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東京大空襲79年 “私も遺族だった” 祖母と叔母の生きた証をさがして

  • 2024年3月12日

およそ10万人が犠牲になったとされる東京大空襲。3月10日で79年がたちました。
ことし、その東京大空襲について伝える民間の施設に、犠牲者の名前や写真などを載せたパネルが新たに1枚、追加されました。
写真や情報を提供したのは、空襲で祖母と叔母を亡くしていた戦後生まれの女性です。
女性はこれまで東京大空襲との関わりを意識することはほとんどありませんでしたが、あることばをきっかけに自分事として考えるようになったといいます。
どんな心境の変化があったのでしょうか。
(首都圏局/記者 鵜澤正貴)

空襲の犠牲を伝える「名前と顔写真の壁」

東京大空襲があったのは、今から79年前、太平洋戦争末期の1945年3月10日未明のことです。
アメリカのB29爆撃機による空襲で、東京は下町を中心に壊滅的な被害を受け、およそ10万人が犠牲になったとされています。

この空襲について伝えていこうと、2002年(平成14年)、民間の人たちの力によって、東京・江東区に開館したのが「東京大空襲・戦災資料センター」です。
遺品や写真、模型、地図などが展示されていて、東京大空襲の被害などについて伝えています。

センターは、2020年(令和2年)にリニューアルされました。その際、新たに設置されたのが「名前と顔写真の壁」のコーナーです。犠牲者の名前や年齢、写真とともに、空襲当時の状況も記されています。

長野県から訪れた19歳男性
「旅行にあわせて、勉強になればと思って、訪れてみました。亡くなった方の写真や年齢、それに当時の状況に関する文章を見ると、具体的に伝わってきます。自分だったらどうだろうとか、想像もできて、とても悲しくなります」

亡くなった祖母と叔母 語らなかった父

「名前と顔写真の壁」では、これまで30人の犠牲者が伝えられてきましたが、ことし2月下旬、新たに2人分のパネル1枚が追加されました。

宮下恒子さん(当時45歳)と信子さん(当時7歳)の親子です。
信子さんの隣に写っているのは、兄の正和さん。
当時9歳だった正和さんは、東京大空襲を生き延びました。
写真や情報を提供したのは、正和さんの娘の宮下佳子さんです。

宮下佳子さん
「父(正和さん)と叔母(信子さん)のきょうだいで写っている写真は何枚かアルバムにあったんですけど、一番、2人が笑顔で楽しそうにしている写真を選びました」

恒子さん、正和さん、信子さんの3人の親子は、はっきりとはわからないものの、当時の深川区、現在の江東区あたりで暮らしていたとみられます。
恒子さんの夫で、きょうだいの父親はすでに亡くなっていました。

正和さんは、空襲の時、たまたまほかの2人とは離れて、神田にある親戚の家にいて、生き残りました。その正和さんも、5年前、病気で亡くなりました。
生前、戦争や空襲について詳しく話すことはありませんでした。

宮下さん
「父はあまり戦争のことは話さなかったですね。やっぱり語りたくなかった部分もあったと思いますし、つらかった日々を気持ちの中で閉じ込めたという部分もあったんじゃないかなと思います」

はっとさせられた“遺族”ということば

仕事や子育てにも追われ、東京大空襲のことを特に意識することなく、生きてきた宮下さんですが、去年(2023年)4月、はっとさせられる出来事がありました。

宮下さんは、「東京大空襲・戦災資料センター」で開かれていた空襲経験者の手記に関する企画展を何気なく訪問しました。
空襲そのものより、文学や文章に興味があったため訪れたといいます。

その時、センターの主任研究員でもある法政大学の山本唯人准教授と話す機会がありました。東京大空襲で祖母と叔母が亡くなったことを伝えると、思わぬことばが返ってきました。

宮下さん
「『ご遺族の方だったんですね』と言われたんですね。私自身、“遺族”という意識がそれまで全くなくて、そういう先祖がいたということは何となく知っていても、まだこう、無色透明というか、もう残像のような形でしかなかったんです」

