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【福島・南相馬】“教える・教わる”から“ともに考える”へ

震災伝承に向き合う教師の挑戦
  • 2024年03月04日

被災した経験のない者が、震災を教えられるのかー。そんな根本的な問いを抱えながら、防災教育に取り組む教員が南相馬市にいます。震災と原発事故から13年、見いだしたのは「教える・教わる」から「ともに考える」伝承のスタイルでした。

南相馬市の南部、小高地区にある小高産業技術高校。
およそ360人の生徒のほとんどが、震災と原発事故の被災地、相双地域の出身です。

地理歴史の教諭、小峰朱理菜さん(31)は、ことし2月、自身初の試みとなる防災授業を実施しました。授業といっても、小峰さんはほとんど教壇に立たず「教える」ことはしません。授業を展開していくのは生徒たちです。

教室に持ち込まれたのは、原発事故後に市内の牛小屋に取り残された牛が飢えに苦しんでかじった柱のレプリカなど。生徒たちは、実際に触れながら、それぞれ感じたこと、考えたことを自由に話し、伝え合っていました。

こうした形の授業を実施したねらいについて。

(小峰さん)
「被災地で生まれ育った生徒たちだからこそ、伝承の担い手になってほしい。誰かに聞いた話を伝聞として語るのでなく、本人たちなりのことばや思いを言葉にしてもらいたいと考えました」

被災を免れた者が震災を語れるのか…

福島県中南部、塙町出身の小峰さん。東日本大震災が発生した当時は高校を卒業したばかり。震度5弱の揺れで、商店を営む小峰さんの実家は商品が散乱するなどの被害を受けましたが、一家は無事。その翌月に進学で福島を離れたため、震災と原発事故の直接的な経験が無いまま社会人になりました。

5年前に今の学校に赴任した当初、大きな不安を抱えていたといいます。

(小峰さん)
「生徒たちに比べたら、自分の震災体験はずっと小さなものだと感じていました。私が何か震災について語れることはあるんだろうか。逆に私が発した言葉で生徒のつらい経験がフラッシュバックしたり、トラウマを思い出したりしたら大変だと、尻込みしていました」

津波で肉親を亡くしたり、原発事故によって長期にわたる避難生活を経験をしたりした生徒は少なくありません。生徒たちを気遣うあまり「震災」「原発事故」といったことばを口にすることを、避けてきたといいます。

同じような不安は、ほかの教員も抱いていました。

震災当時もこの高校で教えていた片山龍さん

工業科教諭の片山龍さんは、この高校(前身の小高工業高校)で震災を経験。
2度の転勤を経て、4年前から再び教壇に立っています。

(片山さん)
「生徒は当時、幼稚園児です。震災の記憶がいま、どれだけ彼らの心に刻まれているかは僕自身も分からない。深い傷を負っている子もいると思います」

震災後に生まれて当時を知らない、あるいは、おぼろげな記憶しかない若い世代も増えました。
生徒たちの記憶の風化を懸念する教員もいます。

震災後、浜通りでの勤務を続けている佐藤隆志さん

(佐藤さん)
「震災直後は、生徒たちの防災意識は高く、復旧を支援してくれた人たちへ感謝の思いも強いと感じました。13年たって、いまの生徒たちの意識や思いが薄れてきていることは否めません」

きっかけは生徒のひと言

歴史を教えている自分が、「風化」させるわけにはいかない。

しかし、自分には語れることがない…。

葛藤する小峰さんの背中を押してくれたのは、地理の授業中に生徒が何気なく発したひと言でした。

(小峰さん)
「地理の授業で、津波の被害にあった地域の航空写真を広げたところ、1人の生徒が『俺んちここにあったんだ』とさらっと言ったんです。それを聞いた時に、これまでデリケートになりすぎていた自分に気づいたんです。過酷な震災体験をしていない自分だからこその視点で震災を捉えて、語れる、伝えられることがあるのではと気づいた瞬間でした」

震災から13年を目前にしたことし2月。
小峰さんが同僚の教諭とともに実施したのが、冒頭で紹介した授業。

「震災遺産について考える」と題した授業では、福島県立博物館の協力を得て、収蔵する震災遺産を持ち込んでもらいました。

地震の揺れで落下した富岡高校の体育館にあった照明。
原発事故のあと浪江中学校に避難した人たちが、それぞれの役割分担を記した掲示物。

強い地震の脅威や、原発事故がもたらした苦難を物語る遺物を前に、生徒たちからはさまざまな声が聞かれました。

(生徒たち)
「こんな大きな照明が上から落ちてきたらパニックになるよね」
「避難所で自分たちにできることは、お年寄りの介護とか、救援物資を積極的に持ったり…」

ともに「考える」伝承

小峰さんは、あの震災をどう伝えるか、生徒たちにみずからの言葉で考えるように促しました。
遺物に向き合った生徒たちは、おぼろげに残る震災の記憶や被災地で生まれ育った経験を踏まえて言葉を紡ぎました。

(生徒)
「災害直後って牛だけじゃなくて人間も簡単には食べ物が手に入らないことがあると思うから、『あなたは食べ物や水をどう確保しますか』みたいなことを考えてもらえたらな」

小峰さんは、生徒たちの反応に手応えを感じたようです。

(小峰さん)
「私もようやく、震災と原発事故に正面から向き合えたという気がしています。生徒と一緒にこういうことを考えられたというのは私にとっても大きなできごとでした。被災地の出身で無い私だからこそ伝えられる、気づけることがあると思うので、私なりの視点とやり方で伝承していければうれしいです」

小峰さんは、今回のような授業の形をとることで、震災後に生まれた子たちでも自分のことばで震災を語り、伝えられるよう導けると考えています。今後は生徒たちが伝え手になって、後輩やほかの地域の人に向けた防災授業を行う機会も設けるなど、取り組みを広げていきたいと話していました。

  • 佐藤翔

    福島放送局 記者

    佐藤翔

    福島県立福島高校野球部出身。
    小高産業技術高校の前身、小高工業野球部とは3年春県大会1回戦で対戦し、1対0で辛勝。

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