キャスター津田より

2月2日放送「宮城県 気仙沼市」

 いつもご覧いただき、ありがとうございます。

 今回は、宮城県の北の端、日本有数の港町として知られる気仙沼市(けせんぬまし)です。特に今回は、離島の大島(おおしま)で取材しました。

2月2日放送「宮城県 気仙沼市」

 大島は、本土とは一番近い所で2~300m、定期船で25分の距離です。人が住む島では東北最大で、約2400人が暮らしています。震災では30人あまりが犠牲になり、1000棟以上の家屋が被災しました。家が流され、電気や水道も途絶えたうえ、山火事まで発生しました(鎮火までほぼ1週間)。

 このような状況下でも、定期船が全滅して港はがれきで埋まったため、運航再開までの20日間は孤立状態におかれました。そこで県は、“復興のシンボル”と銘打って、本土と島を結ぶ橋の工事に着手しました(2014年11月着工)。国の財政支援も受けて工事は進み、いよいよ今年4月7日に開通します。

2月2日放送「宮城県 気仙沼市」

 

 大島の主な産業は漁業です。はじめに、カキ養殖を営む40代の男性を訪ねました。

2月2日放送「宮城県 気仙沼市」

4代続く漁師で、妻と2人の娘、両親とともに暮らしています。東京でサラリーマン生活を送っていましたが、15年前に帰郷して家業を継ぎました。震災では、自宅に加え、養殖いかだや加工場も全て流されました。幸い船は残ったため、養殖再開を決意したそうです。

2月2日放送「宮城県 気仙沼市」

「震災で孤立した時は、とにかく知恵を出し合って、踏ん張ろうと必死でしたね。学校のプールの水も、ろ過して飲んだりしてしのぎました。あの時、橋があったら…という思いは強いですね。橋が架かって、どんなに生活が楽になるんだろう…と思っています。島以外の人と同じような、当たり前の生活になるんだな、やっとそこに追いつくのかなと、正直うれしさはありますね。確かに被災地だし、被災した人には違いないですけど、そろそろ、そういう自己紹介はないと思うんですね。橋も架かりますし、これを大きな節目として、支えられる側から支える側に自立をする必要があると思っています」

 次に、島の中心部にある大島中学校に行きました。

2月2日放送「宮城県 気仙沼市」

生徒数は28人で、部活動の対外試合などは、船の運航時刻で制限されてきました。バスケットボール部の2年生の女子生徒に聞くと、船はお金もかかるし、橋が使えるのはすごく便利だと言いました。

「島は自然が多くて、“緑の真珠”と呼ばれているのがすごくいいと思います。橋が通ると人も増えて、ゴミを捨てる人も増えていっちゃうのかなと思うので、できる限り、防げるところは防いでいきたいと思います。ゴミを捨てないように呼びかけたり、自ら漂流物とかを回収したりしていきたいです」

 そして、中学校の近くにある災害公営住宅に行きました。島では3年前に、災害公営住宅38戸が全て完成しています。

2月2日放送「宮城県 気仙沼市」

ここでは、大島で生まれ育った91才の女性から話を聞きました。近くに住む息子一家の助けを受けながら、一人で暮らしています。食堂と商店を代々経営してきましたが、津波で自宅と店は流されました。姉も亡くし、折にふれて悲しみに襲われるそうです。しかし橋が開通することで、交流を続けてきたボランティアの皆さんが、気軽に島を訪れることができると期待しています。

「ボランティアの方々には、言いきれないくらい、いっぱい励ましやら、お話し合いやら、一緒に手を取り合って泣いたり笑ったり、本当に何と申し上げてよろしいか…感謝しきれない8年でした。 島ではね、“島と唐桑さ そり橋かけて 渡りたいぞや ただ一度“なんてね、大島音頭とか大島小唄の中にもあって、橋に対する願望が強かったんです。これから生まれる人たち、これから成人になる人たちにとっては、橋が架かって良かったなと思いますよ。だけどもね、何やら寂しいんですね…“島なるがゆえの船”ですからね。私の世代には、“船も含めてのふるさと”なんですよね…」

 さらに、島の北側、橋に近い外浜(そとはま)地区の港に行きました。

2月2日放送「宮城県 気仙沼市」

本土との間には、養殖いかだが浮んでいます。ホタテとカキの養殖を行う男性に聞くと、去年は貝毒の影響でホタテの出荷は激減し、現在は4月の出荷に向けて準備中だそうです。

