長崎 平戸に伝わる三浦按針(ウィリアム・アダムス)の歴史
- 2023年11月24日
大河ドラマ「どうする家康」に登場した三浦按針(ウィリアム・アダムス)。1564年イギリスで生まれ、1600年にリーフデ号で現在の大分県に漂着。徳川家康の外交顧問として活躍しました。その後、現在の長崎県平戸市を1613年に訪れたとされ、1620年にこの地で生涯を閉じました。今も平戸には三浦按針に関する場所や物が数多く残されています。冬の平戸で三浦按針の足跡を訪ねました。
NHK長崎放送局アナウンサー 木花牧雄
平戸には足跡がいたるところに!
まず訪れたのは平戸市役所。庁舎の横には碑が置かれています。英国商館が平戸に設置されたことや、日本とイギリスの関係を築いた先人たちの功績を称えるための碑です。
ここにももちろん「ウィリアム・アダムス」の名前が刻まれています。平戸イギリス商館の設立にも大きく関わった三浦按針。イギリスとの懸け橋として、今もその歴史を平戸に伝えています。
平戸市役所から商店街の方向に進んでいきます。すると、街中にはこんな看板が。
看板を頼りに、かつて平戸イギリス商館があった辺りの今の様子を見てみます。それがこちら👇
三浦按針もこの辺りをよく行き来していたのでしょうか。今から400年以上も前のこと。外国商館が建ち並び、外国の文化でにぎわっていた場所なんですね。
商店街を進んでいきます。今回の目的の一つ、老舗の菓子店に向かいます。
通りにも三浦按針に関する多くの場所が紹介されています。通りの名前にもなっている「英国商館跡」です。
三浦按針が設立に関わり、1613年~1623年の間存在した「平戸イギリス商館」の跡地です。三浦按針が平戸に来たとされる年に設立されています。按針の死後、3年でイギリスは商館を閉鎖して日本から撤退することになります。そこにはどんな歴史があったのか。想像が膨らみます。
近くには、「三浦按針 終焉の地」の碑がありました。
1620年(元和6年)5月にこの地で亡くなったことが記されています。
三浦按針を今に伝える老舗菓子店
終焉の地の碑のすぐ近くにあるのがこちら。
その名も「按針の館」です。按針がここで暮らしていたとされている場所です。按針は日本と交易する諸外国に対して公平な立場にするため、イギリス商館には住まず、この木田弥治右衛門宅に居住していたそうです。中の様子は👇
かつての豪商の建物でおよそ400年の歴史があるといいます。時代ごとに地域の人や店舗などが改修・リフォームを繰り返して、現在に残してきました。今は創業1502年(文亀2年)という室町時代から続く老舗の菓子店が店舗を構えています。
「柱」や「梁」には、400年ほど前の当時のものがいまだに残っているということです。所々穴が開けられているなど、歴史を重ねる中で様々な用途に使われてきたことを感じさせます。
こちらのお店は平戸藩松浦家の御用菓子司として、500年以上にわたり平戸で菓子作りを行ってきました。中でも歴史があるのが「カスドース」です。1550年にポルトガル船が平戸に初めて来航。その時に製法が伝えられたとされています。
一説には、「長期間の航海で乾燥したカステラをアレンジした」と言われています。今も製法は昔のまま変わらず伝わっています。カステラを卵黄にくぐらせ、沸騰した糖蜜につけて揚げていき、砂糖をまぶして作られます。冷蔵する設備がない時代に、菓子を長持ちさせるための知恵だそうです。
当時のぜいたく品「卵黄」・「砂糖」をふんだんに使った貴重な菓子は、お殿様だけが食べられる「お留め菓子」と呼ばれていました。ただ、三浦按針も徳川家康の外交顧問を務めたほどの人物です。もしかしたら、三浦按針も食べていたのでしょうか?
もちろん定かではないですが、食べていた可能性はあると思いますし、食べていたと思いたいですね。
この菓子店では10年ほど前、三浦按針をイメージしたお菓子も作りました。それが👇
バターカステラに、当時の船乗りがよく飲んでいたとされる「アラック酒(蒸留酒)」を使用しました。元々、航海士だった三浦按針への思いをお菓子に込めたそうです。老舗として伝統を守りながら、平戸の三浦按針の発信に取り組んでいます。
500年以上の歴史があり、「按針の館」に店舗を構える老舗として、松尾さんにとって三浦按針はどんな人物ですか?
