【キャスター津田より】2月25日放送「岩手県 大槌町」

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今回は岩手県大槌町(おおつちちょう)です。人口が約11000で、震災では10mを超える津波に襲われ、1200人以上が犠牲になりました。人口の約8%にあたり、十数人に一人の割合です(現職だった町長も亡くなりました)。被災家屋は4300棟以上で、実に7割近い世帯が自宅に被害を受けました。

 あれから12年たった今、復興事業は完了し、町は新しい施設であふれています。ホールや図書館などを備えた文化交流センター、三陸鉄道・大槌駅の新駅舎、駅と一体化した観光交流施設、焼き鳥店からジャズ喫茶まで、9つの飲食店が入る駅前の屋台村など、人が集まる場ができました。他にも、消防署や各地区の公民館、県立大槌病院、震災前の学校を統合した小中一貫校の大槌学園、こども教育センター(=放課後教育の拠点)、野球場、サッカー場等々、新しいものに囲まれたきれいな町になりました。浪板(なみいた)海岸の海水浴場では消滅した砂浜の再生事業が終わり、去年、12年ぶりに海開きが行われました。ギンザケやトラウトサーモンの海面養殖によるブランド化が進められ、害獣駆除で仕留めた鹿肉の加工場も稼働して、ジビエによる町おこしも始まっています。

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 はじめに、文化交流センターに行き、毎週木曜日に開かれているマージャンの交流会を訪ねました。リーダーは70代の男性で、震災の5年後から活動を続けています。当時、高齢男性は仮設住宅にこもりがちだったため、孤立防止のために始まりました(今では女性会員もいます)。“賭けない、お酒を飲まない、タバコを吸わない”がモットーの健康マージャンですが、約40人の会員の大半は高齢者で、一人暮らしの人もいます。男性はこう言いました。

「最初は被災地でマージャンしていて、抵抗があったんですね。“お前ら、何でマージャンしているんだ”なんて、かなり言われたことがありました。でも狭い仮設にいて、外に出なかった高齢者の方が何人かでも外に出て、遊んでくれるのが楽しいんだよな。今も2週間、顔を出さなかったら確認をとりましょうって決めて、会の規則の中に“見守りも兼ねましょう”と書いてあります。みんなで集まって、和気あいあいと、これからも長生きしたいと思っています。“高齢者、集まれ”っていう感じです」

 次に、町の中心部から約2㎞の災害公営住宅を訪ねました。95歳の母親と暮らす60代の女性は、津波と火災で大槌駅前にあった自宅を失ったそうです。高齢の母親の体調を考え、元の場所には戻らず、震災2年後にできた公営住宅に入りました。茶道の師範で、町内に5人いた師範も3人が津波で亡くなったそうです。以前はよく公民館などで茶会を催しましたが、人口が町外に流出し、津波で亡くなった人も多く、震災後は回数がかなり減りました。いまは主に、作法を解説した資料を作っています。

「大槌の駅前で生まれて、駅舎と駅前の広場が遊び場で大槌を離れたことがないから、大槌を愛しています。やっぱり12年の間に、かつてお茶を楽しんでいた人たちは高齢になったし、若い人たちはお茶に触れた経験がないし、大きな穴が開いてしまった…大槌町にかつてあったお茶の文化を、絶やしたくないです。もし若い人で、自分たちでお茶会サークルを組んで、お茶会をつなげる方が出てくれば、資料は“これを見ながら勉強してね”って、あげようと思っていました」

 町の人口は、震災前から30%以上(約5000人)も減っています。商店など民間事業所の数も、2009年の770軒から2019年には463軒に減っています(減少率39.9%は県内の被災市町村の中でトップ)。大槌町では、災害公営住宅(876戸)の整備完了は震災の8年後で、最後に完成した住宅は計画より約5年遅れました。集団移転事業(全496区画)でも、最後に整備された宅地の引き渡しが震災の8年後で、予定より4年遅れました。土地の取得に難航したのが最大の理由で、2つの事業とも県内で最も時間がかかっています。工事完了を待てずに人口は流出し、土地区画整理事業では整備した土地が空き地になるケースも出ています。全4地区での工事完了まで8年かかり、現在、区画整理区域(52.6ha)の利用率は8割ですが、民間の宅地(全967区画)に絞れば、利用は半分程度と見られます。

