
将棋界の頂点へ “運命の一手”の舞台裏
10月11日、夜8時45分。対局会場にいた私は、東京で対局結果の速報を用意しているデスクに電話した。
「立会人が対局室へ向かいました。永瀬王座の勝ちです」
ある棋士の言葉を借りれば、“まるでブラックホール”のようにタイトルを奪取してきた藤井聡太。異次元の強さで、タイトルを次々に奪取してきた藤井は、いつか八冠独占を果たすだろう。でも、それは今夜ではない。
足早に対局室に向かう観戦記者の誰もがそう思ったはずだ。
あの“運命の一手”が指されるまでは。
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決戦の舞台は京都

将棋の八大タイトルの1つ、「王座戦」五番勝負、第4局が行われたのは、京都市のホテルだ。五番勝負は、先に3勝をあげた棋士がタイトルを獲得する。ここまで藤井聡太七冠が2勝、永瀬拓矢王座が1勝。藤井七冠がタイトル奪取、すなわち八冠独占に王手をかけていた。
対局中の様子は控え室にあるモニター画面を通してしか見られないが、対局が始まるとき、そして終局直後だけは報道陣に公開され、撮影が許されている。テレビ局は順番で代表撮影の担当を決めていて、この日はたまたまNHK。幸運にも私は対局室へ入ることができた。
対局が始まるのは朝9時。ホテル敷地内の専用通路を通って対局室へ向かい、30分ほど前にはスタンバイしていた。
先に入室したのは前局までと同様に永瀬王座。水色の羽織に緑のはかま姿で、着座するとすぐに目を閉じた。タイトル保持者にもかかわらず先に対局室に現れたのは、この勝負への思いの表れだろうか。
「おはようございます」
続いて藤井七冠が朝のあいさつとともに対局室に。白の羽織、グレーのはかま姿で盤の前に座った。
8時50分すぎには駒も並べ終わり、室内に緊張感が漂う。2人の様子はこれまでとあまり変わらない。
そして午前9時。対局が始まると、永瀬が飛車先の歩を突く。戦型は序盤に大駒の「角」を交換する「角換わり」。
決戦が幕を開けた。
“彼の目の中には藤井さんしかいない”

退室した私は、控え室に戻り、中継映像で観戦していた。
ここまでの五番勝負、星の上では藤井七冠がリードするも、棋士からは「永瀬王座が勝ち越していてもおかしくない内容だ」という評価を多く耳にした。この五番勝負のため、万全の準備をしてきたのだろう。序盤から中盤にかけて、主導権を握るのは永瀬だった。
対局開始後20分、早くも控え室で驚きの声があがった。
永瀬がいきなり桂馬を跳ねる積極的な手を示したのだ。
これに対し、藤井の指し手は重く、長考を繰り返す。
王座戦五番勝負の持ち時間はそれぞれ5時間だが、この日、昼食休憩に入った時点で、藤井は半分以上の「2時間48分」を消費。一方、永瀬の消費時間はわずか「21分」。
この日も、戦いのペースは明らかに永瀬のものだった。

将棋に対して厳しく真摯に向き合う姿勢から、「軍曹」の異名で呼ばれる永瀬。
藤井とは練習将棋を指す研究仲間で、ある意味では、互いの手の内を知る間柄だ。
永瀬と親交のある鈴木大介九段は、永瀬の将棋に対するひたむきな姿勢、そして藤井への思いを語っていた。
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鈴木大介九段
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「とにかく将棋に対して真面目で真摯で、プロフェッショナルだと思います。永瀬さんが2015年の『電王戦』でAIと対局したとき、風の噂で、“1日10時間もコンピュータの前で体調もボロボロになって研究していた”と。それをやりきって結局彼が勝ちましたが、命を削ってまでして挑むのは彼の中で、棋士代表としてやるからには負けるわけにはいかないという思いがあったと思います。
そして藤井さんは、その彼が一生をかけて追い抜こうとしている相手です。藤井さんが将棋を辞めたら彼のモチベーションもなくなっちゃうぐらいだと思います。藤井さんに勝つことが将棋界を盛り上げることだという思いもあるでしょう。今の彼の目の中には、藤井さん1人しか見えていない」
“永瀬王座の勝ちです” その直後…

