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京セラ名誉会長 稲盛さんと鹿児島 故郷へのメッセージは

  • 2022年09月09日

8月24日に90歳で亡くなった京セラの稲盛和夫名誉会長。京セラや今のKDDIにつながるDDIを設立、JALの再建にも携わり、「経営の神様」とも呼ばれた稲盛さんが生まれたのは鹿児島市です。稲盛さんは、故郷、鹿児島にどのようなメッセージをおくってきたのか、振り返ります。

突然の死去の一報 鹿児島は

鹿児島 天文館 8月30日

稲盛さんの死去が明らかになった8月30日。鹿児島市の繁華街、天文館では新聞の号外が配られ、受け取った人たちが驚いた様子を見せていました。

「大きな存在ですよね。寄付もいろいろされていた。惜しい人が亡くなった」

「立派な方、とても残念です」

霧島市にある京セラ国分工場でも。

「ちょっと涙が出そうな感じです。本当に象徴というか、京セラがあったのは稲盛名誉会長のおかげです」

経営の神様とも…

稲盛和夫さんは1932年、現在の鹿児島市城西で生まれました。鹿児島市にある西田小学校を卒業。戦時中の1945年には、空襲で実家を焼失します。
その後、現在の鹿児島玉龍高校を経て1955年に鹿児島大学工学部を卒業し、京都セラミック、今の京セラを設立します。みずから開発したファインセラミックスの技術をもとに事業を拡大して、一代で世界的な企業に成長させました。

さらに、1984年には第二電電=DDIを設立。電電公社、今のNTTの独占状態にあった通信業界に風穴を開ける挑戦は、いまのKDDIへとつながります。

2010年には経営破綻した日本航空の会長に就任し、1万6000人にのぼる人員削減などに踏み切りました。社員に対して採算性の意識を徹底して持たせることで再建を実現。経営手腕を発揮しました。故・松下幸之助と並ぶ「経営の神様」とも評されています。            

保ち続けた故郷との関係

稲盛さんは活動の中心を京都へ移したあとも、故郷・鹿児島との関わりを持ち続けました。

故郷である鹿児島県に工場を建設。母校、鹿児島大学からは名誉博士の称号が贈られています。2004年には成績が優秀な学生を表彰する「稲盛賞」も設けられ、卒業式では、賞状や薩摩切子のちょこを受賞した18人に贈りました。

鹿児島大学 2017年

2017年には鹿児島大学に銅像も建てられました。

稲盛和夫さん (2017年)

努力をしさえすれば、必ず人生は道が開けると私は信じてますし自分がそれを実行してきましたのでぜひ”進取の気風”を心に抱いて頑張ってほしいなと思っています」

死去の一報を聞いた学生たちは。

「とても残念なことだと思っております。鹿児島に対してもいろいろなことをしてくださって尊敬できる方だったので」

「京セラとか作られたりとか、鹿児島大学にもいろいろな資料が残ってたり、授業とかでもいろいろな教えを聞いてたりもするので、亡くなったと聞いて驚きました」

「鹿児島大学の象徴となるような方、大きな影響を与えた存在がなくなってしまったのは、初めて知ったばかりなんですが悲しいなと思っています」

鹿児島大学 佐野輝学長
「鹿児島大学関係者すべての誇りであり、これまで鹿児島大学を心から愛していただき、多大な寄付や精神的な励まし、物心両面から支え続けていただいてきた。このご恩に報いるためにも鹿児島大学は一丸となって今後も精進していきたいと思っております」

人材育成に貢献

稲盛さんが建設のために寄付 かごしま国際交流センター

稲盛さんは大学への記念館の寄付や、国際交流センター建設のために20億円を寄付するなど、私財をなげうって人材育成にも取り組みました。

2005年に母校の西田小学校を訪れた稲盛さん。母校の後輩たちにこう語りかけました。

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小学校の図書室にも稲盛さんからの寄付を受けて作られたコーナーがあります。

西田小学校 図書室

西田小学校 増山桂子司書
「子どもたちはいろいろなジャンルの本がありますので、手に取ってよく読んでいます。卒業生で稲盛和夫さんがいたことを通じて、ひととなりやいろんなことを子どもたちに司書として伝えたい」

同級生のねぎらいの言葉は

稲盛さんは2019年、87歳の時、初の名誉県民となりました。名誉県民は社会の発展にこの上ない功績を残し、県民が誇りとして敬愛する人に贈られます。その3年後のことし8月、90歳で老衰のため亡くなりました。
よく甲突川でエビ取りをして遊んだという小学校の同級生は、こう述べてこれまでの活動をねぎらいました。
 

小学校の同級生 岩重和義さん
「小学生の時、稲盛さんと同じ机を2つ並べて1年生の時には過ごした。勉強をしようにもノートや鉛筆も事欠く世の中で、稲盛さんは勉強して、京都の会社で一生懸命頑張った。今まで一生懸命日本のために、鹿児島のためによくやってくれた。ご苦労さん。ゆっくり休んで下さい

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