みなさんの声に向き合う津田さんの誠実なコメントにうなずきながら、毎週拝見しています。
時間のかかる復興にいつも、もどかしさを感じます。何も手助け出来ない自分が恥ずかしいです。自らも被災された津田さんが、この番組を続けて下さっているということで、復興の途上にある人たちのことを忘れがちな私たちが、それを意識することができます。
また、被災された方々の思いを国や自治体、支援団体にうまくつなげていけると感じます。
これからも、たくさんの人の声を伝えて下さい!応援しています。
あの日からちょうど2年を迎えるにあたり、最近の震災関連報道について私の意見を述べさせていただきます。
私は、宮城県南部内陸の柴田郡柴田町に住んでいます。震災から月日が経つに連れ、いつしか被災地=岩手県・宮城県・福島県の沿岸部市町村、福島第一原発事故警戒区域内の市町村というイメージが定着し、津波被害がなかった内陸部市町村やいわゆる被災3県以外はほとんど報道されていません。内陸部でも地震による道路や家屋の被害が大きかったことを忘れないでいただきたい。「震災」とは地震災害のことで、津波や原発事故だけが震災ではありません。
また、最近は3月11日直前や当日に報道各局は震災特別報道番組が集中させる報道体制が取られ、通常の日はニュースの一部に震災関連のニュースを入れるだけの傾向にあり、本当に東日本大震災を後世に伝えたいのかと疑問を呈します。このままでは震災が風化してしまうのではないかと不安を感じています。震災を経験した者が後世に伝える役割は経験していない人に口だけで説明しても伝わりにくいと思います。そんなときに役に立つのが報道された写真や映像ではないでしょうか。
3月11日の報道で繰り返される
被災地を忘れない
というフレーズ
被災地を忘れないではなく
忘れてはいけないことは
あの日震災について
自分が感じたこと考えたことを忘れてはいけないんだと思う
その事を忘れなければ被災地を忘れるなんてことはあり得ない
あれから2年。。。被災地から遠く離れた鳥取。うちの会社の倉庫に石巻のメーカーの在庫。石巻って文字を見るたびにあのときのニュース映像。TVでは公開出来なかったインターネットの映像。。。震災直後に派遣された友達や知人の生々しい話。。。
「1人じゃない」。。。とか「頑張れ」。。。とかそれは何ともない側からの言葉。。。普通の生活をしている人がいくら優しい言葉をかけても、何も無くなった人からしたら「あなたには家も仕事もあるけど私たちは家も働く職場も何もないのに何を頑張るのか」。
言葉なんかではどうしようもない。何かしたくても何も出来ない。ただ忘れてはいけない。こんな恐ろしい災害があったことを。
今、アマチュアとはいえ音楽に携わってる僕たちに出来ることは、音楽を通して伝えていくことかもしれない。そう考え今回思いを込めた曲を作りました。曲はインターネットで公開しています。勿論営利目的ではありません。ただ小さな活動の一つとして知って欲しい気持ちでメールしました。
最後になりましたが、被災した方々の一日も早い日常を心から願っていますm (__)m
今日(2月21日)の「被災地からの声」を見ました。
飯舘村は私の生まれ故郷です。当然ながら両親も兄弟も親せきもその他同級生や知人が大勢故郷を離れて避難生活をしています。両親はともに80歳を超えてますが、元気です。元気ですが慣れない避難先での生活には困惑しているようで、毎週自宅のある飯舘に帰ってます。やはり自分の家が一番だ、という事で。それは私にも痛いほどわかります。80歳を超えるまでずっと飯舘で暮らしてきて、人生最後の時間をなぜ知らない土地で暮らさないといけないのか?早く帰村できないとこの両親の願いはかなわないままです。帰村の条件に「確実な除染」と言われてますが、それを待っていては両親のようなお年寄りにはあまりにも時間が少なすぎます。
以前より思っていることですが、本当に今の環境放射線量は人が住めるような条件じゃないのでしょうか?今の社会の流れは完全に「少しの放射線でも危険」という方向で動いているために、帰村のためには最低限除染が必要となっています。しかし、除染には技術的にも限度があるようですし、しかも飯舘のようにその多くが山林ですからそこを除染となったら莫大な時間と労力が必要でしょうし、そもそもそんなことをしたらそれによる自然災害の方が、甚大な被害(土砂流失、山崩壊等)をひき起すことが想定されます。
世界には「高自然放射線地域」という地域があるようですが、そこには今の飯舘村程度、あるいはそれ以上の環境放射線量だそうです。しかし、そこに多くの人が何10年何世代と渡って生活しているそうです。そこの実態を番組として取材することはできないのでしょうか?取材により、そこの住民が特に健康被害もなく生活しているとなれば、今やっている除染の範囲や手法も大きく変わるでしょうし、つまりは早く故郷にも帰れるという事にもつながります。私は両親の願いを早くかなえてあげたいし、そして何より、自分の生まれ故郷が人気もなく荒れ果てている、あの惨状は見たくありません。そのためには何よりも早く人々が元に戻ることだと思っています。番組でも言っている人がいましたが、長引く避難生活によって、避難先が生活基盤になりつつあります。いや、すでに賠償金をもとに新たな生活先を探し出している人も結構耳にします。あの自然豊かな飯舘村が消滅の危機に瀕しています。可能であるならば、どうか取材をお願いしたいところです。
津田アナウンサーへ
あれから、二年たちますね。石巻から山形に避難しています。雪国で生活は大変です。宮城の避難者とも交流がなく孤独生活を送っています。福島の情報ばかり入ってきます。宮城の被災者も慣れない土地で、頑張っています。取材をお願いします。
ふくしまをみまもって
わたしは、福島県浪江町に住んでいて、原発事故のため、福島県二本松市に避難しています。統合失調症を患っています。避難中、服薬できない時があり、症状が悪化しました。この先、浪江町に戻れるかどうかわかりません。不安です。そんな中、わたしの楽しみは、コーヒータイム(障がい者の福祉事業所)に通うことです。喫茶店を開いています。お客様から「また来るね」という言葉をもらうのは、うれしいです。また、全国の皆様からは、コーヒータイムに対して、たくさんの支援をいただきました。感謝です。ありがとうございました。これからも、ふくしまを、コーヒータイムを見守っていてください。