午後に入っても、藤井にとって苦しい時間が続く。
永瀬は「角」や「銀」をいかして攻撃態勢を整え、2時間を超える長考を挟みながらもリードを広げていた。
午後8時前。藤井が先に持ち時間を使い切り、「1分将棋」に入った。
以後、藤井は1手を60秒未満で指さなければいけない。
AIの評価ではわずかに藤井に形勢が傾く時間帯もあったが、午後8時半すぎ、永瀬が「1分将棋」に入ったときには永瀬の優勢が安定しつつあった「銀」や「と金」を活用し、着実に攻めていく。
そして122手目、藤井が相手の玉に向かう「5五銀」と打った局面では、AIの評価値が永瀬に圧倒的に有利な「99%」を示した。
次に永瀬が「金」を打つと、藤井の「玉」が詰む手順があったのだ。
午後8時45分ごろ。控え室にいた立会人や報道陣は終局の瞬間に備えて対局室へ移動を始めた。私も急いでデスクに電話する。
「立会人が対局室に向かいました。永瀬さんの勝ちです」。
そして対局室に向かうエレベーターに乗り込むとき、関係者のひとりから「えっ」という声が上がった。慌ててスマートフォンで棋譜中継を見ると、目を疑った。形勢が全く逆転し、永瀬の評価値が数%に下がっていたのだ。
いったい何が起きたのか。電話をする余裕もなく、デスクに形勢が変わったことをメッセージで送る。どうやら永瀬の123手目が、勝ち筋とは異なる手だったようだ。
あまりにも突然の形勢逆転。混乱したまま対局室の前で待っていると、間もなく永瀬が投了。
将棋界初の八大タイトル独占。藤井聡太「八冠」が誕生した。
“運命の一手”

終局後の対局室には、熱気のなごりが立ちこめていた。
戦いを終えた2人の表情はふだんと変わらないように見える。
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藤井聡太八冠
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「早い段階からかなり激しい展開になり、苦しくなってしまった。結果は幸いしたが、この経験を糧にして、もっと実力をつけていかなくてはいけないなと感じています」
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永瀬拓矢九段
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「終盤でチャンスがあったときに決定力が足りずに負けてしまうということを2局続けてしまった。今の自分の全力は出せたのではないかと思う。個人としては悲観せずに今までどおり一歩一歩、頑張っていきたいと思います」
タイトルを奪われながらも、淡々と対局を振り返る永瀬。数分前、髪をかきむしり、額に拳を打ち付けていた姿をみじんも想像させないそのたたずまいからは、その胸中を推し量ることはできなかった。
その後、およそ1時間にわたり行われた感想戦。死闘を繰り広げた2人の顔には、笑顔すら浮かんでいた。
運命の一手はなぜ

最終盤、まさに勝敗を決定づけた”運命の一手”。藤井八冠の奇跡的な大逆転は、なぜ起きたのか。
122手目、藤井が「5五銀」と打った局面。ここで永瀬が「4二金」と打てば、藤井の「玉」に「詰み」があったとされる。
しかし永瀬が指したのは「5三馬」。王手ではあるが、棋士やAIの予想にはなかった指し手だった。
この1手でAIの評価は一気に永瀬の不利に傾き、10%を切るまでに低下した。藤井の「玉」は詰まなくなり、反撃して一気に逆転。形勢を覆すことはできず、永瀬は投了に追い込まれた。

対局を見守った深浦康市九段は、次のように振り返る。
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深浦康市九段
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「永瀬九段には詰みが見えたが“幻”だった。将棋は怖いもので『勝ちだ』と思った瞬間に隙が生まれる。永瀬九段が優位な時間が長かったし、対局前のインタビューでも『人間の一面を捨てないと勝てない』と言っていたので覚悟を感じていたのだが、藤井八冠からどこでひっくり返す手が出てくるのか、怖くて思い切って踏み込めないところもあったと思う」

