キャスター津田より

10月13日放送「宮城県・東松島市」

いつも番組をご覧いただき、ありがとうございます。
今回は、宮城県東松島(ひがしまつしま)市です。人口は約40000で、奥松島の美しい景観に囲まれ、ノリ養殖が盛んです(皇室にも献上される特産品です)。

10月13日放送「宮城県・東松島市」

あわせて7団地、1200戸以上を対象に行われた集団移転がほぼ完了しており、400戸、500戸単位の真新しい住宅街が、一気に誕生しました。

災害公営住宅は9割が完成し、プレハブの仮設住宅に住むのは数戸のみです。農地や漁港の整備もほぼ終わり、新しい観光スポットとして、防災に関連した宿泊施設もオープンしました。

10月13日放送「宮城県・東松島市」

 

  

はじめに市内最大の集団移転先、あおい地区に行きました。

10月13日放送「宮城県・東松島市」

22haの広さに、宅地が273戸分、災害公営住宅が307戸分あり、宅地の引渡しは3年前に完了しています。住民たちは街づくりのため、移転前に年間120回もの会議を重ねたそうで、“日本一のきれいな街”を目指し、景観上、家を建てる際にブロック塀を使わないなど、街づくりのルールを作りました。

さらに“日本一の住民の絆”を築くため、イベントも1年中開いています。春のフラワーフェスティバルでは100人で36mの“のり巻き作り”に挑戦し、夏祭りには“青森ねぶた”を招待し、8500人近い人が参加する一大イベントになったそうです。“あおい地区会”の会長で、自宅が全壊して引っ越してきたという70代の男性は、こう言いました。

「震災後、私の知人、友人、親戚がたくさん亡くなってお通夜、お葬式に何度も出させていただいて、いっぱい涙を流したんですね。その姿を見ていたある住職さんから、『知り合いが多かったんだから、自分があの世に行って亡くなった人たちに会った時、“あなた方ができなかったことを、私はこんなにやってきたよ”って、報告する義務があるんですよ』と言われたんですね。それが私の頭の中にいっぱい入っているから、イベントや街づくりも頑張れるのかなと思います。住んでいる人が心豊かに、この街に住んで良かったと思うような、“幸福度日本一の街”を目指して活動を続けたいです」

次に、別の集団移転先、野蒜(のびる)ヶ丘地区に行きました。こちらも規模は大きく、448戸が暮らしています。宅地の引き渡しは2年前に終わり、近くには駅や学校、消防署、市民センターなども整備され、以前の街ごと移転した形になっています。ここで見つけた焼き鳥店を訪ねると、店主は60代の女性で、来年で40周年だそうです。自宅と店、2人の孫を津波で失い、仮設店舗を経て、去年7月に自宅の隣で新たにオープンしました。

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しかし今年5月に大けがをして休業し、最近、店を再開したそうです。

「店はできないって言われたけど、リハビリを頑張ったのよ。震災の頃はみんな心が詰まっていたから、女の人なら会話したりできるけど、男の人はそうはいかないのよ。だから店に入ってきて、涙をこぼしながらカラオケ歌ったりするのを見て、“この店つくって良かったな”って何回も思いました。人間は楽しい時ばかりではないでしょ。苦しい時だってあるから、行ってほっとするような店が欲しかったの。お客さんと一緒に笑ったり、泣いたりしてきたから、ずっとやりたいね…辞められないし」

その後、松島湾に突き出た宮戸(みやと)地区に向かいました。

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ここは津波で最大5mも浸水し、700棟を超える建物が全壊しました。

10月13日放送「宮城県・東松島市」

地区に入るとまもなく、果樹園を見つけました。

10月13日放送「宮城県・東松島市」

10月13日放送「宮城県・東松島市」

管理する70代の男性に聞くと、モモとイチジクの木で、男性は組合長でした。実は男性の本業は漁師で、主にノリ養殖を営んでいます。津波で自宅が全壊し、船も7隻失いました。震災の年に漁業を再開した後、3年前に仲間の漁師8人で果樹栽培に進出し、産地の福島県に何度も通って技術を学んだそうです。

「ここは昔から何代も、田んぼと半農半漁でずっと頑張ってきたわけさ。津波で田んぼがダメになって、このまま放置して、田んぼを原野にしてしまうのかと…。農地を守っていかなきゃいけないと思って、モモとイチジクを始めたの。モモは8月いっぱい、イチジクは10月で終わるし、11月からはナマコ漁なんかを始めるから、海の仕事の間にできるのよ。大変だけど、立派なモモが採れると、みんな張り合いがあるんだ。“海の男”ならできる…中途半端で諦めないということだね。やった仕事は半端で投げないで、何でも一生懸命やれば成功はついてくると思うよ。必ずいい時はあるよ、いい時は来るから」

