キャスター津田より

4月23日放送 「福島県 新地町」

今回は、福島県新地町(しんちまち)です。沿岸部の一番北、宮城との境にある町で、福島第一原発からは50~60kmの位置にあります。津波で町の5分の1が浸水し、甚大な被害が出ました。
集団移転先の造成は数年前に終わり、そこではほとんどが家を建てて入居済みです。災害公営住宅の建設もすべて終わり、仮設住宅に入った世帯の9割が退去しました。さらに去年、新しい駅舎も完成し、JR常磐線が再開しました。公共施設をはじめとした駅前の市街地整備も進んでいます。
こうした状況もあり、必然的に町で会う人は新生活に踏み出している人が多く、今回の声の中でも、新たな人生を受けての言葉が強く印象に残りました。

4月23日放送 「福島県 新地町」

はじめに、新地小学校の入学式におじゃましました。音楽に合わせ、32人の新1年生が元気よく入場してきました。震災後、町の人口は大きく減りましたが、原発事故による転入者が増え、3年前から増加に転じています。現在では、震災前とほぼ同じ水準にまで回復しました。1年生の中には、南相馬市から家族で移住した女の子もいます。原発事故後、幼い子を抱えた不安から、ご両親は移住を決断したそうです。震災の年の夏から新地町の仮設住宅で暮らし、去年5月、町内に自宅を新築しました。建設会社で働くお父さんも生花店で働くお母さんも、ともに20代です。お母さんは、こう言いました。

「自分の子どもの頃と違う海を見ると、なんだかね…。海を見られないですね。自分自身も行かないですけど、子どもも…。震災で、当たり前のことを当たり前と思ってはいけないと実感しているので、家族でいられるのは、当たり前のようですごく幸せなことだなと思います」

そして、町内にある保育所の1つ、新地保育所にもおじゃましました。人口増加を反映し、この保育所に通う子ども達も、震災前と比べて10~20人増えています。30代の保育師の女性は、採用された直後に震災が発生したそうで、混乱の中で保育士としてスタートしました。同僚や子ども達は被災しましたが、彼女は自宅も両親も無事で、そのことがずっと負い目になってきたと言います。

「私も気持ち的な支えになりたいと思ったけど、共感もしてあげられないんですよね…。“分からなくてごめんなさい”って言うのもはばかられるというか…。本当に心がグヂャグヂャだったというか…」

彼女は考え抜いた末、“いま自分ができることをやろう”と決心しました。

「笑顔は人生の花です。私は秀でていることがあんまりなくて、でも笑い声は一番大きいかもしれないです。少しでも安心感を与えられるようにとか、“先生に会いたいな”って思ってもらえるように、笑顔を心がけてきたつもりです。これからもいっぱい笑って、みんなで人生に花を咲かせていきたいです」

次に、海から離れた杉目(すぎのめ)地区に行き、3歳の双子を育てる若い農家と出会いました。両親も含め、家族6人で暮らしています。原発事故当時は妻が妊娠していたため、東京に避難しました。しかし 1週間後に地元に戻り、3代にわたって続けてきた花の栽培を再開しました。現在、ハウス11棟でキンギョソウなどを栽培し、収入は事故前の8割まで回復しました。

4月23日放送 「福島県 新地町」

「原発も心配でしたけれども、自分はどうなってもいいから、この土地だけは守りたいという気持ちでやってきました。“福島の花なんて持ってこないで”と言われた時期もありましたけど、やっぱり負けたくなかったのが一番ですね。農業やっても子どもを外で遊ばせても、安心だよっていうのを、もっと伝えていきたい…子ども達の笑顔のために頑張りたいです。子どもの笑顔は活力でもあり、宝です」

さらに、駅近くの災害公営住宅にも行きました。現在、12世帯が暮らしています。仮設住宅を退去した40代の夫婦は、去年12月からここで新生活を始めたそうです。ご主人の自宅は津波で流され、仮設住宅で自治会長を務めている時に、ボランティアをしていた神戸出身の奥様と出会い、一昨年結婚しました。仮設にいた頃 、2人は住民の交流を促そうと“たこ焼きパーティー”を開いてきました。災害公営住宅に移ってからも、近所で続けていくつもりです。