2月2日放送「宮城県 気仙沼市」

自宅と養殖設備は全て流され、補助金などの力も借りながら再開にこぎつけました。両親と妻、長男の5人暮らしで、長男は漁師として跡を継いでいます。

「今まではどうしても、船で市場にも行かなくちゃならないんです。橋が通れば車で行ける、風が吹いても行ける、それを考えたら、やっぱり橋はいいなと思います。これから釣り人とかも多くなると思うんですよ。多くの人に来てほしいですけど、マナーを守ってもらいたい、とにかくマナーを呼びかけるということでしょうかね。今のこの時を大事に、いい方向に物事を考えて進んでいきたいです」

 4月20日には、この男性が中心となって、橋の開通を記念した“大島大橋・竜宮祭り”が開かれます。

 

 そもそも橋の構想は、半世紀あまり前の、1967年に県の計画に盛り込まれました。生活の利便性向上のほか、海が荒れれば急病人でも病院に搬送できないなど、命に関わる問題もありました。計画はなかなか進まず、実際に動き出したのは震災がきっかけです。まさに“悲願の橋”ですが、一部には懸念も残ります。1日16往復の定期船は廃止され、市が民間業者に委託する路線バスが、1日8往復しか走りません。島民の大半は自家用車を使っていますが、65歳以上が50%を超え、自家用車がない世帯も約1割あります。習慣的に家の鍵をかけない島民も多く、防犯意識の周知も課題となるでしょう。

 

 さて今回も、以前取材した人を再び訪ねました。震災から4年後の大島では、定期船乗り場の近くにある食堂で、2代目店主の40代の男性から話を聞きました。以前は六本木のすし店で働いていて、震災を機に家業を継ぐためUターンし、津波で流された店を再建しました。当時は、こう言っていました。

「震災をきっかけに、心機一転という気持ちにすごく変わりました。自分ができるのは、実家に帰って何かすることかなと思って、戻って来た感じです。橋ができると、思いきり変わると思いますよ。向こうの人も来るし、こっちも行くし、島は特殊じゃなくなるので、“新たに”って感じになりますね」

 あれから4年…。男性は、家族で食堂の営業を続けていました。他の商店主と協力し、店のすぐ近くに、県の補助金を使って新しい商店街もつくるそうです。鮮魚店や飲食店など5つの店が並び、男性もそこに、2号店を出す予定です。

「橋が開通するとなってから、四方八方で工事になって、やっと(復興が)形になってきました。パッと来て、パッと帰れるようになるので、日帰りの方も来ていただけるようになるのかなと考えています。大島も、また昔みたいに賑わってもらいたいというのが、ものすごくあるんですね。ぜひ皆さんに、新しい商店街にいらしてほしいです。“一生懸命やるしかない”ということだけでやっているので、あまりマイナス面では考えていないですし、忙しくて大変になるということだけ考えています」

 商店街の隣には、農産物や土産物を売る市の施設も作られ、島の観光拠点になります。ただ、他の復興事業の遅れが商店街の用地造成にも影響し、橋の開通と同時のオープンはできません。最短で7月のオープンを目指していますが、かきいれ時となる橋の開通時や5月の10連休は逃してしまいます。隣の市の施設は、さらに遅れて12月オープンの予定です。ピーク時は年間12万人が利用した名物の登山リフトも、赤字営業の懸念などで、再建は宙に浮いたままです。観光資源が、島の大きな課題です。

 また、震災から4年後の大島では、高台に建築中の民宿も取材しました。経営者の50代の男性は、本土で調理師をしていましたが、両親が40年続けた民宿が津波で流されたのを機に、再建のために島に戻りました。当時は、こう言いました。

「お客さんが大島に来てからの第一印象を、いい感じにしないとダメなので、笑顔を大切にしながら、大島に来た瞬間から帰るまで、気持ちよく旅行に来たというふうに感じていただきたいなと思います」

 あれから4年…。民宿は、取材の2か月後に完成していました。窓から海を臨む眺めは格別で、復興工事の作業員や観光客で満室になることも多いそうです。宿泊中の作業員に提供してほしいと、地元の人から魚や野菜の差し入れも多く、毎週末、本土に住む長女が、孫を連れて手伝いに来ています。

「うちは大体、6割が仙台のお客さんなんですよ。橋が通って三陸道もできますので、仙台から2、3時間で大島に着くので、宿泊しようか、しないで日帰りするかはお客さんの判断ですし、心配はあります。ただ、お昼から飲み放題をやるとか、自分なりのアイデアを入れながら、せっかくここに来たなら、のんびり宿泊するという形を定着させたくて、いろんな試行錯誤をして前に進もうと頑張っています」

 2月に三陸沿岸道路がつながり、仙台と気仙沼が高速道路で直接結ばれます。日帰り客が増えれば旅館や民宿にとって痛手であり、長らく島を支えてきた観光業は、復興が進む今後が正念場です。

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