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太平洋戦争“特攻のための特攻” 兵士と家族の追憶

  • 2023年12月27日

東京・新宿にある「平和祈念展示資料館」で、ある企画展が開かれています。
展示されているのは、「義烈空挺隊」と呼ばれる、太平洋戦争中、激戦地の沖縄で捨て身の攻撃を行った特殊部隊の隊員たちの写真や手紙などです。
義烈空挺隊に課せられたのは、特攻隊が敵の艦船に攻撃できるようにするための作戦で、“特攻のための特攻”とも言われています。
戦後78年、今回初めて目にする展示で、最愛の夫を亡くした母の思いに触れた女性を取材しました。
(首都圏局/記者 鵜澤正貴)

兵士たちの最期の写真や手紙

新宿にある「平和祈念展示資料館」。
太平洋戦争中の日本兵の様子やシベリア抑留、引き揚げをテーマに、さまざまな資料を展示しています。

いま開かれているのが、「ある従軍カメラマンの追憶 義烈空挺隊員と家族の片影」という企画展です。

特殊部隊の「義烈空挺隊」

特殊部隊の「義烈空挺隊」は、昭和20年5月、激戦地の沖縄に出撃。多くの隊員が戦死しましたが、その存在はあまり知られていません。

展示されているのは、出撃前の隊員たちの様子を写した写真。

「義烈空挺隊」出撃前の最後の一服をする隊員たち

整列する場面や、隊長が遺書をしたためる様子、それに最後の一服としてたばこを吸う隊員たちの姿などが撮影されています。

家族に宛てた手紙も展示されています。

新藤勝少尉(※階級は戦死後)が新婚の妻の房江さんに宛てた手紙は半年ほどにわたって届けられ、若い兵士の心境のゆらぎも感じられます。

新藤少尉の手紙 昭和19年11月20日

・昭和19年11月20日
「僕は日本一の幸福者 如何なる困難にも打ち克ってきっと幸福にする覚悟でおります」

新藤少尉の手紙 昭和19年12月14日

・昭和19年12月14日
「毎日床についてはあの頃のことを思い浮かべて淋しい」

新藤少尉の手紙 昭和20年5月21日

・昭和20年5月21日
「もうこれが最期かもしれない」
「いつまでも元気でね 僕も元気で征きます」

 

来場者
「想像以上のものが確認できて、とても複雑な感じです。もう言葉が出ませんよね」

“特攻のための特攻”義烈空挺隊とは

「義烈空挺隊」に課せられた任務は、アメリカ軍に占領された飛行場に強行着陸し、手りゅう弾などで敵の航空機や施設を破壊するというものでした。

「義烈空挺隊」

日本本土への空襲を防ぐ目的で、サイパン島や硫黄島への攻撃が計画されましたが、戦況の悪化でいずれも中止に。その後、昭和20年5月24日、アメリカ軍が占領した沖縄の飛行場を目標に作戦を実行しました。
特攻隊が敵の艦船を攻撃できるようにするため、防空網を制圧することが目的だったとされ、“特攻のための特攻”とも呼ばれています。

しかし、アメリカ軍の攻撃に遭うなどして、強行着陸できたのは1機のみ。エンジントラブルなどで引き返した機体を除き、あわせて112人が戦死しました。

戦後に生まれた1人娘 家族の思い

カメラを構える小柳次一カメラマン

出撃直前の隊員たちの写真が、どうして残されているのでしょうか。
実は、カメラマンの小柳次一氏が従軍し、撮影していたのです。
従軍カメラマンが撮影した写真の多くは、終戦時、軍の命令で焼却されましたが、小柳カメラマンは、一部を自宅に保管していました。

長谷川少尉

長谷川道朗少尉。
パイロットで、「第3独立飛行隊」の隊員でしたが、義烈空挺隊を輸送する任務に就き、運命を共にしました。
当時の階級は曹長でした。戦死したことで、少尉に特進しました。

長谷川少尉の1人娘 品田美都子さん

今回、長谷川少尉の1人娘で、東京・港区在住の品田美都子さん(77)にお会いすることができました。
品田さんは当時、母親のつね子さんのおなかの中にいて、戦後になって生まれました。
父親の姿は、残された写真や一瞬映るフィルム映像でしか知りません。

両親が結婚したのは、昭和20年2月。結婚式は長谷川少尉の親族がいる滋賀県彦根市で行われました。東京にいる親戚で、来られなかった人の中には、3月10日の東京大空襲に巻き込まれて、亡くなった人もいるといいます。戦況はきわめて厳しいものになっていました。

