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佐田岬半島の人々を撮り続けた半生

写真家 新田好さん(1922~2016)
  • 2023年10月24日

モノクロームの写真に写る、笑顔の子どもたち。見る人も笑顔にさせるような写真を撮影したのは、写真家の新田好さん。半生をかけて佐田岬半島の人たちにレンズを向け、ありのままの姿を収め続けた。時代は、高度成長期。岬で暮らす人たちは、厳しい自然環境にさらされても、愚痴1つこぼさず、いつも新田さんを温かく迎えてくれたという。

(NHK松山放送局 宇和島支局 山下文子)

なぜ佐田岬半島を撮り続けた?

新田好さん

新田好さんは、大正11年に愛媛県八幡浜市に生まれた。実の姉が佐田岬半島の突端にある当時の三崎町に嫁いだことから、岬に通い始めるようになった。岬には、平地が少なく海岸線は細かく湾曲していて、畑を作れるのは急斜面の山々のみ。厳しい自然環境に暮らす人たちにレンズを向けるきっかけになったのは、岬の人たちの屈託のない明るくおおらかな性格に触れたことだった。

息子の新田宏樹さん

父親の撮影にたびたびついて行ったことがあるという息子の新田宏樹さん(70)は、当時のことを懐かしむようにこう話した。

「とにかく人に臆せずニコニコしながら笑いかけて話すんですよ、土地の言葉で。すっと入っていくんですね、父というのは。それが特技かと思いますし。すぐ仲良くなって肩をたたいたり握手しながら話し出すんですよね。これは特技だと思います。たぶん人が好きなんだろうと思うんですよね。どうしてもいろんな遠慮とか普通の人は考えるんですけど、彼はあまりそう言うことを考えないで、天真爛漫に人の心の中へ入っていける不思議な人でしたね。『先生また来たかな。あの赤ん坊は元気にしとるかな』と、そういうやり取りをしながらパッと写していた」

石垣前の大家族(正野)
牛引く女性(1958年川之浜)

「あけっぴろげで人情深い、人なつっこくて親しみやすい」
新田さんが、そう著書に記すように、写真に収まる人たちの表情のなんと豊かなことか。背よりも高い石垣の前に勢ぞろいする大家族。子どもを背負い、牛を引いて海岸を歩く女性。新田さんは、昭和20年ごろから40年あまりにわたって岬に足しげく通い続け、そこに生きる人たちそのものを捉え続けた。

初の個展は海岸で

昭和48年、新田さんは初めての個展を開いた。会場は岬の川之浜地区にある海岸だった。大きく引き伸ばした写真およそ130枚をパネルに張り、浜辺に組んだ材木に1つ1つ針金と釘でつけた。当日が地域の宵祭りと重なったこともあって、話を聞きつけた人たちが続々と集まって来たという。

「おおこりゃあ、わしが60の時の写真じゃ。20年前やけど今の方が若いの」と撮られた本人が写真を見つけては、大きな声が飛び交い話が盛り上がる。目がギョロッとしたガキ大将の写真を見ては「がいなやんちゃな顔しとるの」と冷やかしてみたり、浜辺には笑い声が絶えなかったという。

新田さんの息子・宏樹さんは、浜辺で行った個展をこう振り返る。

「写真を見ては泣いたり笑ったり、この人はもう死んだとか今あの子どもがこんなに大きくなってるとか。そこで喜んでもらって、肩たたいて、浜辺で一緒にジュースを飲んだりスイカを食べたり、そうやって話しながらやるのが楽しかったんですよね。東京なんかでも展覧会、同人展とかやってましたけど、父はそんなの別にうれしくない。浜辺でやったその展覧会の方がよっぽどうれしそうでしたよ」

新田さんが、岬の人たちとどんな関係を築いていたのかは写真を見れば分かる。どれほど愛情を持ってシャッターを切っていたか。1枚1枚の写真からは、新田さんと岬の人たちの笑い声が聞こえてきそうだ。

60年の時を経てモデルになった女性

これは1956年の串地区で撮影された写真。げたを履いて、ワンピース姿の女性が運ぶのは水だ。当時は、岬にはまだ水道がなく井戸から水を運ぶのが日常茶飯事だった。写っているのは、当時16歳だった松澤チナミさん。82歳になった今も串地区で暮らしている。新田さんは、岬の人たちにとって「ああ写真家の先生また来とるね、今は何撮りよんじゃろ」と、みんなが口にするほど地域に溶け込んだなじみの存在だったという。

松澤チナミさん

「この写真を見たとき『いつの間に撮ったんじゃろか』と同級生と笑った。当時は、皆貧しい暮らしをしていて私は仕立てたばかりのワンピースがうれしかったんじゃと思う。それを着たままいつものように水くみに行ったんよね。そこを撮られたんじゃね。『げた履いてワンピース着て水くみ行くのはあんたくらいよ』と、この写真見て同級生と大笑いしした」

写真家の浅田政志さん

その撮影から60年あまりたった2022年、あるプロジェクトが立ち上がった。新田さんが写した写真のその後を再び撮影するというものだ。参加したのは、新田さんの人に寄り添う姿勢に共感したという写真家の浅田政志さん(44)。撮影する写真は全部で12枚。浅田さんは、新田さんのモノクロの写真を頼りに写った人や場所を探す。赤ちゃんや子どもだった人たちは年を重ね、その人たちの孫にも出会った。当時、雨をしのぐために着ていたみのかさはカッパに変わり、ふんどし1丁で海に潜っていた海士は、今はウエットスーツを着ている。1950年代から2022年へのタイムトリップである。浅田さんは、新田さんの軌跡をたどりながら人と出会い、今の佐田岬半島を撮り下ろした。「ありゃなつかしいのお。これ、わしんとこのじいさんよ」と岬の人たちは新田さんのことをよく覚えていて、浅田さんの撮影に誰もが協力的だったという。

ワンピース姿で水くみをしていた松澤さんもモデルになった1人だ。あの頃の石垣はもうなくなり、今は電気屋さんになっている。今回は、秋と冬には必ず着ているというお気に入りの着物姿で撮影に臨んだ。はにかんだ笑顔を捉えた一枚。浅田さんが引き出したかわいらしい表情だ。浅田さんが撮影した写真は、伊方町の佐田岬半島ミュージアムで開催されている新田さんの写真展で一緒に展示されていて、岬の過去と現在を同時に見ることができるようになっている。

取材後記

新田さんのように半生をかけて佐田岬半島に通い、撮影し続けることは誰にでもできることではない。被写体になったのは、ひたむきに暮らしながらも毎日を明るく生きる人たちで、新田さんはそうした岬の人たちに魅了されたのだと思う。1枚1枚の写真からは、岬で暮らす人たちを慈しむようにして撮ったであろう深い愛情を感じる。それは、著書にこう記した願いのような思いからも分かる。

「岬の人びとは、みんな幸せになってほしい。いつまでも心豊かで忍耐強く、明るくのんびり暮らしてほしい。そして、ともすれば私たちが忘れかけようとしている“人間の素朴”さをいつまでも失わないように」

  • 山下文子

    山下文子

    2012年から宇和島支局を拠点として地域取材に奔走する日々。 鉄道のみならず、車やバイク、昭和生まれの乗り物に夢中。 実は覆面レスラーをこよなく愛す。

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