照屋寛徳 元衆院議員 死去 社民党の国対委員長や副党首を歴任

社民党の副党首などを務めた照屋寛徳 元衆議院議員が15日午後、沖縄県内の病院で亡くなりました。76歳でした。

照屋氏は、終戦の年の昭和20年に、サイパンにあったアメリカ軍の捕虜収容所に生まれ、琉球大学を卒業したあと、昭和47年に弁護士となり、アメリカ軍嘉手納基地の爆音訴訟などに携わりました。

沖縄県議会議員を2期、参議院議員を1期務めたあと、平成15年から衆議院議員を連続6期務め、社民党の衆議院議員としては全国で唯一、小選挙区の議席を守ってきました。

また、社民党では国会対策委員長や副党首などを歴任しました。

照屋氏は「高齢になり、病気の後遺症もある」などとして、去年10月の衆議院選挙に立候補せず引退していました。

関係者によりますと、照屋氏は、がんを患っていて、自宅で療養を続けていましたが、先週、沖縄県西原町内の病院に入院し、15日午後に亡くなりました。

76歳でした。

沖縄関係者から悼む声

社民党県連の委員長を照屋寛徳氏から引き継いだ新里米吉元県議会議員は「健康状態が厳しいと聞いていたので、一両日中に会いにいこうとしていた矢先だったので驚いています。照屋さんは前原高校時代の1期先輩で生徒会長、私は副会長でした。そのころから復帰運動に熱心に取り組んでいましたし、政治家になってからも常に沖縄に関わることを発言したり、課題のある現場にはみずから出向いたりしていました。長い間、頑張ってくれたことにお疲れ様でしたと伝えたいです」と話していました。

沖縄県の玉城知事は「心からのご冥福をお祈りします。時代の潮流にもまれ続ける沖縄と県民の将来を常に案じ、現状を切り開くために先頭に立っておられた闘士であった。沖縄はこれからも頑張って未来を展望してまいります。どうか安らかにお休み下さい」とするコメントを出しました。

那覇市内でも悼む声がきかれました。

那覇市の68歳の女性は「政治家としてまっすぐなところが好きでした。自分の信念を持って基地問題などいろいろなことを考えてくれた。お疲れさまでした、よく頑張りましたねと伝えたいです」と話していました。

那覇市の80代の女性は「国会で県民のために頑張ったと思います。今までいろいろな面で苦労されたと思うので安らかに休んでほしいです」と話していました。

県外出身で豊見城市の70代の男性は「自分の主張を言ってひかないという気持ち、沖縄の人の精神なのか、逆境に強い印象です。亡くなったと聞き驚いています。お疲れさまでした」と話していました。

県外出身で那覇市の70代の女性は「テレビでよく見かけ沖縄独特の話し方が印象的でした。沖縄のためにしてくれる人だなと感じました。お疲れ様でした」と話していました。