【キャスター津田より】12月4日放送「福島県 浪江町」

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 今回は、人口16000あまりの福島県浪江町(なみえまち)です。原発事故による避難指示で全住民が町外への避難を強いられましたが、事故発生から6年後の2017年3月、帰還困難区域を除き、人口の8割が住んでいた地域で避難指示が解除されました。

 その後、町は着々と変化しています。JR常磐線が再開し、浪江駅と東京や仙台がつながりました。災害公営住宅が100戸以上完成し、去年オープンした道の駅は、週末に多くの人で賑わいます。大手資本のイオンが手がける食品スーパーや、90室以上の客室と宴会場を備えたビジネスホテルも営業し、デイサービス施設や金融機関、双葉(ふたば)郡唯一の自動車学校なども再開しています。

 基幹産業の農業では、地区ごとにコメの生産組合が設立され、今年の作付面積は去年からほぼ倍増しました(町全体で170ha)。この秋にはコメの乾燥・貯蔵を行うカントリーエレベーターが2つ完成しています。トルコギキョウの特産化も進められ、町が約95億円で整備する県内最大規模の牧場の建設も決まっています。請戸(うけど)漁港には漁船が戻り、魚市場での競りも再開しました。

 さらに、世界最大級の水素製造拠点や産業用ロボットの研究開発拠点も稼働を始め、沿岸部に整備した産業団地では、複数の民間企業の工場が稼働中、ないし進出が決まっています。

 一方、避難指示がまだ解除されていない、人口の2割が住んでいた帰還困難区域の津島(つしま)地区や大堀(おおぼり)地区などの方々は、今も町外で生活するしかありません。これらの地区の一部では避難指示解除の目途もありますが、それでも1年以上先の2023年春です。

 はじめに、町役場から車で5分の、評判のうどん店を訪ねました。オープンは2年前で、今では県外からも客が訪れる人気店です。店主は町出身の60代の男性で、高校卒業後に上京して外食産業の企業に勤め、やがて独立して居酒屋を経営しました。東京に妻を残し、1人で浪江に移住したそうで、実に43年ぶりのUターンです。実家に住んでいた母と義姉は避難先の仙台に定住し、傷んだ実家は解体して、そこにうどん店を建てました。町には高齢者が多いため、食べやすいうどんの店にしたそうです。

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 「寂しかったですね。育った場所が無くなって、草がボーボー生えて、名前も知らないような、でっかい鳥がいっぱいいて、イノシシもいて…“これでいいのかなぁ”と思ってね。同級生も散り散りにどっか行っちゃって、遊んでいた場所も、通っていた小学校も中学校も無くなったけど、残っている人たちは、“西内さん、帰ってきてうどん屋やってるんですって!行きます、行きます”って言ってくれたり、それはうれしいですね。浪江のみんなに喜んでもらっています。心から元気にならないと、笑顔になれません。みんな笑顔でこれから過ごしましょう、そういう気持ちです」

 次に、川添(かわぞえ)地区に行き、2週間前に帰還したばかりの人を訪ねました。50代の母と20代の息子、そして80代の祖母の3人家族で、父と祖父は震災前に病気で亡くなったそうです。避難先の南相馬(みなみそうま)市に中古住宅を購入して住んでいましたが、放置したままだった浪江の自宅を解体し、敷地内に新しい家を建てました。おばちゃんはこう言いました。

「避難先からしょっちゅう来ていました。南相馬から車で20分くらいで来られるから。この土地を見て、また南相馬に帰る、その繰り返しをしていました。何回も来ているうちに帰ろうかなという気になって…。ここにいれば、先祖代々をずっと守れるしね。みんなで帰ろうって、家を建てました」

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 また、お母さんはこう言いました。

 「ここに来て、せいせいするな、戻ってきたなって感じます。風景は変わりましたけど、“ああ、ここに暮らしていたんだな”って実感があります。2、3日前も、近くに住む人に“戻ってきたのか”って言われて、“でも仕事は(町外の)原町(はらまち)なんです”って言ったら、“気をつけて行けよ”なんて、そんな会話がありました。仕事に行って、空いた時間はその辺を散歩して、ドライフラワーになるいい花を見つけて、自分なりに飾って納得するような、そんな何気ない生活をしたいと思います」

