名古屋城の“堀の外”なのに なぜ「丸の内」? マチコエ
- 2023年10月25日
今回、マチコエ調査班に寄せられたのは、こんな疑問。
「名古屋市中区の『丸の内』は、“丸の外(お堀の外側)”にあるのに、なぜ『丸の内』なんですか?」(ペンネーム じろう さん)
記者もデスクも「言われてみればたしかに…」とうなったこの謎。
その答えを求め「丸の内」を駆け回り、徹底取材しました!
(NHK名古屋 記者 工藤楓)
たしかに、堀の外にある…
今回の疑問、地図を見ると、その謎がよくわかります。
名古屋市中区の「丸の内」、はっきりと、お堀の“外側”にあります。
これはたしかに、投稿した「じろうさん」の言うとおり、“丸の外”では…。
「丸の内」で直撃取材!
さっそく、現地で取材です!
まずは、丸の内を歩いていたみなさんに聞いてみましたが・・・
全然思いつかないです(笑)
東京の真似をしたんじゃないかと…
昔はもっと、お堀が大きかったんじゃないですか?そんな気がしていたけど(笑)
若干予想していましたが、なかなかこれぞという情報にはたどりつきません…。
教えて、溝口先生!
ここで頼ったのが、名古屋の地名に詳しい、名古屋大学の溝口常俊名誉教授!
(↓ちなみに先生、過去のマチコエでも登場していただいています)
丸の内を、あの番組さながら“ブラミゾグチ”しながら、地名について教えてくれました。
実は、この日の待ち合わせ場所に「丸の内」の歴史を知るヒントが隠されているのだとか。
これを見てわかるように、『本町橋』という橋なんですけど、『本町』と書いてあるでしょ。
たしかに、丸の内なのに『本町』ってありますね…
かつてこの地は「丸の内」という地名ではなく、『本町』はかつての地名の名残だというのです。
あの“お引っ越し”が起源!?
溝口さんに詳しく聞くと、「丸の内」は、昭和41年(1966年)に郵便の効率化などのため、それまで30以上あった古い町名を1つにまとめて名付けられた地名だといいます。
そう言われ、改めて街なかを観察すると、至る所にかつての町名が。
実は、これらの多くは、名古屋の“外”からやってきた町名なんだとか。
昔々、400年前に、それまで尾張の中心地だった清須から越してきたんですよ。
江戸時代初め、徳川家康の命によって、清須から名古屋へと都市を移転した『清須越』。
多くの商人が、それまでの地名と共に、今の「丸の内」に移り住んでいたのです。
【説①】お堀の内側にあった神社が由来?
では、肝心の「丸の内」という名前は、なぜ名付けられたのでしょうか。
溝口さんが鍵を握ると言うのが、丸の内にある2つの神社、『名古屋東照宮』とそのお隣の『那古野神社』です。
溝口さんによると、2つの神社はもともとお堀の内側にあったけれど、明治期に陸軍の部隊が置かれたことで、お堀の外側に、つまり今の「丸の内」に移転したのだといいます。
“お堀の内側”にルーツを持つ神社を有することから、この地域を「丸の内」と名付けたというのです。
信仰のよりどころとなる重要な建物である神社が移ってきた場所であると。そうしたら、もうそこを『丸の内』と言ってもいいんじゃないかと。
なるほど、そういうことだったのですね!
と思いきや・・・
っていうのが、僕のつい最近考えた説なんですけどね(笑)
なんと…
あくまでも溝口さんの有力視する“説”の1つなのだとか。
先生、ほかにヒントはないでしょうか・・・
町名を変更する場合には、それを決めたときの会議の議事録なんかがあるはずですし、市役所に行けば、おそらく当時のことが何か記録されていると思いますよ。
【説②】中学校の名前が由来?
ヒントを得て訪ねたのは、名古屋市の住民課。
資料を探ってもらうと、「新町名由来」と書かれた文書がありました。
そこには、意外な記述が・・・
地形的には外堀の外側になり難があるが、堀の内に丸の内中学校があり、当地域が通学区域になっていること
市の記録によると、こう。
実は町名が名付けられる1年前の昭和40年(1965年)、お堀の内側に「丸の内中学校」という学校が開校していました。
この中学校の学区域にあたることから、地区の名前も「丸の内」になったというのです。
しかし、住民課の職員さんいわく、この説が本当に正しいのかは不明とのこと。
これもまた、市の記録から考えられる説の1つなんだそう。
いろいろと調べてみましたが、今回の取材では「諸説あり」という結論でした。
商人たちが大切にすることは
今回の取材で丸の内を訪ね歩く中、地域の人からさまざまなお話を聞くこともできました。
『清須越』以来、この場所で400年営業を続ける老舗料亭では、この町の歴史への思いを伺いました。
13代目・当主が見せてくれたのは、この地区のお祭りの様子を描いた、明治期の絵です。
行列を作る山車をよく見ると、その1つ1つに「京町」「本町」など、かつての町名が書かれているのがわかります。
商人たちは、それぞれの町の名前に商売への誇りを抱き、大切にしていたといいます。
料亭河文 13代目当主 林左希也さん
「“その町名で自分たちは仕事をしてきたんだ”という思いが昔はあったんですよね。町名を聞くだけで、『あっ薬屋さんですね』とか。『鉄砲町』っていえば、鍛冶屋さんだってわかるとかね」
実際に丸の内地区では今も、町内会の名前にかつての町名が使われ続けています。
その町の歴史みたいなものが、町の名前には残っているので、少なくともわれわれのコミュニティーの中では、そうしたものを大事にしていくっていうことが必要なんじゃないかなと思いますね。
「なぜ“丸の内”?」調査結果は
改めまして、今回の調査結果がこちら。
【説①】お堀の内側にルーツを持つ神社があることから、「丸の内」になったという説。
【説②】地名決定の1年前に開校した「丸の内中学校」から、その名前をとったという説。
ただ、“諸説あり”ということで、明確な答えまではわかりませんでした・・・。
ペンネーム じろう さん、すてきなご質問をありがとうございました!
街のみなさんも、貴重なお昼に話を聞かせていただきありがとうございました。
みなさんの“マチコエ”募集中!
NHK名古屋「マチコエ」では、みなさんの疑問を投稿フォームで募集しています。
「これってどうして?」「調べてほしい!」という疑問、地域の課題、困りごとなど、ぜひ声をお寄せください。
あなたの「マチ」のあなたの「コエ」が取材のスタートです。