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ことしで90年 函館大火

  • 2024年3月18日

函館は風の強い津軽海峡に突き出た半島にある町です。木造家屋が多かった時代、火事が起きると、風で瞬く間に燃え広がり大きな被害につながりました。函館市のホームページには江戸時代以降の30回の大火の歴史が記されています。その中で、いわゆる“函館大火”と言えば最も被害が大きかった昭和9年3月21日の火災を指します。ことしはそれから90年。どれほどの被害だったのか?そして函館の町はどのように復興したのか?―この歩みを振り返ると現代の防災を考える上でも重要なポイントが見えてきます。

町の3分の1が焼けた

昭和9年3月21日の午後7時前。非常に発達した低気圧が近づいていて、函館では民家の屋根が飛んだり電線が切れたりするほどの風が吹いていました。そして、函館山のふもとの民家から出た火が瞬く間に広がったのです。火は当時の函館市のおよそ3分の1を焼き尽くし、1万棟あまりの建物が焼失。2166人の命が奪われました。風が強かったことに加え、いくつかの要因が重なって被害が拡大したと考えられています。

北海道防災士会道南ブロック代表 伊藤友彦(いとう・ともひろ)さん
亀田川にかかる橋が崩れ、そこに逃げる人が殺到して川に落ちてしまったり、風向きが変わって浜辺(大森浜)に避難した人たちが炎と海に挟まれて逃げ場を失ったりしたため、凍死したり溺れたりした人が多かったと言われています。

90年の展示会

函館大火から90年になるのに合わせ、いま市立函館博物館では展示会が行われています(「函館大火90年 昭和9年3月21日 函館の街が焼けた日」、10月13日まで)。

変わり果てた町の景色、炊き出しの様子、“復興バラック”と言われた仮設住宅の建設風景などの写真パネル、複数の硬貨が火災の熱で溶けて固まった塊、被災した子どもたちのためにと全国から送られた絵本など、およそ30点の資料が集められています。

学芸員の内田彩葉(うちだ・あやは)さんは一枚の写真に案内してくれました。それは当時、町なかに設置された巨大な看板の写真でした。書かれていたのは「近頃火災頻発の傾向あり/此際 緊張警戒火災の絶無を期し以て我等の郷土を護りませう/昭和九年二月」という文言です。つまり、函館大火が起きるほんの1ヶ月前に、函館では「火災の危険が高いから気をつけよう」という危機感が町全体で共有されていたのです。

市立函館博物館学芸員 内田彩葉さん
函館は明治にも大正にも大火で大きな被害を受けていましたから、火を出さないという意識は高かったんです。防火意識が高かったにも関わらず起きた、という意味で行政にも市民にもかなり大きなショックをもたらしたと考えられます。

函館の町は明治時代の大火で函館山の西側が大きな被害を受けました。それ以降、路地が入り組んでいた地域を碁盤目状の幅の広い道路で再区画したり、消火栓の設置を進めたり、火の燃え広がりを遮断するための町づくりがすでに進められていたのです(現在観光スポットとして有名な二十間坂もそのころにできたもの)。それでも昭和初期、木造家屋の密集地域を全て改善することは難しく、長年にわたって取り組んできた防火対策をあざ笑うかのように函館大火は襲ってきたのです。無力感に意気消沈してもおかしくない状況のなかで、人々はどんな行動をしたのでしょうか。

官民一体 決意の復興

実は、当時の人々は驚くほどたくましく立ち上がり、支え合い、いまに続く函館の町の原型を作り上げていったのです。道内や本州からは軍隊、警察、医療関係者、工事関係者など多くの人が救護活動や支援活動で函館に入りました。土地の区画整理など復興計画は当時の内務省が積極的に立案に関わり1か月あまりでまとめ上げました。迅速で多岐にわたる全国の支援が函館の人々を勇気づけたのかもしれません。そして計画は、函館市だけでなく道庁が積極的に関わって実行に移されていきます。
思い切った区画整理で、これ以降、函館では大規模な火災は起きていません。学芸員の内田さんは、函館の復興は「官民一体」がポイントだったと指摘します。

市立函館博物館学芸員 内田彩葉さん
道路の幅を広げると言うことで、宅地だった場所を道路にしなくてはならなかったんですね。その際、函館の地主さんたちが積極的に無償で土地を提供して復興道路を作り上げて行ったんです。官民一体となって、本当に市民の皆さまの協力があって函館市の町づくりが進んでいったのだと思います。

幅の広い道路、防火地区としてコンクリートの建物を集中させた官庁街、防災拠点として活用できるよう町にまんべんなく再配置したコンクリート製の小学校など、それらは極めて早くそしてほぼ計画通りに実現されました。火の延焼を遮断し避難場所にもなる緑地帯(グリーンベルト)は人々の憩いの場としての機能も想定されていて、いまでも1年を通してさまざまなイベントでにぎわっています。

北海道防災士会の伊藤友彦さんは「この函館大火を語り継ぐ意味は被害の悲惨さだけでなく、その後の町づくりにある」と強調します。そして今を生きる私たちがそこから学ぶべきことは、今後道南で起こりうるさまざまな災害を見据えて、災害に遭ってからではなく備えの段階から行政と市民が一体となって防災に取り組むことだと言います。

北海道防災士会道南ブロック代表 伊藤友彦さん
函館大火からの復興は、徹底した「町づくりのビジョン」と「高い市民の意識」が成し遂げた結果です。そして私たちは、経験したことがない大地震や火山噴火にも、先人の知恵を生かして対応できるはずなんです。そのために自治体、住民それぞれが災害を自分事として備えてほしいですね。

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