 そして、なみえ創成中学校に行きました。町内にあった小中学校は、原発事故後の児童・生徒の激減で全て閉校ないし休校し、3年前、なみえ創成小・中学校が新たに開校しました。中学2年生は3人で、 そのうち一人の女子生徒は、3歳まで浪江町で育ち、親の転勤で茨城県へ移った後、2年前に浪江町に戻ったそうです。避難指示の解除後に祖父母が町内に自宅を新築し、それに合わせて親も役場職員に転職して、家族で浪江町へ戻りました。現在は、弟2人とともに3世代で暮らしています。

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 「浪江に来てからは、よくイノシシに遭いました。キツネとかもいて…。イオン(スーパー)ができて食材は大体手に入るんですけど、服とかは無理なので、そういうのが欲しいです。役場の人に“浪江に欲しいものある?”って聞かれて、普通に“しまむら(衣料店)欲しいです”って言いました(笑)。こっちに来てからは時間を気にしないで、暗くなるまで外で遊んでいます。きょうだい仲良しで、毎日楽しいです。前は“東京に行きたい”って思っていたんですけど、最近は何かもう、浪江でできることをやって、浪江の発信をしつつ自分も仕事をする、そういう感じがいいなって…」

 町では今後、子育て世代の帰還や移住・定住政策に力を入れる方針です。3年前に開園した町立認定こども園では、来年春までに保育室を増設し、定員を3倍に増やす方針です。

 その後、原発事故から8か月後に福島市の仮設住宅で取材した、当時70代の男性を再び訪ねました。妻と長男夫婦、孫3人の7人暮らしでしたが、避難で家族は離散しました。当時はこう言いました。

 「先の見えない避難生活は厳しく感じています。老人クラブのみなさん、元気でしょうか。早く帰って、また元通りゲートボールなどをしましょう。先日も一時帰宅しましたけれども、草なども背丈以上に伸びていて、私たちももう老齢で、これを元どおりにするのは大変だと感じました」

 あれから10年…。男性は89才になりましたが、今も元気に暮らしていました。4年前の避難指示の解除後、自宅をリフォームしてすぐ帰還したそうです。男性はもともと梨農家ですが、除染のため梨の木はすべて伐採しました。長男一家は原発事故の7年前に、家業の梨栽培を継ぐために東京から戻りましたが、全町避難で再び東京へ行ったまま、今も浪江に戻る予定はありません。

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 「屋根を直すのは大変だったよ。雨漏りも何回もやったから。天井の板も全部取り替えたんだ。こっちに来て落ち着いた感じはするけど、ちょっと寂しいな。夜、寝る時に必ず戸を開けて家の灯りを探して、帰ってきた家がないか確認するんだ。今は老人クラブで、ボッチャとか練習して楽しんでいます。70代ぐらいの若い人が多いんだけど、90近くでも行けば仲間に入れてくれるからな。今は100歳って、結構いるよな。“100歳まで”っていう意気込みを持って頑張らないと」

 最後に、町外で暮らす人に会うため、車で2時間の本宮(もとみや)市に向かいました。現在、人口のうち町に住むのは1割に過ぎません。避難指示の解除まで丸6年かかっており、生活を立て直すために町外で住む家を決め、仕事を探すなり、商売を再開するうちに、町に戻りにくくなってしまった方がほとんどです。訪ねたのは、従業員6人の自動車整備工場を営む70代の男性で、浪江町内で事業を起こしたのは今から44年前です。原発事故後は妻と2人で本宮市へ避難し、事故の翌年に空き工場を借りて仕事を再開しました。しかし、2年前の台風19号で阿武隈(あぶくま)川が氾濫し、工場が2階まで浸水。被害額は約5000万円で、自宅も浸水してリフォームしました。原発事故と台風の“二重被災”で心を折られそうになりましたが、息子と力を合わせ、今年6月に新しい工場を本宮市内に再建しました。

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 「ここは縁もゆかりも、何にもない所だから、浪江がいいんだけれども…生まれ育った所だからね。今も浪江のお客さんからの仕事には応えています。いつでも浪江に戻って工場を再開できるように、材料も道具も全部揃えたんだけど、働いてくれる人がいない…浪江で働いてくれる人がいるんだったら、戻っちゃうんだけどね。台風の時は、本当にきつかったね…水が引いてから、同業の修理屋さんがトラックで車を引き上げに来るのを見て、ひたすら無念でした。息子がいなければ、震災と台風で終わりですよ。年だけど、浪江の工場はやりたいんです。浪江でもうちょっと頑張りたいんです」

原発事故で双葉(ふたば)郡から県内各地に避難し、台風19号でも被災した“二重被災”は325世帯です。うち約80世帯が浪江町民でした。町民の事情も実に様々だということを改めて感じます。