日本将棋連盟の理事を務める森下卓九段にも、永瀬九段が勝ち筋とは異なる手を指した理由を聞いた。
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森下卓九段
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「一番大きな理由は、持ち時間がなくなり、『1分将棋』になっていたからだと思う。さらに、藤井八冠が相手だとこれでもかというくらい手を読まなければならず、初手から疲労が積み重なっていた。勝ちが見えていたのに、こうした負の相乗効果で悪夢のような大逆転負けになったのではないか」
藤井の師匠・杉本昌隆八段は、弟子の勝利を願いながらも、1人の棋士として別の思いも抱いていたという。
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師匠・杉本昌隆八段
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「師匠としてはこの対局で決めてほしいという気持ちがありました。でも同時に、永瀬さんにも勝ってほしかったという思いがあるんです。今期の五番勝負で永瀬さんは、全局通じて本当に内容がよかったんです。いい内容の将棋を逆転負けしてしまうことのつらさって、私たち棋士は自分のことのように感じるんです。今回は永瀬さんにフルセットまでいってもらって、最終局での決着を見たかったという思いもありました。
改めて、人と人の勝負の素晴らしさ、そして将棋の楽しさと恐ろしさも感じました。やはり将棋は“逆転する競技”なんです。その逆転した瞬間を見逃さない藤井八冠の強さも光りました」
“運命の一手”引き寄せた藤井の終盤力
「王座戦」五番勝負の第4局で永瀬が指した、勝ち筋とは異なる手。
「1分将棋」で時間が少なかったことなど、さまざまな要因が考えられる。
そして、その直前に打った藤井の「銀」。
永瀬の玉に迫るこの勝負手が、「裏に何かあるのではないか」と思わせ、結果的に失着を誘い、逆転勝ちを引き寄せた“運命の一手”だったと言えるのかもしれない。
対局から一夜明けた記者会見で藤井は、劣勢の場面で心がけていることを聞かれ、こう答えていた。

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藤井聡太八冠
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「局面が苦しいときは、そのまま自然に進めてもさらに苦しくなってしまうので、なるべく相手玉に少しでも迫る形を作って、何とか複雑にできればということを考えて指していました」
AIがはじき出す数値だけでは判定できない、“人間対人間”の勝負を制した藤井。
森下九段は次のように振り返る。
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森下卓九段
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「これまでタイトルを独占してきた大山康晴・十五世名人(1963年に当時の五冠独占)や羽生善治九段(1996年に七冠を独占)には奇跡としか言えない勝ちが多くありました。それは、強さ故に相手がプレッシャーやおそれを感じて、語弊のある言い方だが『相手が負けてくれる』ということが起きるからだと思う。最後にきっちりと勝ちきるのは実力だが、信じられない大逆転を続けて起こしてしまうのが、AIにはない藤井八冠のすごさだと思います」。

また、谷川浩司十七世名人は、今回の「王座戦」では藤井八冠の相手玉を追い詰める「寄せ」などの“終盤力”が引き寄せた勝ちだという。
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谷川浩司十七世名人
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「形勢が苦しくなった局面で、藤井さんが四段や五段のころから発揮していた終盤力、鋭さやひらめきが際立っています。小学生の頃から詰将棋を解き、自分でも作っていたことで、いろいろな『詰む形』『詰まない形』を知識として多く身につけてきた。それによって実際の対局でも読む時間を省略して、数多く読めるわけです。例えば、AIが『90対10』という評価をしても、“絶対に逆転しない90”と、“1手間違えれば逆転する90”というものがあります。藤井さんは、劣勢でも勝負手を指すことで、1手の間違いで逆転してしまうようなギリギリの終盤に持ち込むことも超一流だと思います」
今後の将棋界への期待は
活躍を見守ってきた棋士たちは、藤井に今後、何を期待しているのか。

