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宮崎の“リトル沖縄”にちむどんどん!町に響くエイサーの太鼓

  • 2022年06月29日

宮崎市中心部に「リトル沖縄」と呼ばれる地区があります。人気の住宅エリア「波島地区」です。戦時中、沖縄から疎開した人が多く暮らし、今や人気の住宅エリアとなった地区。
戦後70年を超え、町が様変わりするなか、地区の歴史を引き継ごうと模索する小学校の取り組みを追いました。

沖縄の「エイサー」が響く町

宮崎市中心部の宮崎東小学校。体育館からこだましてきたのは、ここで長く受け継がれている「宮東っ子エイサー」の響き。運動会では、なんと全校児童が演舞!(沖縄の小学校でも高学年のみというところが少なくありません)。地域の人も楽しみにする恒例行事です。

なぜこの学校に全校エイサーが根づいているのか?
その理由は校区の一つ「波島地区」にあります。ここは沖縄をルーツに持つ人が多く住み“リトル沖縄”とも呼ばれてきました。町を歩くとシーサーを飾っている家やサーターアンダギーの店が目につき、沖縄の雰囲気を感じます。

もう1つ、沖縄との結びつきを感じるものが公園にありました。クスノキの傍らにある「石碑」です。1972年、沖縄の本土復帰を記念して宮崎沖縄県人会が植樹したと記されています。記録によると、幹回り10センチ足らずだった幼木は、50年の時を経て大木に育っていました。

この公園でエイサーを見せてくれた子どもに出会いました。この春に小学6年生になった城間介杜さんです。一家で沖縄から移住したひいおじいさんからみて、4世代目にあたります。

介杜さんの好物は近くに住む祖母の啓子さん特製の沖縄の揚げ菓子「サーターアンダギー」です。

城間介杜さん(小6)

作りたてやから、サクサクしていておいしい

いまも暮らしに残る沖縄。しかし宮崎生まれの介杜さんが自らの家族や住んでいる町の歴史を意識することはほとんどありません。祖母の啓子さんもなぜ沖縄からこの地に移ってきたのかなど、多くを語ってきませんでした。

祖母
啓子さん

あなたのおじいちゃんがもう80歳だからね。そのじいちゃんが幼い時に戦争があって、この波島に来て。私らもあんまりそういう話をしてしてこなかったよね。

多く語られることがなかった
         波島の歴史

この地区が生まれたきっかけは戦時中、沖縄から疎開した人たちに地区の住宅があてがわれたことでした。戦後もアメリカ統治下のふるさとに戻ることが出来なかった人たち。生活のため、闇焼酎を作ったり、その絞りかすなどで豚を育てたりして戦後を生き抜いてきました。時に偏見も持たれるなか、肩を寄せ合い暮らしてきました。厳しい戦後の生活苦をなんとか乗り越えた人たちが、苦難ともいえる町の歴史をあえて語り、振り返ることは多くなかったのです。

先人たちの足跡を残したい

ことしで戦後77年。沖縄が本土に復帰して50年。
戦後の長い歴史の中で、沖縄との結びつきが薄れゆく中、この地区にある宮崎東小学校で去年から新たな取り組みが始まっていました。未来を担う子どもたちに町の歴史を学んでもらう授業です。
授業の講師を務めたのは4年前までこの学校で教師をしていた常盤泰代さんです。常盤さん自身は宮崎県内の出身ですが、この地域で暮らしながら、エイサーや三線の集まりに参加するなどして、地区のお年寄りたちから戦後の体験を多く耳にしてきました。

授業が始まった去年6月。常盤さんは衝撃を受けました。毎年運動会で沖縄の伝統芸能「エイサー」を踊っているにもかかわらず、子どもたちの中に波島と沖縄のつながりを知らない児童が少なくなかったのです。住宅地として人気が高まり、年々新しい住民が増える中で、当然の現実でした。

常盤泰代さん

エイサーを全校児童で踊るというのは特別ですよね。でも子どもたちは、なぜ自分たちがエイサーをしているのかピンときていなかった。子どもたちにとったら、いままでそういうことを知る時間がなかったから、きちんと伝わっていない。知らないっていう子どもが多いのも無理はないと思いました。

そこで常盤さんは、授業の中で沖縄の楽器「三線(さんしん)」を弾いたり、苦しい生活を支えた沖縄由来の工芸品の「宮崎漆器」や「つむぎ」を紹介したりして戦争に翻弄され、ふるさと沖縄を離れざるをえなかった先人たちの歴史を子どもたちに伝えていきました。

常盤泰代さん

戦争によって人生を翻弄された人たちがいっぱいいる。それが波島というところの歴史ですよね。でも年を経るごとにそれが薄らいでいく。しっかり学んでほしいと思います。

授業で沖縄とのつながりを学んでいった子どもたち。成果として一人ひとりが自分が学んだことや感じたこと、そしてこれから自身でできることを新聞にまとめました。沖縄にルーツがある子も、そしてまったく沖縄とつながりがない子も共通して書いていたのが「もっと多くの人に波島と沖縄の文化を知ってもらいたい」という思いでした。沖縄にルーツがある城間介杜さんは「沖縄の文化がなくならないように、いろんな人に伝えていきたいと思います。先生に聞いた話をこれから心に刻んで生きていきたい」という決意ともいえる言葉を記していました。

常盤泰代さん

介杜くんの「心に刻んで生きていきたいです」っていう言葉が嬉しい。この地区は先人たちの苦労によって築き上げられ、今の自分たちの生活がある。波島の皆さんが戦後の中で一生懸命生きてきたっていうところが一番大事なことじゃないかと思うわけ。今もとても大変な世の中だけど、子どもたちには乗り切って強く生きていってほしいなと思います。

“つなぐ未来へ” 
  子どもたちに芽生える意識

ことし3月の授業の最終日。学校の体育館ではエイサーを踊る子どもたちの姿がありました。エイサーの太鼓「パーランクー」をバチで力強くたたく子どもたち。そろった演舞からは、これまではとはひと味違った響きが聞こえました。宮崎の「リトル沖縄」に響く沖縄のエイサー。戦後70年以上たった今、少しずつ先人たちの思いを引き継いでいこうという新たな息吹を感じずにはいられませんでした。

城間介杜さん
(小6)

じいちゃんのふるさとの沖縄の人たちがこの宮崎に来てまで残してくれた伝統だから、なくさないで受け継いでいきたい。大人になったら、沖縄に行って沖縄の人たちに「いろいろともらったことは今もやってるよ」って知らせに行ってみたい。「まだ守ってるよ」って。

  • 土橋大記

    宮崎放送局コンテンツセンター アナウンサー

    土橋大記

    山形・仙台・東京・沖縄・宮崎に勤務。お世話になった土地をつなぐ仕事をしたい!

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