484人が犠牲に。仲田さんは難を逃れる結果となりました。

1944年10月10日の「10・10空襲」

ただ2か月後、仲田さんも戦争に巻き込まれていきます。1944年10月10日の「10・10空襲」です。アメリカ軍の攻撃で那覇の街はほとんど焼失。仲田さんは親戚と共に、燃え上がる街の中を必死で逃げまどいました。

那覇市に爆弾が落ちたわけ。本当に戦争があるんだなって思った。爆弾落としているのに、大火事さ大火事。逃げるのに精一杯。子どもながらにも怖いってわかるわけさ。国頭に逃げるか、島尻に逃げるかみんな騒いでいて、私は国頭に逃げたから命は助かっている。島尻に逃げた人はほとんどやられた。

その後、アメリカ軍が上陸。仲田さんは、やんばるへ避難していました。沖縄戦で日米両軍の激しい戦闘に巻き込まれて県民の4人に1人が命を失う中、仲田さんは、いまの名護市で捕虜になりました。

壕の入口にわったーは入っていたわけ。アメリカーに見つかって「デテキナサイ」「デテキナサイ」と。手を挙げてから出ていった。壕からいっぱい何百人も出てきて、みんな泣いて、どこで殺されるかねって。年寄りたちはみんな泣いていた。

そして、仲田さんはいまのうるま市石川の収容所で終戦を迎えました。

生まれ変わった日

それから3年。仲田さんが自らの人生を決定づける日がやってきます。結婚に伴い戸籍を新しく作ることになったのです。沖縄では当時、多くの人が沖縄戦で戸籍を焼失していて、仲田さんも戸籍がありませんでした。

ゼロから作ることになった人生の記録。仲田さんは自分の誕生日を「10月10日」に設定しました。仲田さんにとって、戦争が始まった「10・10空襲」の日です。悲しみを胸に刻み、人を笑顔にする役者に生まれ変わろうと考えたのです。

その決意には理由がありました。

収容所で上演されていた沖縄芝居

収容所でしばしば上演されていた沖縄芝居で、仲田さんは戦争で悲しみにうちひしがれていた人たちが、舞台によって笑顔になるのを見てきたのです。

戦前から生きてきた人たちがみんな収容所に来ているから沖縄芝居は知っている人が多かったわけ。生き延びてよかったってみんな言いながら芝居を見ていた。苦しみから出てきて生きているさ。戦争を乗り越えた人をたくさん笑顔にしたいと思ったわけ。

どんな時も笑いを届け続ける

1982年の公演 右が仲田さん

仲田さんは、本格的に喜劇役者としての道を歩み始めます。

25歳で自らの劇団「でいご座」を旗揚げ。多い時は1日で4公演を行うほど、県内各地をほとんど休む事なく巡業しました。いつしか「喜劇の女王」と呼ばれるようになりました。

喜劇の女王と呼ばれた時は、私もついに女王になったんだ。ありがたいね。もっと勉強しないといけないなと思った。あの頃は、笑いが少なかったら眠られないくらいだった。舞台から見えるひとりひとりの笑う笑顔がなんとも言えなくて…。家に帰ってご飯を作っていても「仲田幸子の舞台は面白いな」と思い出して笑ってくれるような喜劇をしたいと思って舞台に立ってきた。

「仲田幸子芸能館」で踊る仲田さん

笑いを届ける姿勢は、コロナ禍でも変わりませんでした。一時は活動が制限されましたが、落ち込んでいた人たちに元気とパワーを与えたいと、すぐに舞台に立ちました。

「喜劇の女王」が伝えるメッセージ

自宅でもリハビリを継続中

ことし芸歴77年を迎えた仲田さん。自宅で過ごすことが多くなり芸能館は営業していませんが、舞台への想いは尽きません。

みんなに心配かけないようにして、とにかくあと一度でも「仲田幸子生きています」って手をあげて、ぱーと出たい。これが念願。

仲田さんが経験した壮絶な幼少期、10・10空襲や沖縄戦。そして喜劇に捧げた人生。知れば知るほど「生きているかぎり死なない」という言葉に、沖縄が辿ってきた悲しい歴史を、笑いの力で救いたいという喜劇役者としての決意の強さが込められていると感じます。

人を笑わすのはとてもいいことさ。今の沖縄は暗いニュースばかりだから自分が舞台にたって面白い芝居をして、悪いのを忘れさすように笑いを与えたい。

インタビューを終えた仲田幸子さん。最後はやはり、お得意のポーズで、カメラの先の視聴者に語りかけました。

お得意のポーズであいさつ

みなさま方お元気ですか?いまこそ生きているかぎり絶対に死なないから、楽しく生きましょうね。きっといい年になりますように。

  • 内原早紀子

    キャスター

    内原早紀子

    石垣島出身 現場に行って取材することに生きがいを感じています

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