確かにそこにあった 命や暮らし

このことばをきっかけに、宮下さんは祖母や叔母について調べ始めたのです。
群馬県にいる祖母の実家の親族とも連絡を取り合いました。
すると、倉庫に大事に保管されていたという、形見の品が届きました。

祖母や叔母が着ていた衣類でした。

中には、七五三の際にあつらえたのではないかという着物もありました。

保管状態が良く、当時の色そのもののようでした。

宮下さん
「最初にモノクロの写真だけ見ていた時と違って、これだけ色鮮やかなものをいったん見ると、モノクロの写真にも、少し色が乗るような感じで見えてくるんですね。確かにいた。そして生きていた。きっとここに暮らしがあったというのが、すごくその物から伝わってきました」

わかってきた空襲当時の状況

さらに、2人が亡くなった時の状況も親族の手紙や電話での聞き取りなどからわかってきました。

火に追われ、逃げ込んだ川の中で水死したとみられるということ。

祖母の恒子さんの妹が群馬から東京に向かい、着ていた服に縫い付けられていた名前などから、2人の遺体を確認したということでした。

宮下さんがこれまで誰からも聞くことのなかった、この悲惨な記憶。群馬の親族の間では大事に語り継がれていたのです。

宮下さん
「祖母は、女の子だけを抱きしめながら、もう1人の『正和』というのをきっと思いながら、水の中でもうとにかく彼だけは生きていてほしいと思いながら、亡くなっていったんじゃないか」

残された正和さんにも思いを巡らせました。

「きっともうぼう然としていただろうなと思うんですね。生きるだけで精いっぱいだったとは思うので、どんな気持ちだったのかなというのは、今となってはもう想像するだけですね」

尊厳ある存在として次世代に継承

こうしてわかった2人の記録。新たにパネルとして展示されることになりました。

制作を担当したのは、宮下さんに調べるきっかけを与えた山本准教授です。
犠牲者の名前や写真、エピソードには大きな意味があるといいます。

法政大学 山本唯人准教授
「一人ひとりの名前や写真、記憶を積み上げていくことによって、亡くなった人を尊厳ある存在として、きちんと次世代に継承していきたいと考えています」

戦争当時を知る世代が高齢化で減る中、新たに“遺族”として、家族の記録に向き合った宮下さん。
世界では戦争が続くなど、平和が脅かされる状況の中、日本の過去の戦争の記憶を継承していくことが重要だと考えています。

宮下佳子さん
「一人ひとり、誰かの大事な人がそこにいて、誰かの大事な人が失われてしまって、そして、残された人たちもいる。その一人ひとりがそこに存在していたんだということですね。今、世界で起きていることも他人事ではなく、自分たちと同じ、誰かの子どもであり、誰かの親である。そういう人たちの命が今、失われているということ。そうしたことを伝えることができたらなと。残された、これからを生きる私たちの役割ではないかなと思います」

取材後記

山本准教授は、宮下さんのように、“遺族”も、世代が引き継がれてきていると指摘しています。そして、こうした記憶の継承の動きに着目し、支援していきたいと話しています。
先の大戦では、日本だけでもおよそ310万人が犠牲になったとされています。また、亡くなりはしなくても、戦争の時代を生き抜き、その影響を受けなかった人はほとんどいないと思います。戦後80年近くがすぎ、当時のことを直接話せる人は残念ながら減っていますが、父や母、祖父や祖母、曽祖父や曽祖母など、自分に連なる人たちがどのように戦争の時代を生きたのか、調べたり、思いをはせたりすることは、今を生きる私たちにとっても、とても大切なことなのではないかと、今回、取材して感じました。

  • 鵜澤正貴

    首都圏局 記者

    鵜澤正貴

    2008年入局。秋田局、広島局、横浜局などを経て首都圏局。先の大戦に関する取材を続ける。

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