4月23日放送 「福島県 新地町」

「仮設に入ってから、PTSD(心的外傷後ストレス障害)で、1年くらい引きこもりみたいな感じで…。縁があって、仮設住宅をボランティアで回って、同じ境遇の人たちと話が合うというか、逆に元気をもらったんですよ。だから人と人とを結ぶって大事だなって、いつも思っています。みんな仮設を出てバラバラなので、移転先でもコミュニティをつくらないと…。難しさはあるけど、これからつくらないと」

先に私は、今回は新たな人生を受けての声が多かったと言いました。間違いないのですが、“まだ海に行けない”、“被害がなかった負い目”、“新しい住民同士の繋がりが課題”など、声の中には震災の爪痕も確かに存在します。自信を持って震災を克服したと言えるまで、まだ時間が要るのかもしれません。

さて今回も、以前取材した方を再び訪ねました。震災から1か月後、新地小学校の避難所で出会った当時50代の女性は、リフォームしてわずか2年の家を流されていました。

「家も全部流されて、きれいさっぱりと、何もかも無くなりました。気持ちもだいぶ落ち着いてきたんですが、浜の方に下っていくと、“ああ、やっぱり家が無いんだ”っていう実感が湧いて…」

あれから6年…。女性は仮設暮らしの後、3年前に、集団移転先に夫婦で自宅を再建しました。震災後、栃木に住んでいた息子一家が地元に戻る決意を固め、一昨年から2人の孫とともに暮らしています。

「全ての財産を流されて、ショックが無いっていうのはうそですよね。子ども達の小さい時の写真とか映像とか、もう作りようがないし…。でもそれに代わって今度、孫を育てて楽しめばいいかなって。震災で無くしたものはいっぱいありますけど、逆に得るものもいっぱい増えました。一番は孫たちです」

失ったものを補う術はないものの、新しく得たものを喜ぶ生き方に変わったという話…。震災から2、3年では、絶対にこんな話は聞けなかったでしょう。時間の流れを痛切に感じる出会いでした。

4月23日放送 「福島県 新地町」

また、震災から5か月後の町内の漁港では、30代の漁師の男性に出会いました。当時は津波と原発事故で、福島で“漁師”という仕事が残るのかすら、心配されていた時期です。そんな時に男性は、流された自分の船を見つけてきて、1千万円以上かけて修理していました。心の支えは、“自分の家の船で、漁師になりたい”と言った息子の一言です。“やらないわけにいかない”…男性は強い声で言いました。

あれから6年…。漁は、日数などを制限した“試験操業”として再開され、男性は 4年前から海に出ています。漁の対象となる魚も、97種類にまで広がりました(今はコウナゴの季節です)。獲った魚は放射性物質の検査を経て、出荷されています。漁師になりたいと言ってくれた長男も、浜で最年少(21歳)の漁師として、一昨年から一緒に漁に出ています。現在、漁は週に2~3日で、収入は原発事故前の10分の1程度です。賠償のほか、海に出ない日は建築現場で左官工として働き、暮らしを立てています。

「初めて漁に出た時は、やっぱりうれしかったですよ。沖に出ても“頑張るぞ”という気分になったし、陸に帰ってきてからも、漁に出た人はみんなニコニコしていました。それは絶対に忘れないです。息子も頑張っていますよ。なんぼ怒鳴られても、ついてこようとしているから。毎日漁に出れば、仕事も早く覚えるんだけどね。子どもといると魚が獲れた時は楽しいし、面白いし、張り合いが出てきます」

福島の魚は、全国的な市場評価ではまだまだ苦戦が続くでしょうが、この男性もまだ43歳です。息子さんはもちろん、ご自身も、福島の漁業復活の主役として、気概は失っていません。

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