 その後、9年前に取材した方を再び訪ねました。70代の宮大工の男性で、中心部の町方(まちかた)地区にあった家は津波で全壊し、郊外にある作業場も2mほど浸水しました。母、姉、おいを津波で亡くし、7年近くに及ぶ仮設暮らしを経て、元の場所に自宅を再建して夫婦で暮らしています。以前の取材では、町を盛り上げようと道具を新たにそろえ、津波で失われた山車(だし)を作っていました。

「また元のように戻って、みんなとねじり鉢巻きして、祭りをしたいなと思います。みんなニコニコして、何もなかったような気持ちで祭りができるというのが、一番私が願っていることです」

 この取材の4か月後、無事に祭りが開催され、男性が作った山車が町を練り歩きました。その後、男性は大病を患ったものの奇跡的に回復し、現在は仕事を半ば引退して、静かに暮らしています。

「体はどこも悪くなかったし、完璧だったのに、あの震災からダメだもんな。何より、亡くなった人の夢を見るんだもんね。“何でまた、今朝もこんな夢見るのかな”と思ってさ。地獄だった…あの震災の時の光景を見たら、何と言われようと、しぶとく生きなくちゃダメだ。ここまで生きたからさ。あす死ぬか、あさって死ぬか分からないけど、生きられるだけ何とか生きたい、そんな気持ちでいるよ」

 さらに、文化交流センターに戻り、町づくり団体の代表を務める40代の女性にも話を聞きました。もともと名古屋市出身で、震災直後の4か月間、物資配達や仮設シャワーの設置など、NGOのスタッフとして大槌町で支援活動を行いました。震災の翌年には大槌町に移住し、町づくり団体に加入。地元の男性と結婚して、今では一児の母です。町内で行われる様々なイベントを企画・運営しているほか、震災の語り部活動にも力を入れ、県内外の小中学生を中心に伝えています。

「夫のお母さんの友だちとかが、うちの息子を孫感覚でかわいがってくれるのを見ると、すごくありがたいなって…“地域で育てる”ってこういうことなんだと本当に思います。働いて、子育てもして…という忙しい生活だと、今いてくれる家族って一番後回しになりがちですが、震災の語りをさせていただくことで、“家族でご飯食べられるって、すごいよね”っていう、当たり前のことを気づく機会をいただいています。津波で亡くなった人たちも、当然、死のうと思ってその場にいたわけでないし、助かった人はたまたまその瞬間、その場所にいなかっただけで、亡くなる可能性は誰にでもあって…。日常ってすごいと思うようになったのが、震災の仕事を始めてからなので、すごく良かったなって思います」

 また夜には、役所から車で5分の割烹料理店を訪ねました。ここでは大槌町で生まれ育った18才の男子高校生が、店を手伝っていました。一家で海沿いから高台に引っ越して間もなく震災が発生し、何とか津波の被害は免れたそうです。3年生の彼は、すでに盛岡市の調理専門学校への進学が決まっており、進学前に料理の現場を学ぶため、町内の割烹を紹介してもらいました。

「自分が育った町なので、人を増やしていきたいですね。できたら大槌で店を開きたいです。大槌は人が少ないので、店に毎日通いたくなるくらい美味しい料理を作って、人を集めていきたいと思います。もっとたくさんの人とつながって、自分の店が建つ時も手伝っていただけたらいいなと思っています」

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 最後に、大槌町を離れて盛岡市に向かい、ここで暮らす町出身の若者を訪ねました。大学に通う20歳の女性で、小学校の下校途中で被災し、自宅は全壊しました。5年ほど仮設住宅に住んだ後、家族で盛岡に移住したそうです。盛岡の高校に進学し、現在は教育学部に在籍して教師を目指しています。

「小学校で震災を経験して、先生たちが学校を普通の状態に戻すために一生懸命動いてくれたのを見ていて、自分もそうなりたいという気持ちが強まりました。中学校の時に英語スピーチコンテストで入賞できたんですけど、今も自分を奮い立たせるものになっています。自分の人生にとって震災は大きな出来事だったけど、今につながる学びも得られました。自分の人生で学びをプラスにしていけるように、頑張っていきたいです。大槌って、本当に人と人との距離が近いんですね。知らない人でも、すれ違えば挨拶するのが当たり前だったので、盛岡に来て、すれ違った人に挨拶していたんですけど、すごく変な人に見られて、“あ、違うんだな”と思って…。地元の空気感が好きなので、地元で働いて、お世話になった人たちに少しでも恩返しできたら…そう思っています」

キラキラした目の輝きが大槌町を明るく照らしているような、若者のすがすがしい表情でした。