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NHK長崎 令和の被爆者証言 山川剛さん

”抵抗と創造の平和教育”
  • 2022年11月14日

「令和の被爆者証言」シリーズ。
今回は、長崎の原爆教育の礎を築いた被爆者のひとり、山川剛さん(86)。
長崎では当たり前になっている”平和教育”。
ただ、こんにちの”平和教育”が行われるまでは
険しい道のりがありました。
 


長崎放送局 記者 榊汐里

【山川さんの被爆体験】

国民学校に通っていたころの山川さん

1936年10月4日に生まれた山川さん。
8歳のとき国民学校に通う3年生だったとき、爆心地からおよそ4点3キロ離れた、長崎市浪の平で被爆しました。

被爆した場所を説明する山川さん

原爆が投下されたとき、山川さんは防空ごうの前で泥遊びをしていました。

山川さん
B29という原爆搭載機の音が聞こえてきて、私は手のひらに載せていた泥のおだんごみたいなものを体をかがめて地面に置いたんです。そして体を起こした時に、左の顔面に、今まで経験したことのない異様な熱さを感じました。何が起こったのか分からないんだけどとにかく体は勝手に防空ごうの中に飛び込こみました。それが11時2分のときの状況です。

【”被爆教師”になるまで】

山川さんは被爆した後、さまざまな苦労を重ねて、長崎大学に進学。
被爆から16年後の1961年、山川さんは小学校の教師になりました。

教師になったころの山川さん

ただ当初は、授業でみずからの被爆体験を語ることはありませんでした。
自分自身が被爆者であるという意識が低かったためだといいます。

山川さん
原爆で奇跡的に生き残ったような先生たちが自分の体を教材にしながら個人個人が話すということはありました。ただ組織的ではありませんでした。私には、原爆を原因とした自分の病気というのがないということ。それがやっぱり一番大きいと思います。被爆してから、原爆を25年間意識しなかったんです。

 

1970年。教師になって9年後、山川さんに転機が訪れます。

それは長崎市内の小中学生を対象に行われたアンケート結果でした。アンケートではほとんどの子どもたちが教師から原爆について教わっていないと回答し、小学生の2割は原爆を投下した国の名前を答えられないというものでした。

山川さん
その結果が私にとっては非常にショックでした。教室で、先生たちは戦争や原爆については何にも話をしてないということが浮き彫りになったんです。特に、誰が教えるかを、私たち教員が沈黙をしてたっていう、ここが一番大きかったですよね。私たちが教えないことには子供がそういうことを身につけるはずがないという当たり前のことを突きつけられたわけです。

このとき、山川さんは被爆体験を伝える教師の先頭に立とうと決意しました。
そして教師のなかでは少数派ながらも被爆体験を子どもたちに語って聞かせる「被爆教師」のグループに加わったのです。

【抵抗と創造の平和教育】

原爆読本

山川さんのグループが県教職員組合の支援を受けて取りかかかったのが原爆読本の制作です。
原爆に関する教育を一部の教師の被爆体験に依存せず、組織的に行うためです。
原爆読本は4編からなります。
小学校低学年用は童話風に、中学生用は歴史をメインに据えるなど、工夫を凝らして制作しました。

山川さんが担当した部分の原稿

今回、山川さんが制作を担当した小学校高学年用の原爆読本の下書き原稿が見つかりました。
福岡から長崎に転校してきた男の子が原爆について学んでいく設定にしました。

山川さん
私は高学年の部分の第1章を任されたもんですから、その後どういうふうにその物語が展開していくかっていう一番最初のところだったので、どういう設定にするかというところまで任されたんですよ。私はなるべく自然な形で原爆について学んでほしいと思いました。つまり、全く今まで知らなかったんだけど、徐々に原爆のことについて関心を持たなければいけないような状況に陥る子供を設定したんです。

長崎の原爆に関する初めての教材となった原爆読本。注目を集め、多くの学校に広まりました。

山川さん
今までそういう本がなかったということがあって非常にあの歓迎してくれたのは親たちでしたね。保護者の皆さんが非常に喜んでくれたんですよ。初版が、なんと4万冊ですから市内全体の学校の図書室には必ずあるという時代が一番最初です。

一方、長崎市の教育委員会は山川さんたちの活動を快く思っていませんでした。
山川さんは当時の時代背景として県の教職員組合が出版に関与していることが問題視されたといいます。