品田美都子さん
「母が父と別れたのは、妊娠の初期だったと思うのですが、母は『もしかしたら』とは思っていたけれど、あとで違ったら父がどんなにがっかりするだろうと思って、言えなかったと言っていましたね。結局、私は生まれたので、伝えられなかったのが残念だったそうですが、もし伝えていたとしても、生まれてくるわが子を残して、自分が命を落とす、亡くなっていくというのはやはりつらいことだと思いますよ。かえって知らないでよかったのかなとも思いますね」

戦後は、長谷川少尉の恩人だった叔母が、品田さんにとっての祖母代わりとなり、品田さん親子の彦根での生活を支えてくれました。父親が戦死したことは知らされずに育ちました。

「幼い頃は『お父様は外国で飛行機の勉強をしているのよ』と聞かされていて、飛行機が空を飛んでいると、『お父様、お帰りなさい』と手を振っていたくらいです。その後、小学1年か2年の時に、学校で『私のお父さん』という作文を書くことになったんですが、何も書けなかったんですね。それで、家に帰って『どうして私にはお父様がいないの』と私が大泣きしましたら、その時初めて、母と祖母が『お父様は戦争で亡くなったのよ』と言ったんです。母と祖母が『もうどうする事もできない、お父様はいないのよ』と、本当に悲しそうに泣いて、3人で大泣きしました。それから私は父のことを話すと、こんなに悲しい思いをしなくちゃならないんだと思って、父のことは全く話さなくなったんですね」

20年ぶりに父と“再会”した母

12月中旬、品田さんも今回の企画展を訪ね、学芸員の案内を受けました。

展示会場を訪れる品田さん 

企画展では、戦後の小柳カメラマンの取り組みを紹介したコーナーもあります。

ここで展示されている写真の中には、義烈空挺隊の写真を前にして、涙する女性の姿を写したものも。

小柳カメラマンが戦後20年経って、ようやく大切に保管してきた写真を銀座で展示した時のものでした。

涙する女性は長谷川少尉の妻 品田さんの母親のつね子さん

会場を訪れて、涙していたこの女性こそ、長谷川少尉の妻。品田さんの母親のつね子さんでした。

つね子さんは、自分が見送ったあとの夫と、ここで20年ぶりに“再会”していたのです。

「母は結局、父が最後に出撃した場所というのがわからなかったそうですから、写真展でそれがわかって、最後の姿を見て、ほっとしたんじゃないかと思いますね。この時にやっと何か自分の中でお別れができたというか、そういうことだろうと思います」

小柳カメラマンは、写真を撮り続けたときの思いについて、後年、こう語っていたといいます。

「あす、死ぬかもわからない戦場で、こういう兵隊がいたのだと、ちゃんと撮っておきたかった」

1人1人の兵士の姿を記録し、戦後の時代に残した小柳カメラマンに、つね子さんはお礼の手紙を書いていました。

つね子さんの手紙

「苦しい20年の間、戦争への怒り、憎しみは私だけの胸に秘めていかねばならぬ運命と1人悲しんでおりましたが、20年目にして今ここに皆様のお心のほどを知り、嬉し涙でございます」

品田さんはこの日、初めて、その手紙を目にしました。つね子さんもすでに亡くなり、当時の思いを改めて聞くことはできません。

「母は、自分の心中を私に話すことはなかったんですけれども、やはり苦しかったんだなと、自分のこの怒りをね、どこへぶつけていいのかというのがあったんだろうと思います。心の中でそういう葛藤があったんだなということは、今回初めて知りました」

品田さんは、戦争で命を落とした人にはそれぞれ自分たちのような大切な家族がいたということを、今を生きる多くの人たちにも知ってほしいと感じています。

「1人1人に今の人たちとも変わらない日常や生活があり、将来があったと思うんですね。ですから、それを途中で断たれた人たちのご本人の気持ち、残された家族の気持ちを考えると、何をすべきかなって。300万人亡くなったという数字で表されても、1人1人の顔は見えてきませんよね。こういう展示を見ると、何か感じ取ることがあるんじゃないかと思います。今も世界では戦争で多くの人が亡くなっています。特にこれからの世代の人たちには、自分の目で見て、自分なりにそれをそしゃくして、これからどのように生きていけばいいのかということを真摯に考えてもらえたらなと思いますね」

取材後記

戦後78年という長い年月が過ぎ、当時を知る人も減っていますが、品田さんから、戦後の自身が幼い頃の家族のお話を伺うと、決して遠い過去のことではないように感じられました。また、世界では今も戦争が続き、多くの兵士や民間人が犠牲になっている現状もあります。私自身、祖父が戦死していますが、「1人1人に日常や生活があり、将来があった」という言葉を、改めて重く受け止めたいと思いました。

企画展は、年末年始の休館日のあと、2024年1月5日から14日まで開かれます。

  • 鵜澤正貴

    首都圏局 記者

    鵜澤正貴

    2008年入局。秋田局、広島局、横浜局などを経て首都圏局。

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