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路傍の墓に宿る意志

  • 2023年10月26日

岩手県北上市和賀町。
地元の人が行き交う県道脇に「南無阿弥陀仏」と刻まれた墓があります。

眠るのは、高橋千三。
太平洋戦争で出征し、1944年11月4日、25歳の若さで戦死しました。
ひとり息子の千三を女手一つ育て上げた母親・セキが、
「残りの人生は息子の弔いに」と、戦後の貧しい暮らしのなか建てた墓です。

「石ころに語る母たち―農村婦人の戦争体験」編:小原 徳志 未来社 より

この墓に、毎年秋が深まる頃になると興味深いことが起こります。

千三とは縁もゆかりもない女性たちが墓参りに訪れるのです。
40年続く「千三忌」と呼ばれるこの営み。
なぜ、女性たちは見ず知らずの人の墓に手を合わせるのか。
なぜ、墓石には家名ではなく念仏が刻まれているのか。
路傍の墓に込められていたのは、戦争を生き抜いた女性たちの物語です。

(NHK盛岡・菅谷鈴夏)

大切な人を失った悲しみだけではない何か

千三忌を始めた、詩人の小原 麗子さん(88歳)。
半世紀以上にわたり、女性と戦争をテーマに作品を残してきました。

その原点は、太平洋戦争中に自殺した小原さんの姉の存在です。
「銃後の務めを果たせ」と、出征した男性たちに恥じぬ働きを、女性たちに求めた当時の世論。
夫の出征中、体調を崩し病床で過ごしていた姉は、働くことのできない身体に罪悪感を募らせていました。そんな中、夫の戦死の噂を耳に。姉は「国の非常時に申し訳ない」「戦地にいる兄さん(夫)に申し訳ない」と書き遺し、鉄道に身を投げたのです。
そのわずか1か月後、終戦。夫は姉への土産を手に帰ってきました。

――姉を死に追いやったのは、“大切な人を失った悲しみ”だけだったのだろうか。
――銃後の務めを強いる世論が無ければ、姉は死ななかったのではないか。
当時10歳だった小原さんが受けた死の衝撃は、その後の人生をかけて戦争から女性の権利を考えることへと向かわせました。

40年前に北上市和賀町に一軒家を建てた小原さん。
その近くにたたずむ千三の墓に興味を覚えました。
なぜ、墓石に南無阿弥陀仏とだけ刻んであるのか。
その理由を、小原さんは自分なりの視点で考え始めます。

戦後、セキのように独り身となった女性が性暴力の危険にさらされることが少なくありませんでした。
そんな女性たちから当時のことを聞き書きした本に出合います。
そこに、セキが暮らした村での話も記されていました。

「あの人は帰ってこなかった」編:菊池敬一、大牟羅良 岩波書店

“自分の身を守るためには、「寝床に鎌を入れている」と言って、人前で蛇の皮をむいて見せた”
“いじめようとする男性に対し強気になるしかなかった”  (原文を要約)

そんな時代、セキは男性中心の家制度には縛られたくないと、再婚も拒み続けたと言います。

セキは、当時の女性に対するしがらみから解き放たれようと、今は自らも眠る墓に、家名ではなく万人に向けた念仏を刻んだのではないか。
それは姉の自死と同じ、大切な人を失った悲しみだけではない、女性の叫びだ。
そう小原さんは捉え、「戦争と女性を考えるモニュメント」として墓を守るようになりました。

心の叫びを書く千三忌

千三忌の輪は、小原さんの考えに共感する女性たちに広がってきました。
小原さんの自宅に月に一度集まっては、戦争と女性について語り合います。

参加者は、小原さんの自宅を名前の麗子にちなんで「麗ら舎(うららしゃ)」と呼び、普段なかなか言葉にできないことを吐露する、心のよりどころとしてきました。

この場でそれぞれがたどり着く戦争への考えは、千三忌のたびに1冊の本にまとめられます。

そこに、小原さんは戦後、口にすることができなかった、戦時の性暴力を糾弾する詩を寄せました。

「火焔の娘 氷柱の娘」

海にかこまれた国に生まれ
父たちよ わたしはあなたの娘だ
兄たちよ わたしはあなたの妹だ

わが娘 わが妹を守ると言って
銃を持ち
海の向こうの国々に征った
父たちよ 兄たちよ

あなたたちは
異国の娘たち 異国の妹たちに
何をしたのだ

父たちの年齢をはるかに超えて
兄たちの年齢の二倍は生きて

かの地の火焔の娘
氷柱の娘を抱けば

父たちよ 兄たちよ
あなたたちは
実の娘 実の妹に
銃を向けている

小原さん
「おなごたちも1冊の本を作るくらいいろんな考えを持って暮らしてきているので。
それを1人1人が冊子にまとめるのが私の望みです。」

くそ壺に隠れる母の決意

幼いころを満州で過ごした宮崎順子さん(86歳)。
千三忌から、戦時中に母親が起こした行動の意味を考え、今の思いを文章にしました。

ザックザックとロシア兵の軍靴の音が響いて、
とっさにとった母の行動はくそ壺に逃げることだった。
それが後の親子3人の運命を変えた。
ギリギリの選択だった。
78年過ぎた今、私にはどんな声高の反戦よりも強く心に残る。
それは必死の行動だった。
今ウクライナでは再びロシア軍の爆撃を受けている。
毎日数百人の命が奪われている。
1945年の第二次世界大戦のときの満州にもロシア軍が侵入してきた。
かの地に思いを馳せる。
眠れない夜が続く。

そして、母親の行動から、たどり着いた考えを語ってくれました。

「母がロシア兵が来るとくそ壺に隠れる。子どものために死んでいられないから、と言ってましたけれど、いくらなんでもどうしてトイレの中なの?と思っていました。」

それは、女性ゆえの決意でした。

「母もまだ29歳だったから。連れて行くのなら女盛りで。いくら頭を坊主にしていても、ぼろを着ていても、女だから連れて行かれる。結局、強姦されるわけですよね。もてあそばれるっていうか。トイレに入って、臭くなって。そしたらいくら何でも連れて行かれないだろうと。」

墓を建てたセキと、自分の母親。
武器を持たない女性が戦争を生き抜くために必要だったものとは。
宮崎さんは答えを見つけました。

「矜持(きょうじ)っていうのかな、ぎゅっと心に持ちながら。短剣は持たないけれどね。そうして生きてきたんだろうなって想像してます。やっぱり自分の心の中にある自尊心みたいなの守らなければ意味がないと思う。生きていて。」

路傍の墓は女性たちの意志として

今年で39回目を迎えた千三忌。
終戦から78年が過ぎ、徐々に参加できる人が少なくなっていく中、それぞれが最後の1人になるまで続ける信念を持っています。

 

髙橋哲子さん
「心に渦巻いているもの、反戦への気持ちがあるならば、態度で示さなければならないんだ。その気持ちだけは絶やさないでいきたい。」

 

渡邊満子さん
「私は戦前、戦中、戦後を生きてきた91歳の「女性」です。本当に苦しかった。この世から戦争っていうのは絶対起こしたくない。」

互いに手を取り合いながら、反戦への気概を示し続ける千三忌。
路傍の墓は、戦争を生き抜いた女性たちの意志としてたたずんでいます。

  • 菅谷 鈴夏

    NHK盛岡アナウンサー

    菅谷 鈴夏

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