キャスター津田より

1月12日放送「福島県 葛尾村」

 いつもご覧いただき、ありがとうございます。
 今回は、福島県葛尾村(かつらおむら)です。人口は約1400で、原発事故で全域に避難指示が出されました。

1月12日放送「福島県 葛尾村」

2年7か月前、一部の地域(=帰還困難区域)を除いて避難指示は解除されましたが、村へ帰還したのは人口の2割ほどにすぎず、すでに村外に新居を構えた人も多いのが現状です。

 

 はじめに、村の体育館で開かれていた、村民による“新春バレー大会”におじゃましました。

1月12日放送「福島県 葛尾村」

43回目となる恒例行事で、原発事故後も避難先で続けてきました。参加者は約80人で、多くは避難先から駆けつけた方々です。会場には歓声が絶えず、いわき市から1時間半かけてやって来た女性は、

「やっぱり故郷は皆の集まる所だし、最高です。若い人が集まるのも、こういう時しかないんですよ」

 と言いました。自宅が郡山市にある、別の40代の女性は、こう言いました。

「年1回ですけれども ここに来て、皆で楽しくバレーをやれることで、地元に帰って来て良かったなと思います。年1回ここで会う、という人もいますので…。同級生も、この時くらいしか会わないですね。元々バレーも好きですけど、やっぱり地元の温かさを、ここに来るとつくづく感じますね」

 次に、4年前に取材した方を再び訪ねました。50代の女性で、村外の仮設住宅から一時帰宅しているところを取材した方です。4世代7人で暮らした家は、畳が腐れるなど傷みが激しく、“何事もなければ、ここでまだ生活しているんですよね”と言いました。そして、こう続けました。

「周囲では“土地買ったよ”とか“家建てたよ”という話が増えました。最近は“帰るの?帰んないの?”っていう会話も多くなりました。自分の子どもは、村に戻したくないです。自分たちがなかなか復興していかないのに、これからの子たちに、復興という重荷を背負わせていいのかな?って…」

 調べてみるとこの女性は、村から車で30分の田村市(たむらし)に住んでいました。取材から1年ほどして、田村市に新しい家を建て、夫と息子の3人で暮らすことを決めたそうです。村の自宅は解体を済ませ、現在は村まで車で通い、宿泊入浴施設で働いています。

「葛尾に家を建てても、その後、息子に二重の負担をかけてしまうから…。自分たちが生きている間はよくても、いなくなった後に息子が大変だろうって思ったんです。私の働く施設には葛尾の人も来てくれて、“いま何やっているの?”とか、話ができるのが一番の楽しみです。来てもらうと安心するし、“今度また来てね”って言うのも、自分が癒やされているというか、安心できるっていうか…。村に住めなくても村の変化を見ていたいし、村で働いて村の人と接するのは、自分の癒やし、自分の願いです」

 この女性や、バレー大会に避難先から集まっていた方々が、今の葛尾村の“普通”であり、大部分の方々です。避難指示が続いて戻れない帰還困難区域を除けば、震災前の村民で、すでに戻れる状況になっても戻らない人は8割強に上ります。震災前、村の小中学校に通っていたのは112人でしたが、昨年度は26人、村内の校舎で授業を再開した今年度は18人、来年度は13人の見込みです。子育て世代が、子どもを避難先の学校に通わせ、そこで生活を確立しているのは明らかです。ただ、仮設住宅の入居期限がこの3月まで(帰還困難区域は来年3月)と決まっていて、他の自治体をみると、入居期限を過ぎた後は、帰還者が一定数増える傾向にあります。

 

 その後、村に戻り、少数派ながら帰還した方々を取材しました。中心部に近い農業用ハウスでは、贈答用に使われる白いコチョウランの栽培が行われていて、600坪の敷地に2万株以上が並んでいました。

1月12日放送「福島県 葛尾村」

1月12日放送「福島県 葛尾村」

出荷を始めたのは半年前で、東北や関東で流通しています。ここの責任者は、村出身の30代の男性で、原発事故後に故郷へUターンし、生産会社を設立しました。土地や建物は村が無償で貸与し、運転資金は銀行の融資で集めました。従業員の多くは、村内から採用しています。

「家業は農家だったんですけど、私自身が山間地の、田舎の農業に魅力を感じていなかったんです。村に魅力のある仕事があって、生活基盤を構えられる環境があったら、元々住んでいた人も帰って来るだろうし、葛尾村にゆかりがない人も移り住んでくるのかなと思います。珍しいコチョウラン栽培が、人が集まる、葛尾村が発信する魅力になれば、すごく生産的だと思います。産地の北限はせいぜい北関東だったんですけど、福島の葛尾村という所からいい花を届けたいし、若者が挑戦したくなる、次世代に続く農業になるよう、生涯かけて、2、30年先を見据えながら栽培を成長させていきたいです」