藤井について、「棋士の中で一番将棋が好きだと言ってもいい」と語る谷川十七世名人。27年前の1996年、羽生九段に「七冠」を許した当人だ。
今のトップ棋士たちには、藤井と渡り合い、高めあっていくことを期待しているという。
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谷川浩司十七世名人
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「私も30年近く前、羽生さんが七冠を目指しているときに今回の永瀬さんの立場でした。勝負の世界は長く、30年、40年と現役で戦い続ければ、主役の立場になることもあれば、脇役にまわることもある。脇役にまわるということも結構大変なことで、それなりの実力・実績がないと脇役にさえなれない。
今後は誰が藤井さんに最初に土をつけるかということが大きな注目になると思いますが、ほかのトップ棋士にも奮起してもらって、同じ景色を見てその中でぶつかり合う、対話をするということが、藤井さんの好奇心をいっそう刺激することになると思います。藤井さんとギリギリの中終盤を戦うことで、また藤井さんの強さが見られるということでしょうか」
羽生九段は、どれだけ時代が変わっても、人と人が向き合って生まれる将棋の魅力は変わることがないと強調する。
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羽生善治九段
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「将棋の定跡も戦術もかなり変わったところはあります。ただ、お互いに一生懸命研究したり分析したりして、1局1局に臨んでいくという姿勢は変わっていないと思います。人間と人間との対局ですから、相手の雰囲気や迫力、考え方、そして駒がぶつかり合って1局の棋譜が生まれる。そこは普遍的で、100年前も今も変わらないところだと思っています」
師匠の杉本八段は、初心を忘れずに藤井八冠に戦い続けてほしいと願っている。
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杉本昌隆八段
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「かつて棋士になりたての彼に、『君にできる将棋普及は、将棋に勝つことだ』と言った覚えがあるんです。だから、彼の役目は、勝ちまくること。そして楽しい将棋、人が見て感動する将棋を指すこと。その姿勢はこれからも変えずに、勝ち続けてほしいし、今までのような、将棋が好きな“将棋少年”の気持ちを忘れないで、これからも将棋に向かってほしい」
藤井聡太、どこまで強くなるのか
私たちは藤井のプロ入り前から取材を始め、史上最年少でのプロ入り、前人未到の29連勝、最年少での初タイトルといった瞬間を目撃してきた。そして、初タイトルからわずか3年あまりでの“八冠”独占という歴史的な瞬間に立ち会うことができたのは、記者という職業上の幸運というほかない。
ことしに入ってからだけでも藤井は「棋王」「名人」と次々とタイトルを奪取していった。そのあまりに危なげのない勝ち方に、「藤井聡太の中身はAIなのではないか」と互いに冗談を交わすこともあった。
しかし、八冠独占を決めた永瀬との王座戦五番勝負は、少し様子が違っていた。序盤から長考に沈む藤井。窮地に追い込まれ、苦悶する藤井。AIなら99%負けるとされる局面からの大逆転は、人間と人間同士の勝負だからこそ起きた奇跡だ。

保持するタイトル数が増えるにつれ、藤井がマスメディアに対して個別に語る機会は減ってきているが、タイトル戦前後の記者会見では一貫して八冠について“意識していない”と語ってきた。
達成後の記者会見で見せたのも、将棋への真摯な姿勢だった。
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藤井聡太八冠
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「八冠を達成できたのはなかなか実感が湧かないのが正直なところです。うれしい気持ちとともに、これまで以上に将棋の内容でも細かいレベルのものが要求されると思っています」
そして、八冠の“その先”にある目標を聞かれると。
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藤井聡太八冠
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「まずは実力をつけること。その上で、 “おもしろい将棋を指したい”という気持ちがあります。将棋を指す中で、そういった局面に出会えたらいいなと思いながら指している感じです」

タイトルを独占してなお「実力をつけたい」。今後対局する棋士が頭を抱えそうな目標だ。そして続いた「おもしろい将棋」という平易だが謎めいた言葉。これまで数多のトップ棋士を破ってきた藤井にとって「おもしろい」とは何を意味するのだろうか。天才棋士の意味するところを私たち凡人が想像するのは無謀の極みだが、どれほどの大記録がかかっていようが、目の前の盤上の1手、そして将棋の真理を追究する藤井その人を体現している言葉といってもいいかもしれない。
21歳にして将棋界のタイトルをすべて保持することとなった藤井聡太八冠。これからはすべての棋士から追われる立場になる。正真正銘“藤井絶対時代”であり、すべての棋士が打倒藤井を目指して研究し、挑戦してくる。この先生まれるであろう、棋士と棋士の盤上の物語に終わりはない。
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