山川さん
この原爆読本を発行しているのが、県の教職員組合で。だから、組合敵視というのがこんな形で出ているというふうにしか捉えられませんね。

そして、1977年。決定的な出来事が起こります。
当時、山川さんが在籍していた西町小学校の校長が図書室に置いてあった原爆読本150冊を撤去したのです。

撤去された原爆読本

山川さん
77年に、西町小学校の子どもの図書室に150冊あった。これが突然なくなった。調べてみると、校長が、好ましく思っていないものをこの学校の図書室においては置いておくわけにはいかないということで、いわば隔離した。いろんな妨害の中で最悪の事態だと思うんです。これはメディアの皆さんの表現は、現代版焚書とか平和読本の隔離とかでした。これは長く続いたんです。

それでも山川さんは仲間の教師たちとともに、1997年に定年退職するまで原爆の教育の確立に打ち込みました。
こんにち、長崎の教育現場で被爆体験を教えるようになるまでは先人たちの長年の努力があったのです。

山川さん
今でこそ『被爆体験の継承』というのは一般的になってますが、まだそういうきちっとした言葉っていうのは意なかった時代なんです。平和教育を根づかせようとしてこういった原爆読本をつくるとかいろんな取り組みをした。ひと言で言うとすれば”抵抗と創造の平和教育”というのが長崎です。

【転換点はいつ? 平和教育が認められるまで】

長崎がこんにちの「平和教育」に舵を切ったのはいつでしょうか。
山川さんは、平和教育の土台となる「被爆体験の継承」というキーワードが広まり始めたのは銃撃され大けがを負いながらも平和を追求した故・本島等市長の発言がきっかけだと考えています。

いつごろから出始めたのかなと思い、8月9日の長崎市長による平和宣言を第1回目から全部当たってみたら、『被爆体験の継承』という表現が初めて出たのは1980年の本島市長の時でした。その頃から『被爆体験の継承』が一般化していったんだと捉えてもいいのではないかと私は考えています。

本島市長の流れを受け継ぎ、平和教育の拡充したのは銃撃されて亡くなった故・伊藤一長市長だとされます。伊藤市長自身が世界を見ることで感じた”違和感”にあったと山川さんは指摘します。

彼は1999年にオランダのハーグで行われた市民平和会議にみずから出席をしているんです。
やっぱり肌で感じたのでしょう。
当時の長崎の平和教育が世界の流れにそぐわない。変えなきゃいけないと。
そういう思いを持って帰国したのでしょう。
2000年の8月9日の平和宣言で伊藤市長は『長崎を平和教育の拠点にする』という文言を入れています。本島市長の下地があってこそだと思います。

【原爆教育の継続を】

ことし被爆者の平均年齢は84歳に達しました。
山川さんは「被爆者なき時代」を見据え、未来に向けて原爆教育の継続を訴えます。

山川さん
体験者でなければ語れないっていうのは、間違いだと思います。
原爆について書いたものもたくさんあるし、写真だってあるし絵だってあるし小説だってある。そう考えたら原爆の、被爆の体験者がいなくなっても継承は可能だという、私はそういう信念を持ってます。だから何にも心配してないです。
長崎は人類初の核戦争を体験した場所。つまり被爆地です。他にどんなところが平和教育をしないようになったとしても、被爆地はそれを守り抜かなければいけないからです。原爆教育を含む平和教育。平和教育の中の原爆教育。この上に立って、これからの平和教育が模索されなければいけない。

取材後記

長崎に赴任して3年あまり。
長崎では8月9日が夏休みの登校日になっていて、行政が平和教育の充実に力を入れている現場を取材し、被爆地ならではの光景だと感動してきました。
しかし、今回の取材で現在の”平和教育”は教師たちが困難に立ち向かい、勝ち取ったものであると知り、目が覚めた思いでした。また当時の教師たちの奮闘について現在の行政に問い合わせても「当時を知る職員がいない」との回答で平和教育の成り立ちが記録されてないことがわかり、危機感も覚えました。”平和教育”が当たり前ではなく、先人たちがつかみ取ってきたものであることを決して忘れてはならない。取材を通じてそう感じました。
 

  • 榊汐里

    長崎放送局 記者

    榊汐里

    長崎局が初任地。

    県政担当。

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