今年8月、初めて出荷したモモは糖度が高くて評判となり、収穫した6000個が完売したそうです。

さらに、果樹園から車で5分ほどの高台にある家を訪ねると、60代の男性が、妻と2人で住んでいました。以前は約20人の集落でしたが、目の前の湾で、集落の住民や近隣の住民、7人が亡くなったそうです。男性は亡くなった方を弔うため、家の近くにお地蔵様を安置し、人々が手を合わせる小さな建物を自力で作りました。男性以外の家はすべて流され、今この集落で暮らすのは夫婦2人だけです。

「震災直後、娘が“家は残っているの?”と聞いてきて、“残っている”と言ったら、涙を流しながら、“でも実家がなくなるのは嫌だね、寂しいね”って言われて…今でも涙が出そうになるんだけど、それがここに残る一番の理由ですね。その時、こんなあばら家だけど、なんとか住もうって思いましたね」

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そのうち4つは、韓国の団体が認めるトレッキングコース“オルレ”にも認定されました。

「韓国のオルレの人たちが来た時も、“ここは素晴らしいですね、こんなに海がパアーッと見えて、こういう風景はなかなかないですね”と言われて…。多くの人に来てもらって、“新宮戸八景”の良さが伝わって、“宮戸にこんなにいい所いっぱいあるんだ”と言ってもらって、地元の人たちも“もう少し頑張ろう”とか、“もう少し発信しよう”という気持ちになってもらえたら、うれしいと思います」

10月13日放送「宮城県・東松島市」

 

  

さて今回も、以前取材した方を再び訪ねました。震災から1年7か月後の東松島市では、再開した農産物直売所で、当時60代の農家の女性と出会いました。野菜を納める農家の多くが被災し、品物は十分にそろっていませんでした。直売所にも津波が押し寄せ、冷蔵庫も買い換えたそうです。

「苦しかったですね…本当にね。つらかったですね。思い出すと眠れないこともありましたよ。だけどもう、そう思ってばかりいたって、やっぱりこれからのことに向かわないと…。明るくしていかなければ、悲しい顔で沈んでいても、やはりね…」

あれから6年…。直売所に行くと、同じ女性の姿がありました。70代となった今も、自宅前の畑で野菜作りに精を出し、週2回、直売所に出荷しています。女性には亡くなった身内がおらず、家も残りましたが、震災から4、5年は苦しかったとそうです。地域のつながりが強い中では、被災の程度が軽いとはいえ、「自分だけ落ち着いた気持ちになるなんてあり得ない」と言いました。

「被害に遭った皆さんがどうしているのかなとか、そういう気持ちを考えると一番つらかったですね。それがもう、家の近くにも仮設があったのに撤去しましたしね。あまり、大変な思いをしている人を目にしないので、みんな復興して頑張っているんだなという形で見ておりますね。孫や子どもたちに “おいしかったよ”なんて言われると、“よし、また作るぞ”なんて、野菜作りは私の生きがいですね」

また、震災から2年8か月後の東松島市では、災害危険区域にある自宅の跡地を利用し、畑を作っていた夫婦に出会いました。夫婦の知り合いや近所に住んでいた人たちも、何かにつけ、広い更地の一角にあるこの畑に立ち寄り、時間を過ごしていました。ご主人は、こう言っていました。

「仮設にいたってさ、足が痛くなったり、じっとしていてもつまらないから、畑に来るのね。ここに来ると楽しいもの。多い時には、10人くらい集まるんだ。何となく顔を見たくなって、会話しただけでも違うんです。こうやって話して、1時間くらいあっという間だ」

あれから5年…。70代となった夫婦は今も、自宅跡の畑に通っていました。内陸の住宅地に自宅を新築し、娘との3人暮らしだそうです。今でも同じ仲間が毎日のように訪れるそうで、以前取材した際に一緒にいた70代の仲間の男性とは、今回もお会いすることができました。この男性は、集団移転先で自宅を新築し、家族6人と暮らしています。ご主人と仲間の男性は、こう言いました。

「落ち着いたね…家を建てたから。自分の家だから、借りたものじゃないからね。(復興事業で)また津波が来ても大丈夫にしてもらったこともあって、気持ちが落ち着いたね。この土手がね、津波が来ても流されないように三段階の防潮堤になっているの。震災の話は出なくなったね。悲しみが少し消えたようだね」

震災を忘れることは不可能でしょうが、これはこれで7年半という時の流れをはっきり感じる声です。

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