「寂聴さんのことばを、私のことばで」 瀬尾まなほさん
- 2023年11月09日
作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんが亡くなって11月9日で2年となります。
岩手との縁が深い寂聴さん。
現在、盛岡市では99年間の生涯を振り返る展覧会が開催され、今も多くの人たちが寂聴さんに思いを馳せています。(※2024年1月8日まで)
愛に生き、多くの教えを遺した寂聴さん。
「瀬戸内は私の居場所だった」
そう語るのは、晩年の10年間を誰よりも寂聴さんの近くで過ごしてきた、秘書の瀬尾まなほさんです。
三回忌を前に、岩手を訪れた瀬尾さんに、ともに過ごした日々のエピソードや、今の思いを聞きました。
(聞き手:NHK盛岡アナウンサー菅谷鈴夏)
“自分を愛せなくてどうするんだ”
菅谷)寂聴さんが執筆活動をしていた寂庵の書斎を表現した展示の前で、お話を聞いていきます。この書斎での寂聴さんの姿は思い起こされたりしますか?
私が見ていた姿は僧侶としてというよりも、作家の瀬戸内寂聴だったので、机に向かってペンを走らせて一生懸命執筆してるっていう姿を何度も見ていました。実際、この書斎にコーヒーを差し入れて、「コーヒー置いておきますね」って言っても本人はものすごく集中しているので返事はないんですよ。1度部屋を出て、時間が経って、そろそろと様子を見ると、そのコーヒーに手をつけずにそのまま置いてあるんですよね。「先生コーヒー飲まれなかったんですか?」って聞いたら「えっあったの?」みたいな。本当にそれぐらいのすごい集中力で、私が来たことも気付かないくらい集中して執筆をしていたっていう。なかなか声がかけれないような雰囲気があった、あの姿を思い出します。ここで瀬戸内が書いたものは歴史の一部であって、この先もずっと残っていくんだろうと思うと、文学を通して瀬戸内のことを知って頂くっていうのも大切にしていきたいことだなと思うんです。作品をこの世に残すというのは、小説家のすばらしさだなって思います。
菅谷)そうした寂聴さんとの日々を過ごす中で、瀬尾さんにとって寂聴さんはどんな存在になっていたのでしょうか?
私の世界の中心といいますか、本当に私の20代は瀬戸内に捧げたと言っても過言ではないくらい。常に瀬戸内のこと考えていて。心強いというか、最強の味方だったなって思います。だから、瀬戸内のために頑張りたい、瀬戸内に笑ってほしい、瀬戸内に喜んでもらいたいって瀬戸内のために物事を考えるようになったんです。常にもう瀬戸内のことばかり考えてたので、私の中ではやっぱりものすごく大きな存在で、家族よりも本当に密に一緒に過ごしたなって思います。
菅谷)瀬尾さんは、寂聴さんのどんな魅力にそう思うようになったんでしょうか。
私自身を認めてくれた、ということが大きいですよね。私は本当に特技もなく特に秀でたものもなかったので。それでも瀬戸内が「よく気が利くね」とか、「頭がいいね」とか、「きょうの洋服かわいいね」とか。本当に小さいことから毎日のようにほめてくれたんですよね。そうすると、もっと頑張ろうって思わせてくれるっていうか、自分を好きになれる。私の居場所を作ってくれるこの人のために頑張りたいって。
菅谷)寂聴さんからもらったことばで、心に深く残っているものはどんなことばでしょうか?
自分自身を粗末にしたというか、自分に自信がなかった時につい、私なんかダメだ、私なんかできないっていう自分を否定するようなことばを瀬戸内に投げかけてしまった時に、瀬戸内が「そんな言葉を使うような人間はもう要らない!」って。この世でたったひとりの自分なんだから、その自分を粗末にしてどうするんだ、その自分を愛せなくてどうするんだっていうとで、自分を粗末にする人間はもう要らないからやめてねって怒られたことがあるんですけど。
生前、寂聴さんはNHKのインタビューでもその教えを語っていました。
自分を大切にしないとね、人間はダメね。
今、自分が嫌いとかいう子がとても多いんですよね。
それは罰当たりなことだと思いますね。
自分をかわいがって、自分を愛したら、
そしたら、人を愛する余裕ができますよね。
自分自身を大切にしないことを他人から、自分のために怒ってくれるっていうのは、私にとったら、すごくうれしいことで、ありがたいこと。それがやっぱり私の中で一番印象的に強く残ってる言葉ですね。
瀬戸内のことばを、私は私のことばで
菅谷)瀬尾さんにとって居場所だった寂聴さんが亡くなって2年。どんな2年だったと振り返りますか?
あっという間でした。けれどもやっぱり2年っていう年月は確実に過ぎていって、亡くなった直後では考えられなかったことが、2年をかけてちょっとずつ整理ができている。悲しいだけじゃなくて、本当にありがとうという感謝の気持ちもすごく出てきたので。そして、瀬戸内のことを話したり書く機会をすごく頂いたんですね。それによって自然と瀬戸内との日々を思い返したり、瀬戸内への思いを書いたりって。そういう行為が自分の中では供養になり、救いになり、というような日々でした。
菅谷)生前、寂聴さんが法話を行っていた天台寺に、ことしは瀬尾さんが立ってお話をされましたね。
やはり天台寺はすごく私にとっても思い出のある場所なんですよね。いつもだったら瀬戸内の青空法話があって、私はその付き添いで来るわけなんですけど、ことしは私が皆様の前でいつも瀬戸内がいる場所に立って話すわけじゃないですか。それがさみしさもあり、でも、瀬戸内の代わりに選んでいただいたことのありがたさもあったりとかして。ちょっと感極まって涙が出てしまったんですよね。それぐらいその天台寺の空気感とかその場所っていう私にとってはすごく重要な場所です。
菅谷)寂聴さんの教えを伝えていく、ということは瀬尾さんはどう考えているのでしょうか。
そんなに偉そうなことは言えないですけど。やはりこの晩年の10年間誰よりもそばにいたっていう自負があるんですよね。だから、私が学んだことっていうのは、私の口からであればお話しできると思うんです。ただ、瀬戸内の伝えをそのまま伝道者みたいな感じで話すってことはちょっと私は違うと思っていて。瀬戸内をそばで見て、そこで私が考えて思ったことを私の口からお話しさせて頂くっていう。瀬戸内のことばを、私は私のことばで話せたらいいなと思ってます。
あと、瀬戸内は51歳で出家して99まで生きたわけですよね。私もきっと51歳になった時に、この歳で出家したのかとか。70歳から源氏物語の訳を書き始めましたけれど、自分が70になった時にどうかって。自分が瀬戸内の年にこれから追いついていくわけで。今私は30代なのでまだちょっと瀬戸内のことばに寄り添いきれていない部分がやっぱり未熟なのであるんですけれども。これから年を重ねることによって、ああそうなんだって腑に落ちることがいっぱいあると思うので、それはそれですごく楽しみではあります。
瀬戸内のことばは、どの世代でも生きているからこそ悩むことに寄り添ってくれるものですから。瀬戸内のことばは、これからもずっと、その人々の悩みとかに寄り添って生き続けることなんだろうなって思います。
菅谷)最後に、寂聴さんに今伝えたい思いはありますか?
瀬戸内はいつも、その人が死んでしまったらもうそれで終わりだよって。みんな忘れてしまうよって言っていたんですけれど。三回忌でもこうやって追悼展があって瀬戸内のことを思ってくれる人がたくさんいるよってことを私は伝えたいですね。