 また、中心部から離れた集落では、ヤギとポニーを飼う家がありました。

1月12日放送「福島県 葛尾村」

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兼業農家の60代の夫婦で、2年前に自宅を再建し、村に帰還しました。ヤギ19頭とポニー2頭を飼っていて、観光客を集めて村内に雇用を生もうと、自宅の隣に牧場をつくる計画です。村の有志で会社を設立し、来年5月のオープンを目指しています。この春以降、土地の整備に着手するそうで、奥様はこう言いました。

「ちょっとずつ進む、アリの一歩ですかね。先祖代々の土地を荒らすのもなんだし、何もないと人間っておかしくなる…気持ちも落ち込むしね。だから忙しくしているの、わざと…。みんなの後押しで助けてもらって、少しずつ、みんなの集まる場をつくろうと考えているけどね」

 さらに、村にある食品加工会社も訪ねました。主な商品は、村で昔から食べられてきた保存食・凍み餅(しみもち)です。

1月12日放送「福島県 葛尾村」

1月12日放送「福島県 葛尾村」

ヨモギとヤマゴボウの葉が入った餅を干したもので、会社の代表を務める80代の女性が、30年かけて特産品に育てました。全国的に“一村一品運動”が叫ばれた当時、凍み餅づくりを呼びかけたそうです。原発事故で凍み餅作りは中断を余儀なくされましたが、2年前に再開しました。今は生産の最盛期で、3月には出荷されます。従業員でもある代表の娘さんは、こう言いました。

「以前は、山から材料を採って来てもらったんですけど、今はそれができないんですよね。でも、村の皆さんがヤマゴボウなりヨモギを畑で作ってくれて、ヨモギも手摘みですよ、1つずつ…。仮設住宅の時も、プランターに作ってくれていたんですよ。そういう思いはありがたいし、大切にしなくちゃいけないと思うんです。お母ちゃんも、凍み餅はなくしちゃいけないよ、という話はしていたし…」

 代表の女性も、こう付け加えました。

「再開して今年で3年目になりますが、若い人たちが跡を継いでくれて、とてもうれしく思っています。やっぱり、守り続けていってもらいたいからね」

 最後に、3年前に取材した方が村に帰還したと聞き、訪ねました。酪農家の40代の男性で、去年、家を新築して家族で帰還しました。以前は村外の仮設住宅で、妻と3人の子どもと暮らしていました。避難指示のため120頭の牛を手放し、牧場再開の見通しは立っていませんでした。小学生の長男の習字を見せてもらったところ、力強い字で、“夢 らくのうかになってやる”と書いてありました。長男は、“僕の夢は一つしかない。酪農はお父さんがやっていたから…”と言いました。男性は、こう言いました。

「5年間、酪農の仕事から離れていて、ブランクの恐怖っていうのがあるんですが、習字を見た時は自分が恥ずかしかったですね。再開を迷っていていいのかなって…。子ども達が大きくなるまでには、自信をもって連れて行ける、安全に過ごせる牧場にして、消費者の人たちにも届けたいです」

 3年ぶりに再び男性を訪ねると、念願の牧場を再開していました。

1月12日放送「福島県 葛尾村」

村で最初の酪農再開で、つい4ヶ月前のことです。補助金のほか、金融機関から借りた1億円で牛を49頭まで増やし、放射性物質の検査もくり返し行って、今月、初めての出荷にこぎつけました。

1月12日放送「福島県 葛尾村」

「忙しいけど、機械に乗ったり牛の世話をしたりというのが、自分の体に合っているとしみじみ感じます。やっぱり牛が来る前より、体の調子はいい気がするんです。息子も塾がない時とか、子牛に乳をやって手伝ってくれるので、すごくありがたいです。約8年間のブランクを埋めて、消費者の人たちに安心安全を届けるということですね。毎週、毎週、検査を受けて、それだけ厳しくしないと安心安全にはつながらないと思うんです。今は本当に、“できることを一生懸命やる”という言葉に尽きるんですよ」

 ご紹介した以外にも、例えば2018年の動きでは、愛知県のニット製品の製造会社が、村内で工場を稼動させました。福島県内の会社も、村内で新たに養鶏場を開設しました。国の交付金を利用した復興交流館もオープンしています。村の宿泊入浴施設は3年前に再開し、基幹産業である肉牛の繁殖・飼育は、一部の農家が2年前に再開しています。加えて1年半ほど前、長く村民に愛されてきた、食品や雑貨の2つの店と食堂が、村に戻りました。帰還者は少ないですが、様々な復興の芽が育っているのも確かです。

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