キャスター津田より

1月26日放送「岩手県 陸前高田市」

 いつもご覧いただき、ありがとうございます。
 今回は、岩手県陸前高田市(りくぜんたかたし)です。

1月26日放送「岩手県 陸前高田市」

人口は約1万9千で、市民の多くが住んでいた中心部は津波でほぼ壊滅し、被災家屋は全世帯の半分以上、犠牲者は1700人を超えました。
現在、11ある災害公営住宅は全て完成し、あわせて1300人が暮らしています。高台の造成地で自宅再建した人も少なくありません。中心部の広大な土地は、土地区画整理事業で10m以上かさ上げされ、商業施設や図書館がオープンしました。周囲には商店も少しずつ再建され、今年8月には新しい道の駅も開業します。

1月26日放送「岩手県 陸前高田市」

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 はじめに、4年前に完成した災害公営住宅に行きました。

1月26日放送「岩手県 陸前高田市」

約300人が暮らしていて、ちょうど集会所では、小正月に飾る“みずき団子”を作っていました。

1月26日放送「岩手県 陸前高田市」

五穀豊穣や大漁を祈り、木の枝に丸めた団子をつけます。全く知らない人同士が入居したため、親睦を図る意味で始めたそうです。ここで出会った60代~70代の3人の女性は、住民のつながりや孤立が課題となる中、サークルやイベントを通じて絆を深めてきたそうです。皆さんはこう言いました。

 「同じく被災して、マイナスから再出発する状況はみんな同じということで、親しみというか、話せば分かるような関係が、やっぱり強いんじゃないかなと思います。もう、これで進んでいくしかない…くじけていても、しようがないし。やっぱり、みんなの中に入っていくのが大事ですよ。入っていって、少しでも仲良くしたり、とにかく部屋の外に出なきゃいけないと思いますよね」

 次に、県内で最大規模の災害公営住宅に行きました。

1月26日放送「岩手県 陸前高田市」

約420人が入居しています。ここでは知的障がいなどのある15人が、11の部屋に分かれて暮らしていました。こうした形態は被災地でも珍しく、以前はグループホームに住んでいましたが、津波で流されたそうです。全員が仕事を持ち、支援員の力を借りて、自立生活を送っています。口々に“住み心地は良い”“ここの暮らしは楽しい”と言いました。夜間は支援員がいないため、住民とのつながりも欠かせません。50代の支援員の女性はこう言いました。

 「ゴミ出しに来た方で、“今日も寒いね”とか声かけてくださる方はいます。ただ、それ以上の会話っていうのは…。朝のお掃除や、季節ごとに草取りがあったりするので、必ず出てはいるんですけどね」

さらに30代の男性の支援員は、こう言いました。

 「引っ越してきてまだ日が浅いので、そこまで深く関係性を築けているわけではないですけど、これからより一層、近隣住民の方と仲良くなっていけるように、フォローしていきたいと思っています」

 障がいのある方が地域で生活する際、挨拶を交わしてくれなかったり、共用のものが破損すれば疑われたりと、障がい者に理解の乏しい人がいるのは全国共通の事実です。障害のある方だけでなく、この災害公営住宅は4割が高齢者で、その半分は1人暮らしです。災害時などはなおさら、住民の結束が必要です。
陸前高田市では、災害公営住宅の空いている部屋を、被災者以外にも開放しました(→入居予定者が自立再建に切り替えるなどして、2割あまりが空き室でした)。
今後は、被災した人と、していない人が混在し、共通の接点はさらに薄くなります。住民の結束は、ますます必要となります。

 また、同じ災害公営住宅では、80代の1人暮らしの女性にも話を聞きました。長男一家と暮らしていた自宅が流されたそうで、市職員で当時43歳だった長男は、住民に避難を促す中で津波にのまれました。人望の厚い、自慢の息子でした。今は隣町に住む長女の家族が、毎週様子を見に来るそうです。

 「さっさと高台に上がれば、助かったのになあって…役所は商売が堅いから、できなかったのかなあ。おかげで独りぼっちになってしまったから、そんなことを毎晩のように考えて、眠れないの。今も朝方に眠るのね。たぶん3時とか…今朝も8時のドラマぎりぎりに目を覚ましてね。私はもう、息子の倍生きてるの。本当に頼りにしていた息子だし、貧乏でも大学に入れたいと頑張ってきた…あの人が生きていれば、こんなに寂しい思いはしなくてもいいんだけどね」