按針さんが平戸に残した功績は数多くあると思うんですよね。平戸の各地にある按針さんの足跡を辿ってもらえたら幸いですし、そうした歴史や文化を私たちは発信していきたいですね。
三浦按針の銅像・バラ・墓地・・・
次は「平戸オランダ商館」に向かいますが、その途中にも三浦按針ゆかりのスポットがいくつもあります。
平戸市にゆかりのある人物の銅像が並ぶ「歴史の道」。平戸イギリス商館の初代館長「リチャード・コックス像」や、平戸で初めてのキリスト教の布教にあたったとされる宣教師の「フランシスコ・ザビエル像」などが立ち並ぶ中、やはりありました「ウィリアム・アダムス像」です。
多くの歴史上の人物と関わりのある平戸。改めて平戸ならではの歴史を興味深く感じました。そして、歴史の道を通って崎方公園へ向かいます。
まずは「ANJINローズガーデン」へ。11月下旬に訪れた時はきれいなバラが花を咲かせていました。その名も👇
「ウィリアム・アダムス」です。鮮やかな赤が印象的なバラです。
三浦按針の母国・イングランドの国の花でもある「バラ」。名前に「三浦按針」ではなく英語名「ウィリアム・アダムス」と付けているのも按針への思いが込められている感じがします。
その崎方公園の中を進むと「三浦按針の墓」があります。
長年、按針の埋葬地とされてきたこの地に1954年(昭和29年)に建立された墓碑。写真の右にあるのは三浦按針の夫婦塚で、イギリスにある妻の墓地から夫人の霊魂の象徴として小石を取り寄せ、アダムスの墓に合葬したものです。さらに、ここには「伝三浦按針墓地」の碑も立っています。
この周辺では発掘調査が行われ人骨が見つかっています。近年、人骨のDNA分析など科学的な調査も行われ、三浦按針の可能性が高いことが示されています。およそ400年の長きにわたり、平戸のこの地に眠っていたのでしょうか。
三浦按針の歴史はあの飲み物にも!
さて、もう一つの目的地、崎方公園のすぐ近くにある「平戸オランダ商館」にやってきました。
この建物は1639年の倉庫を忠実に再現したものです。現在の平戸オランダ商館の一帯にかつての平戸オランダ商館がありました👇。三浦按針も設立に尽力したと言われています。
三浦按針と平戸オランダ商館について、館長の岡山芳治さんに伺いました。
まずはこの船。長い航海の末、三浦按針が日本にたどり着いた船「リーフデ号」です。平戸オランダ商館にはその模型が展示されています。
歴史的にも重要な船ですよね。
この船が日本とオランダの最初の出会いです。ここから日本とオランダの交流が始まりました。
その後のこと考えると、この船に三浦按針が乗っていたというのも、歴史の面白さを感じますよね。
その後、徳川家康から朱印状を得たことで1609年に平戸オランダ商館は設置されました。1641年に長崎の出島への移転命令が出されるまでの間、日本と海外の貿易に携わっていました。その商館は資料をもとに忠実に復元されました。建物の中央に並ぶ「Y字」の太い柱。オランダの倉庫に見られる独特の柱の形だそうです。
しかも、柱の1辺はなんと「48センチ」。これだけの太さの材木を使った倉庫の柱はオランダ国内でも珍しいと岡山さんは言います。この柱の大きさを示す数字も資料に基づいています。こんな大きな木を何本も柱に使っていたとは…。当時の平戸の様子や建物の規模を感じ取ることができます。
アジアにはたくさんのオランダ商館ができていましたが、その中で、平戸のオランダ商館が一番の利益を上げていました。
もちろん館内には三浦按針の名前も様々なところに記されています。平戸に残した影響はやはり大きいですね。
そんな三浦按針が平戸に来たとされる1613年。ある飲み物が日本に来た最古の記録があります。それが「ビール」。
平戸に1613年に来たイギリス船の積み荷リストに記されているのが日本最古のビールの記録です。平戸は日本のビールの歴史の始まりだったところでもあるんです。さらに、日本初のビール製造は平戸で行われたというのです。
1636年の平戸オランダ商館の会計帳簿に「ビール醸造用の黒糖」を輸入した記録があります。
材料を輸入していたということですが、どこで製造していたんですか?
当時の平戸オランダ商館内だと考えられます。ビールの製造に必要な道具や機材もあったことがわかっています。
そもそもビール自体、当時の船員には必要なものでしたから、三浦按針も飲んでいたと思いますよ。
岡山さんたちは平戸で作られていた「日本最初のビール」も忠実に再現しようと試みました。当時、地元で小麦が生産されていたため「小麦」をベースに、記録に基づき「黒糖」を使用。また、「オーク」の樽で保存していたと考えられるので、オークのチップで香り付けをしています👇
三浦按針も尽力して設立された「平戸オランダ商館」。そして、そこに残っていた記録からよみがえった平戸で作られていた日本初のビール。400年以上前の按針の活躍は、今も平戸で新たな動きを作り出しています。
平戸にとって三浦按針はどんな人物だでしょうか?
平戸市民にとってオランダ・イギリスは身近な存在です。歴史をさらに検証することで、新たな地域活性化につながるような「ヒント」をたくさん残してくれたのが三浦按針ですね。
平戸だからこそ感じる按針への思い
三浦按針は、望郷の念から帰国を何度か願い出ましたが、果たすことはできず、平戸の地で生涯を閉じました。
先ほど紹介した按針の墓地の近くには追悼碑も置かれています。
この追悼碑には、イギリスから平戸に来て、祖国に帰ることなくこの地に没した冒険者たちの名前ともに、英語と日本語で以下の文言が記されています。
「大航海時代の冒険者たち
その礎の上に今の私たちはある
眠り給え
ここを小さき英国として」
もちろんウィリアム・アダムスの名前も刻まれています。亡くなった日付と、船長という肩書が記されています。
55歳で生涯を終えた三浦按針。今に受け継がれたものや、平戸の街のいたるところにある「碑」や「人々」への取材で、按針に対する思いを感じました。三浦按針をきっかけに平戸独自の歴史を感じることができました。