 その後、120人以上の檀家が亡くなった普門寺(ふもんじ)にも行きました。

1月26日放送「岩手県 陸前高田市」

境内には、震災犠牲者を供養する石仏(=羅漢像)が並んでいます。

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569体の多くは一般の人々が彫ったもので、石仏を彫った50代の女性は、両親を含めて20人以上の親類を一度に亡くしていました。

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普通なら、紛争でもなければ考えられないことです。5年前に全壊した自宅を再建し、娘夫婦と3人で暮らしています。

 「肉親も親類もたくさん亡くして、ゆっくり考える時間もほしかったので、石仏を彫るのはいい機会だと思って、毎年作ってきました。心の整理は全くつかないですね。時間に追いついていけない、ただただ、日が過ぎているだけですね。とにかく父や母に守ってもらっている、この世からいなくなっているけど、応援してくれているような気持ちで、今日までずっと来ている気がします。命の大切さや“生きる”ということを考えると、明日からではなくて、“今を大切に”とつくづく感じています」

 今月17日で阪神淡路大震災から24年が経ちましたが、ご遺族の悲しみは続いています。ご遺族に対して、近ごろは被災地の中でも、“いつまでも前向きになれない人たち”と見る目があります。しかし犠牲者を悼む気持ちは、前向き、後向きという短絡的な話とは、全く次元が違うのです。

 

 さて今回も、以前取材した方々を再び訪ねました。震災からひと月後の陸前高田市では、取材した日、高台でコンビニの仮設店舗がオープンしました。営業する店が少ない中、多くの市民が詰めかけていて、当時40代の男性が、店に立っていました。

 「陸前高田市の復興の芽になれるよう、頑張りたいです。“やっと始まったね”“寄らせてもらうからね”という声を聞いて、本当にうれしいです。頑張って、そういうお客さんを増やしていきたいです」

 あれから8年…。男性は震災翌年に店を再建し、50代となった今も経営者として奮闘していました。仮設住宅で3年間暮らした後、店の近くに自宅を再建したそうです。

 「ここから離れようという頭はなかった…やはり地元で何とか頑張っていこうと思っていました。自分は、復興の芽になれたかなと思っています。本当に皆さん、どうしようって路頭に迷っているところにコンビニができて、役割は担えたかなと思います。8年はあっという間だなっていう思いはあります。日々暮らすことに追われましたから。周りの人たちに助けてもらって、お客さんにも、働いてくれる従業員の方々にも、感謝しかないと思っています」

 現在、男性の実感では、経営を支えてきた復興事業の作業員のお客さんが、ピーク時の10分の1ぐらいに減っているそうです。陸前高田市では、仮設商店街などに入っていた店の約6割は、入居期限が来た後に仮設の建物を市から無償で譲渡してもらい、そこで営業を続ける見通しです。復興需要がなくなるのに、大きな負債を背負って中心部に新しい店を建てる余力はない、という判断も影響しています。店を再建した方々の笑顔の裏で、復興需要の減少は日増しに大きな不安となっています。

 さらに、震災からひと月後の陸前高田市では、避難所になっていた広田(ひろた)地区の寺で、地元の郵便局長と出会いました。築4年の自宅を流された上、郵便局も流されていました。

 「お年寄りが多く、遠くの郵便局に行けないから、1日も早く再開を望まれる方が多いです。顔を合わせた方が長話していただける、そんな場所を目指してやってきましたし、これからもそうありたいです」

 その後、郵便局は仮設での営業を経て、2年前に地区の高台に再建されました。男性を訪ねると、笑顔で窓口に立っていました。東北地方では160近い郵便局が被災し、48局が未だに閉鎖中です。

 「震災直後の3月末だったと思うんですけど、郵便配達のバイクが走ったんです。それを高台で見ていて、歓声が上がったんですよ。色が何も無くなった町に、赤いバイクが目に鮮やかで、“うちに郵便が来てないか”と声をかけてきて、郵便物を受け取る時は、涙を流して受け取っていただいたんです。何とか復活させたいという思いで懸命に闘ってきましたので、復活してほっとしているんです。郵便局は、振替や貯金の出し入れをするだけじゃないんです。皆さんにとって交流の場、ずっとここでおしゃべりをしているお客さんも結構いるんですよ。本当に必要な施設だと思います」

 家を失い、自らも震災と闘いつつ地域の復興にも貢献している姿に、静かな誇りを感じました。

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